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映画『イニシェリン島の精霊』を観て腐れ縁の意味を知る。

「おっさん同士の意地の張り合い」という、わりとどうでもいい話でここまで引き込まれるとは思わなかった。

『イニシェリン島の精霊』は1月27日から公開されている映画だ。1920年代のアイルランドの孤島を舞台に、親友に突然絶縁を言い渡された男と周囲の人間を巡る騒動が描かれる。

監督は『スリービルボード』、『セブン・サイコパス』のマーティン・マクナドー。『スリービルボード』から5年ぶりの新作となる。

傑作『スリービルボード』もそうだったが、今作も簡単には割り切れない「人の心」が多面的に描かれる。

最初は滑稽でもあった2人の男の諍いは、いつしか笑えなくなり怖くすらなってくる。そして引き返せない一線を越える。

登場人物たちの心が変わっていくさまに、映画を観てる私たちの心も揺さぶられる。

主演は『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』、『THE BATMAN』のコリン・ファレルと『ブレイブハート』、『パディントン2』のブレンダン・グリーソン。共演に『ダンケルク』、『アメリカン・アニマルズ』のバリー・コーガンが名を連ねる。

戸惑いから悲しみ、怒り、虚しさと様々な感情を見せるコリン・ファレルの演技は素晴らしくアカデミー賞主演男優賞にノミネートしたのも納得。

ブレンダン・グリーソンも素晴らしかったが、個人的にはバリー・コーガンの存在感が特に印象に残った。

冒頭で述べたように全編「おっさん同士の意地の張り合い」が続くうえ派手な見せ場もない(ショッキングな場面も感情を煽らないよう控えめに描いてると感じた)。だけど終始引き込まれ退屈する暇もなかった。

思い返すほど味わい深く、後を引く面白さもある。見応え充分なので気になってる方は是非チェックしてみて下さい。

【2月1日追記】
作品を見た方の感想を見ていると本当に色んな解釈があって納得してしまう。どれが正解とかではなく、観た人によって見方が変わるのが面白い。鑑賞後は他の方の感想を読むとより楽しめるかも。

これより以下はネタバレを含む感想&劇中で気になったこと(考察したいこと)について述べてるので、未鑑賞の方はご注意ください。

2022年製作/114分/PG12/イギリス

※以下は映画の詳細な内容に触れています。未鑑賞の方はネタバレにご注意ください。

【感想】

途中まではコルムがパードリックに絶縁を言い渡したのも仕方がないと思っていた。劇中でも言われているが、2人は何故これまで友人だったのか分からないくらい価値観が異なる。

芸術家肌のコルムからしたら、延々と馬の糞の話を聞かされるのは苦痛だろうし、コルムの余生を有意義に使いたいと気持ちも理解できる(パードリックがその気持ちを理解できないところにも価値観の相違が表れている)。

だけど、映画を観続けていくうちに2人は結局のところ似た者同士なのだと気づいた。

「類は友を呼ぶ」ではないが、価値観は違えど2人にはいくつもの共通点がある。

1つはどちらも意地っ張りということ。
「争いは同じレベルの者同士」でしか生まれないという言葉があるが、まさにその通りで、どちらも互いの主張を譲らなかったため争いは激化していくことになる。

2つはどちらも不器用ということ。
パードリックは見ての通りだが、コルムもやり方が極端だ。縁を切るにしてももっと上手いやりようがあるし、誓約をしたために自分を追い込むことになる。

3つはどちらも善き人でもあるということ。
パードリックは劇中でも言われているが「愚かだが良いヤツ」だ、というか無害な人間だ。だからこそドミニクも懐いていたのだろう。コルムもパードリックに絶縁を言い渡したがそれは嫌っているからじゃない。

パードリックが殴られた時は手を貸し馬鹿にされたら相手を殴りもする。こうした行動からもコルムが基本的に善人であることが伺える。

現実世界もそうだが、私たちが思う「人の印象」なんてものはあくまでその人の1面でしかない。

マーティン・マクドナーの作品では、登場人物たちは単純なキャラクターではなく1人の人間として描かれる。「この人はこんな人なのかな」と思っていると、物語が進むにつれその人の別の面が見え出す。こうした人物描写の複雑さがマクドナー作品の魅力の一つだと思う。

良いヤツの筈のパードリックはロバが死んだことにより一線を超えるし、理性的なコルムが血だらけで演奏に加わる姿は狂気でしかない。

別の面を持つのは2人だけではない。
島民には優しく振る舞う一方、息子を虐待し、パートリックのように見下してる人には挨拶もしない警察官や、神に仕える身でありながら暴言を吐く神父(暴言吐いてる場面は一番笑った)などもそう。

