死を選択できない人間は、いつまで生き続けるべきなのだろうか。

老いとともに、生と死、もしくは死を考えるなんて話題はあるけれど、その中間があるのだと思っている。

死を意識してから死ぬまでがそれ。死を迎えるまでの期間であって、その時がいつ来るか分からない時間。それも、今日明日という短い時間ではなく、来年なのか、10年後なのか、いや、でももしかしたら明日なのか。と、幅広い感じ。

長く続けば疲労感しか無いけれど、短ければ「まだなにか出来たのでは」と後悔するパターンでもある。

死を迎えることは誰にでも訪れること。それを悲観してもしょうがないと思うだろうけれど、それは心身ともに健康な人の感覚だと思うし、ずっと自分もそんな感じだった。
終わりの無い入院生活。胃へ直接栄養を流し込む食事、薄れた意識、会話のない時間を過ごす母を病院のベットで眺めながら、僕の死への意識は変わる。

何のために生きているのか。その問いは僕をずっと悩ませる。悩むというよりも、答えのない問題を掲げられている感じ。感じ方次第だから、なんとでも言える。それは答えではない。

独断で母の胃ろうを選択した父は先に逝くだろう。残された母と僕らはどう向き合っていくべきなのか。

我が家の家賃2ヶ月分以上のお金が母の入院の1ヶ月で支払われる。年金を使っての金額ではあるけれど、その点に於いては我が家を通り越して、国の政策の問題ではないか。年金と母の入院というシステムを通すことで、お金が流通しているとも言いかえられる。

このシステム、正解なのだろうか?

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。