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オプシーボを使う

父の肺癌治療にあたり、初期に2種類の投薬を行った結果は内蔵に負担が掛かりすぎてしまい、余命3日と言われるまで死が高まったものの、そこから回復。その内臓へ負荷をかけた1種を外し、残る1種類で治療を続けるも、結果的に肺癌への効果はなく、やや大きくなる経過となっている。

ここまで、オプシーボを利用するに辺り必要な経過でもある。

いきなりオプシーボを投与するには特に強い結果を期待するものではなく、副作用もそこそこにあるだけに、初回から投与する薬ではないらしい。ただ、初期の投薬治療の際に「オプシーボが期待出来るかもしれない」と担当医には何らかがあったらしく、キーワードとしてたまに出ていた。ノーベル賞が話題だった時期とも重なり、なんとなく家族としても期待を持つ薬でもあった。

ただ、オプシーボは免疫力を高める薬とのことで、自分の身体も攻撃する可能性があるとのこと。そしてそのタイミングが読めない薬でもあることが、事前の承諾として確認された。

オプシーボ投与してすぐに副作用として出る可能性もあり、何度か投与してから出る場合もあり。そして、その出たタイミングで急激な進行の可能性もあるとのこと。

肺への副作用が出やすい傾向にあるという話もあり、肺機能が弱っている父にとってその副作用が死に至る可能性もある。という状況は共有した。ただ、「苦しくなったら昼間に家族に電話する」と答える父にその危機感はあまり無い気もする。

不必要に落ち込む必要はないけれど、事実上一人暮らしを続ける父にその可能性を抱えたまま離れて暮らすのはストレスが大きい。今回の治療に於いて、またしばらく入院生活かなと安堵の気持ちを一瞬にして破壊される。

治療を続ける前向きな姿勢は良いと思う。ただ、周りの家族も負担が大きい上に将来への希望が薄い。なんの為に生き延びるのか?その問に答えがみえない。

もちろん、人は生まれてきたからこそ「生きる」という使命を持ち、社会のなかで生活をする。死は誰にとっても嫌なものであり、出来れば後回しにしたい気持ちも分かる。では、そこまでして生き残った上で、一体何がしたいのだろうか?と。

書棚に詰まった本を読み終えたい。記録を残したい。夢に見続けた景色を見たい。写真を撮りたい。好きだった食材を思う存分食べたい。そういうことが見えない。
でも、それは言い換えると「目的が無い人は生きる資格がない」とも言える意見になる。それは個人の生きる尊厳を脅かす価値観でもある。

【社会に於いて、自分は必要な存在なのだろうか】そんなことを考える時が誰にでもある気がする。でも、社会にとって必要かどうかは考える必要はなくて、「自分が生きたいと望むなら生きるべきであり、生きる権利がある。」とう単純な部分へと着地することになる。

だったら、父も生きるべきなのである。


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