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きのこ・・に至るまでの話

半世紀以上も前

1959年1月3日・・に生まれた事になっている・・
東京は文京区大塚4-27-・・
日本の年号で言うと・・・昭和・・平成・・そして令和
・・
 今居る自分・・昔を振り返り今を見れば未来・・
そうだだな・・とにかく今にしてその頃の自分を思うとガキでならない、全く何も考えずその場の時の事だけで・・
それが、少しは先の事考えて動くようになったのは・・・当時からどうしても深夜放送聞きたくってとの、麻丘めぐみ森を駆ける恋人たち・・を聞きたくて・・
 時は流れて、時代は・・高校は普通科で・まぁ~普通にバカだったなぁ~と当時を思いおこし反省・・ってのは、未来が見えないから特まだ経験も乏しい中途半端だが体力だけはあるぜみたい・・年齢でいうと16歳を超えたころ、親にバイクの免許取らせてくれ~(要は、教習所に行く金出してくれ~)と頼んだ時・・忘れもしないニュースがテレビで(時代的に、学生運動が落ち着き・・丁度日本の暴走族真っ盛りの頃)絞りハンドルの大型バイクに乗り凄む兄ちゃん達写しだされている・・(カラーテレビが各家庭に行き渡った時代かな)・・それを丁度夕食時間だったか・・今となっては細かくは憶えてはいないのですが、当時の母親が(事情があって義母でして)絶対にダメ!!っと・・^^; 教科書ちゃんと開いて、自分の為にと勉強した記憶のこれが始めてかも、そしてそれも、親に隠れて机に向かい教則本読み、模擬問題やり・・ある日東京は品川鮫洲へ原動機付・・属に原チャリの免許を取りに行き・・それからおいらのバイク人生も並行し始める。・・
 免許は取得したものの、当然バイク買うお金などなく、親に内緒で取った免許でもあるくらいの時代・・
高校を卒業し、少しは見た目だけは生意気にってきた、年齢は18歳、昼間は自分で、働き場所探してきてアルバイト続け、大学は、東京電気大学の夜間電子工学科に通うよになる。まずは駿河台下のガソリンスタンドでアルバイトを始める、その頃歳はまだ18歳、車は普通自動車の免許も取得しており、ガソリン代と学費稼ぎだった。
 
 時代は、世の中やっと学生運動が沈静化してきて・・ぐらいの時代で、それでもまだ時間があると、夜もガソリンスタンバイトで、お店に立って居ると、今はもう建物自体その容姿を変えてしまいスタンドの痕跡はありませんが、丁度、靖国神社下の交差点角だったせいもあるのか・・・顔を手ぬぐいマスクで覆い、ヘルメットかぶった数人皆が、丸棒立て持ちにてとピタリくっついて・・ざっざっざっざっ無言にて進んで行くにの何度か遭遇・・今でこそなんとなく話せるが、当時はまだ車の免許が取ったけど、まだお酒はダメってな年齢・・今自分を振り返らずとも充分にまだ子供ってかカギの時代・・
 その頃は高校時代の友人の原付・・モンキーを借りていて、スタンドのバイトに文京区で1人暮らし始めたアパートから通っていた・・
 1年か・・もう少しか・・しばらく九段下の(現在は違う建物になってました)ガソリンスタンドでアルバイト続け、モンキーは友人にお返しして、貯めたお金で、ホンダCB50JX1を自力で買い・・次に九段下のある、日本活字工業、通称NKKにアルバイト先を変える。
 九段下まで、原付で通い、そこで、社員のが、各印刷屋さんに今日配る活字を、平たい木製のお盆のようなもの振り分けあるのを、アルバトが自分の配達区分のトレイ持って出掛け置いてくるって分けで・・バイクで配達はお昼に一度帰ってきて、ま他午後でるが、車(軽トラ)で出て回るコースは1日回って丁度ぐらいの活字と、その配達距離だった(毎日集めてるくる活字の原稿の活字を町中というが、印刷屋さんてのは、その昔は全国街中至る処にあったのだ。)
何故・・そんな昭和の頃の話を書くかと言うと、今のしもじが振り返ると・・きのこ意識につなる日常・・振り返った時・・
頂きもの天然マイタケ・・虫とり・・頂きもの原木栽培シイタケアミ焼き・・食い過ぎゲロの海・・