人間は誰しもがいくつもの顔を持ちそれを使い分けて生きている。この人間の多面性が実に面白い。

しかし自分ならどうするだろうか?
ある日突然、友人に理由もなく絶縁を告げられる。

多分、序盤のパードリックと同じく思い当たる節を考えたり、何とか改善を試みようとするだろう。それでも相手が態度を固辞するなら諦めて距離を置くようになる気がする。

もし、本作の舞台が街であったり現代の話ならパードリックもあきらめたかもしれない。人間は無数にいるしSNSで遠くの人と繋がることもできる。

だが、舞台となっているのは島民全員が顔見知りの小さな村で舞台は1920年代。こうした選択肢のない舞台背景もパードリックを意固地にさせた要因の1つだ。

時代背景という点でいえば、あらゆる面で劇中の2人の関係性を象徴するのが島の外の内戦。本作の舞台となっているのは1923年だが、1921年からアイルランドでは内戦が起きていた。

最後の台詞からも分かる通り、2人の諍いはアイルランドの内戦に重ねられてるが、皮肉なことにパードリックが内戦についてどうでもいいという態度を取っていることも周囲から見た2人の諍いへの印象と重なるのだ。

正直、この諍いは当人同士以外にはどうでもいいことだ。
自分に関わらない限りは、島民の話のネタにぐらいにしかなっていない(2人の仲を本気で仲介しようとする島民が出てこない辺りも関心の無さを表していると思う)。

パードリックが内戦を「どうでもいい」と言ったのと同じく、島民にとっても2人の諍いはどうでもいいのだ。

この島の人たちに好感が持てない理由の一つが「気のいい人」が登場しないことだ

パードリックとコルム、2人はそれぞれ動物を飼っているが動物が無垢な存在であるぶん、人間の愚かさが際立ってるようにも感じた。

きっと、このまま2人の奇妙な関係は続いていくのだろう。

こうした関係性を表すのに相応しい言葉がある。それは「腐れ縁」だ。
腐れ縁とは「縁を切ろうとしても断ち切れない、好ましくない関係」を指す。まさしくこの2人のためにある言葉だと思う。

【気になった点と考察】

劇中で2つほど気になった点ほどあったので述べておきたい。
どちらもパードリックの妹シボーンについての場面だ。
シボーンは聡明な人物であるが、閉鎖的なコミュニティと女性の権利が低い時代において、島での生活を息苦しく感じている。

1つは、そんなシボーンが遂に島からの脱出を決意し船で本土へ渡る場面。

この時、崖の上からパードリックが見送りに来ているが、その奥に黒っぽい服を来た人物が映っている。

もう1人の人物を見たシボーンが驚きの表情に変わるのも何か意味があるのか

この人物は最後までカメラのピントが合わず、誰かは分からないまま場面は切り替わる。この人物はいったい誰だったのだろう?
黒っぽい服を着ていたからマコーミックにも見えるが、同じく黒いコートを着ているコルムの可能性もある。

特にコルムはシボーンに対して「自分の同じタイプの人間」と共感している。だからこそ島を出たシボーンを見送りにきたのかもしれない。

もう1つは同じくシボーンが湖で佇みながら泣いている場面。

この時、自分の見間違いでなければシボーンの足元には脱いだ靴が置かれており、シボーンは裸足で湖に向けて立っていたことになる。
泣きながら裸足で湖に立っていた理由は何か?私はシボーンは自殺をしようとしていたのではないかと思った。

この時、マコーミックが手招きしてるのも意味深だ。マコーミックはシボーンをどこに誘おうとしていたのだろう?それは死の世界だったのではないだろうか。

結局、この時はドミニクがシボーンに声を掛けたことにより、何で泣いていたのか、何で湖にいたのかも含めうやむやとなる。そしてドミニクはこの後、湖で死んでしまう。これも奇妙な一致だ。

ただの偶然かもしれないし多分そうなのだろうけど、わたしはドミニクがシボーンに声を掛けたことにより、シボーンの死の運命がドミニクに移ったのではないかとも思ってしまった。

正直、この場面に関しては1度しか鑑賞してないので、本当に裸足だったか確証が持てていない。1つ目の疑問含め、鑑賞した人で何か気づいた人はコメント欄などで何か反応頂けると嬉しいです。

ということで『イニシェリン島の精霊』も素晴らしかった。多分、今年観た映画の中でも特に印象に残った映画になりそうだ。マーティン・マクドナー監督、次の新作が何年後になるか分からないが今後も追いかけていきたい。

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