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縄文時代と『結』と『講』その1

お不動様の世話人を仰せつかった。

故郷を離れ、30年以上が経過しているから個人的には、30年以上ぶりの、世話人。
いずこの地域にも、神社は残し伝えられてきた。
村の鎮守様として社をお祀りしてきた。
その伝統を受け継ぐのが、世話人の役目。
労力を惜しまず、地域のために活動する。それが結の本質ではなかろうか?
戦後のある時期まで、結と講は、色濃く残されてきたし、現在も受け継がれている。
冠婚葬祭に金銭や米、味噌、人手を出し合ってきたのが、結と講。
農村に農機具(田植え機やトラクター、耕運機)が入りだして以降、あっと云う間に付き合いだけの結と講になってしまった。

昨年、実証用ハウスを設置した台地が縄文遺跡上であることを知った。
台地の一角に、前方後円墳が鎮座し、傍らに、古代鬼怒川が遺した肥沃な水田地帯が広がる。真冬になると古墳と富士山が一体になる。
縄文時代に暮らした皆さんも古墳時代に生きた皆さんもこの光景を観てたんだろうな~と思いを馳せる景観。

左の杜が浅間塚(前方後円墳)手前が古代鬼怒川の流路あと!

20戸ほどの集落あとが広く点在していたようだ。
定住した14,000年前。皆が寄り添い、助け合わないと生きられない中で営々とつくりあげた日本独自のシステムが『結』と『講』なんであろうね!
その一つが、順番に回ってくるお不動様の世話人。
他にも、消防団員なんぞも、結であろうかと。
農家が過半を占めていた昭和30年代。
道普請と称した砂利道の整備も、用水路の整備も、(江連用水が三面側溝になる以前の用水)地域住民が行っていた。
自分たちのことは自分でする。

それを許さなくなったのは、高度経済成長とその背後にある労働力市場と消費社会。
而して、わが村の農家人口は激減し、併せて高齢化が進行中。
実証ハウスの周囲を見回すと、70代、80代の現役農家と越境してくる大規模畑作農家の下請け?の外国人労働者以外見当たらない。

農水の統計をみたらよろしい。
昭和40年代以降の農家戸数減少と平均年齢の推移。
たぶん、令和6年には、農家の平均年齢は70歳前後になっているであろう。

けっこう研究所

研究所と云えば、役に立たない論文なんぞばかりを書いているやに感じるが、実践をともなう研究所があってしかるべきだし、農村モデルを合わせて実践、提言できる場があっても良い時期かと感じている。

戦後生まれ世代の一員である我々世代の義務とも感じている。



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