 日本活字工業 NKK で、配達のバイトを始める。
それまでアルバイトしていたガソリンスタンドで貯めたお金で、ディアルパーパスと名目のホンダHL250とういうバイクを中古で手に入れる。
勿論そのバイクで配達をするわはなく、配達は軽トラでスズキキャリーだった・・エンジンは2ストで、配達担当エリアには専用の車両が番号がつきにてあり、担当したアルバイトが、その担当エリアの車両担当となる・・配達する活字は毎日凄い量で・・・朝出勤して配達にでるまでに、それはまたその道のエキスパートがゲタと言われるエリア番号が印された木のトレイに用意してあって・・だった。早く皆配達に行けよって・・面白い話しでもなけば、その時代珍しい話しでもないだろうって・・
・・じゃ~あみだくじ・・は・・って・・えっ?だろ・・^^

 会社は東京は神田駿河台下・・社員の方々はほとんどが電車通勤で、当時の国鉄・・都営地下鉄、バスなどとにかく公共機関を使っていた中、アルバイトも同じなのだが、車通勤は駐車場もないし認められていなかったが、バイク通勤は会社脇に路上にと、配達の車が出た後に場所が出来るせいか、何台バイク通勤だったかな・・今となっては、忘れたが、とにかく、アルバイト出社時刻少し前には皆路上にそろっており・・だからそんなには多く無かったのだろうな・・全員でじゃんけんをする、凄いスピードでじゃんけんする・・・ジャンケンぽん! ジャンケンぽん!ジャンケンぽん!とにく、勝ち負け半々になるまでやって、勝った同士又ジャンケンやって、お買い物1人決めて・・消費税のまだ無い時代・・200で缶ヒー飲むか無料で缶コーヒー飲むか・・から始まる。
そして、配達の準備が準備が始まると・・その活字をうんぬんしてるフロアの社員アルバイト(強制参加ではなかったが)あみだくじを始める、忘れたが、なんか丁度良い裏紙があって、そこの今日の人数分の縦棒引いて、あみだくじを作る、さらに不正が無いように(勿論無いのんだが、気持ちの問題だよね)その部屋の室長だったか、事務のお局様だったかが、横棒を足て、10人いたら、5人は1人200円、5人は無料、1人は無料だがお買い物あみだくじを行う・・これが日課で、おいら達が始めた分けではなく、伝統行事のよに・・毎日・・「お~い早くあみだくじやれ~出ないと配達でれねぇ~じゃないかぁ~」みたいな朝のバタバタ風景・・アルバイトでバイク通勤だとジャンケン負けて、あみだも当たると(当たりは200円払うって言う意味)その日いきなり400円はでかい出費になってしまった記憶が・・でも、長くバイトしてると最終的には大体プラスマイナス0って感じだったかな^^
その時ジャンケンとあみだくじなった缶コーヒーっては、その会社の前にある自販機にある缶コーヒーだけで
それを皆、おれはUCC・・とか、俺はベルねとか・・あみだに書いて言った遠い記憶が・・


そして・・配達組はやっと出発・・
おいらは、長距離組って言われるルートを担当しており・・(ちなみ短距離組ってのは、お昼に一端会社に戻りまた、午後配達にでる)
丁度お昼近なると、歴代のバイトの先輩やらに引き継がれた安くて美味くて量も沢山ってなお店の近くいるもんで・・^^

・・その日も・・狙ったよに、橋のたものにある小さな中華料理屋さん・・多摩川に現存する橋で・・どっちだったか・・丸子橋だったか・・ガス橋だったか・・
少なくともこれを書いてる今この瞬間より40年は前の話で、おいらはアルバイト学生で・・配達終え帰りは多摩川大橋東京側に向かってスズキキャリーだったか忘れたが、バイトの軽自動車はしらせる、丁度夕方のラジオから流れてきたのが、サザンオールスターズ・・江ノ島~が見えてきた♪おれの家もちかい~~♪・・まぁ~逆方向にはってるけど時代的には、サザンがブレイク寸前くらいの時代・・で・・だから・・きのこ話はって・・そうそう忘れてた・・
 昼時少し前に、お店は人で一杯になる前にって言っても、めちゃ小さい店で、店に来るお客の注文料理より、昼は出前料理~みたいな感じ・・

 さらに、時代的に、のれんが下がっている出口付近い座らんと、エアコン普及率も、何じゃそれってってなご時世で・・

店に入って、あんかけ~焼き中華~っとどことなく大きな声で叫ぶと、気合いに入ったかっぽう着姿のおかみさんに言われ、旦那が目の前の厨房でにて・・じゅわぁ~~~~!と始める・・

 その日も同じくあんあけ焼きそば・・
目の前で旦那・・じゅわ~~~~~!とはじめ、でっかい中華鍋に、でっかいおたまで、中簿に並ぶ具材をすくっては中華鍋のうえを舞う他の具材に上手に混ぜ込んでゆく・・今とは違い待って間に携帯いじるとか・・全くない時代、テレビ置いてあるお店ならそれ見てるか・・ラジオ聞いてるか・・
まぁ~注文して長い時間待つわけでもないので、見るとはなしに、厨房であんかけの具を炒める店主の後姿・・
具は定番の野菜にウズラのタマゴの・・・と・・・勿論火を通す順番もあるし、盛り付けの都合もあるのだろう・・
テンポよくじゅわ~~じゅわ~~~!と、急に・・あっ!と言って瞬間主の手が止まる・・
別においらは狙って見てたわけでもないのだが・・

具材の、キクラゲを、オタマですくい上げた瞬間だった・・今思い起こしても、ほんのわずかな・・タイミング店内には、おいらしか居らず・・その目線も一応気にしたのか・・なにか、妙に気合いって、重みと・・その「あっ・・」ていう声かうなりってか・・
書くと長いが、一瞬の間である。

要するに、キクラゲすくい過ぎてしまったようで・・仕入れ具材の中でキクラッゲって今でも他に比べれば高い中華素材だもんね・・
えぇっい!て、そのオタマの中のキクラゲは中華鍋の高熱の上を舞う他の具材と一緒に中華鍋の斜面に落ちゆき、さらに、じゅわぁ~~!ざっ!ざっ!とそままテンポよくお皿に山盛り具のてっぺんは、クラゲとウズラのタマゴ・・・
 あの時おいらの視線がなければ、あのキクラゲ半分は具材の皿に戻っていたんだろうなぁ~って、ありえないような量のキクラゲの盛り上のウズラのタマゴ・・当時しばらく、話のネタにしてたなぁ~・・ (∩.∩)
あれから、・・40年以上・・今思い返しても、確かにその時のキクラゲの量は豪快で店主の気っ風の良さも嬉しく美味しく・・今近所にあれば・・・
ただ・・そのキクラゲがめちゃ美味しいとか、なんだとか、っていう、キクラゲじたいの味の記憶はなく・・とにかかくは店主のモーションだけが記憶に刻まれそれも・・きのこの話題になるどころでもなく、時間の流れのなかに埋もれててゆき・・・・おそらくと当時の僕は・・キクラゲがきのこだとも思ってなったと思います・・
その橋渡ると・・川崎だったなぁ~・・


 歳も20歳を超えてき・・昼間働きながら夜は大学というスタイルになり何年か経ったとは言え、今思っても、酒の味などわかるはずもない・・
自分のお爺さんは、普通にお酒すきで、老後88歳の米寿までは、晩酌に・・NHKのニュース見ながら夕食と熱燗・・それが、88歳期に・・おらきっぱりお酒とタバコはやめるといい、その日からきっぱりと。
後日爺さまの家に遊びに行くと、19時・・7時のNHKニュースを見ながら・・いつものテレビ前に座り夕食と・・ビールの中瓶が目の前に・・
おばあ様に裏でコッソリ(爺さん酒やめたってこの前自分から・・)と聞くと・・確かにお酒あれから1滴も飲んでないなく・・タバコも吸ってない・・
爺さまには・・ビールはお酒ではないらしいって話が、冗談ではなく、それなりきに真面目な話で・・明治生まれの爺さま・・父親に言わせると・・
おそらく生涯日本酒以外の酒って自分で分かって飲んだ事ないじゃねぇ~かって・・ウィスキーなんてい言っても分からなかったじゃねぇ~かと・・93歳没後に・・おいらに話してくれた、その父親は、げこではなかったが、お酒は飲まない人で、付き合いでグラス合わせくるくらいの人だったので、今思い返しても、父親と飲み屋のようなお店とかは勿論行った記憶もないいし、自宅で一緒にお酒の飲み語るなんてこと・・記憶に残ってないのだが・・
 書道家という職のせいもあり、ありがたい事に、その生徒さんと、そのまた生徒さん実家からとか、時期になるとお中元と・・お歳暮とか・・またその地方特産品みたいなのが届いたその中の1品というか、確か・・新潟だったか・・とにかく遠い所からある生徒さんの父親が、自採りで天然マイタケを、持参してきくれた・・
 
 時代的にまだ宅急便とかが現在のように普及してる時代じゃなく、車で来るにも、高速道路も東京からは高崎まで、あとは碓氷峠を越えないと軽井沢にも入れない時代
 余談だが、首都高速もまだ今のようになるまでにはこのあと何年もかかり、護国寺インターもまだドンッ詰まりで、改造人間キカイダーが乗ったサイドカーこのどん詰まり所でカッコづけポーズ撮影し、テレビ版のオープニングになった程の時代・・


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