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フリーランスになるきっかけ はじめてブックデザインをした話

1冊の本がある。
「CROSSROAD 20代を熱く生きるためのバイブル」
 監修:SANCTUARY (サンクチュアリ出版)
1997年に刊行された本。

ぼくが初めてブックデザインした本だ。

この本を作るまで本のデザインをしたことはなかったし、
デザインの勉強もしていない。

知識もスキルもゼロの状態から、完全に独学でやり始めて、
最後までやりきった初めての本の仕事だ。

二十数年前──
飲みの席でサンクチュアリ出版の社長の高橋歩くんに
半分冗談で言われた「本のデザインしてくれないかな?」のひと言。

それまでやったことはなかったし、もちろんできもしないことだった。

でも反射的に「やります!」と答えていた。

就職氷河期の真っ只中で、就職も諦めて、
未来に何の希望も見えてないときだった。

できるかどうかはわからないけど、
やるしかないと思った。

やれないなら、やれるようになってしまえばいい。
できなかったら、そのときはそのときだ。

そんな覚悟で始めた。

さて、いざデザインを始めるといっても、
何をどうして良いのかわからない。
何せ、半分遊びで作っていたフリーパーパーくらいしか作ったものはなかった。

まずは試しに本文のデザインのサンプルを作ることになった。

本の内容は、有名人の「名言集」。
20代を熱く生きた60人の象徴的エピソードと彼らの名言を掲載する。
見開き2ページで1人の人物を紹介していく構成だ。

試しに自宅にある名言集というものを見てみた。
「ことばの花束―岩波文庫の名句365」
という本があった。

普通の縦組みの本だ。
縦に字を並べるだけ…これならぼくにもできそうだ。
(実際はそんなに簡単なことではないことはかなりあとで知ることだ)

ただ、これではない。
オーダーされたものは全然違っていた。

超かっこよくしたい。
見たことがない本にしたい。
熱い本にしたい。

こんなオーダーだった。

「熱い」それがキーワードだった。
デザイン未経験のぼくに仕事を頼んだのも、
何となくその方が熱くなりそうだからだったとあとで聞いた。

見たことないような本…
見たことがないようなものは作れない。
大体、そんなによく本のことも知らないし。
考えても仕方ない。
こういうときは作りながら考えるしかない。

まずは作ってみることにした。

使うアプリケーションは、
フリーパーパーを作る時に使った
Adobe PageMaker(ページメーカー)というソフト。
ページを作るのだからこれで間違いないはずだ。
(ページメーカーは現在は使われていない。InDesignの前身的なソフトだ)

フリーペーパーは8ページほどの簡単なもので、
ほとんど何の機能も使っていなかった。
だからこのソフトの使い方も実は全然わかっていなかった。

「はじめて使うアドビ・ページメーカー」みたいなタイトルの
一番簡単そうなマニュアル本を買ってきてみたのだけど、
それでも専門的な言葉が並んでいて、
はっきり言ってわけわかならなかった。

ただ周りにデザイナーの知り合いも、
DTPをやっている人もいなかったので、頼れる存在は入門書1冊だけ。
そんな状態のスタートだった。

さて、まず何をするか。
どうやら作るものの大きさを決めるらしい。
つまり本のサイズだ。
家にある本のサイズを測ってみた。
作るのは「書籍」サイズの本ということだった。
いわゆる単行本だ。

試しに何冊か本を測ってみてわかったのは、
どれも微妙に大きさが違うということだ。

マンガの単行本、青年誌のコミックスのサイズは
128mm×182mmで、いわゆるB6サイズ。
文字がメインのいわゆる書籍は128mm×188mmで、
B6よりちょっとだけ縦に大きい。
マンガより格上だから少し大きいのか?(違います!)

これまでサンクチュアリ出版で出していた本を測ってみたら、
他の本よりちょっと大きいA5サイズ(148mm×210mm)だった。
家にある他のA5の本は図録などが入った本が多かったので、
これだとちょっと違う感じがあった。

どうもこの128mm×188mmというサイズが本っぽくてちょうどよさそうだ。
(ちなみにこれは四六判というサイズで出版社によって微妙に大きさが違う)
よし、これにしよう。
サイズは決まった。

そしてここで最初の選択だ。
縦組みか、横組みか。

いわゆる読み物の本であれば縦組みがいいだろう。
日本語が読みやすいのは圧倒的に縦組みだと思う。

しかし今回頼まれたような見開きごとに完結するような本で、
ページごとにデザインをする場合は横組みの方が自由度は高くなる。
その時そこまで考えていたのかはわからないけど、
直感的に「横組み」で作ろうと決めた。

サイズと組みの方向が決まれば、あとはページを作っていけばいい。

ページの中には何が入っているか。
書籍であれば文章、つまり本文が入っている。
それ以外に入っているのは、
すみっこの方にページ数書かれている「ノンブル」と
章タイトルが書かれている「柱」くらい。

その他に「見出し」があったり
更に細かく章を分けるための「小見出し」が入っていたり、
図表やイラストが入っていたり、
キャプションが入っていたりするが、
多くてもそのくらい。シンプルだ。

さて、これから作る本。
決まっていたのは、
1ページ目に人物の紹介を
2ページ目に名言を入れるということ。

もらった原稿をおいてみて、デザインを組んでみることにした

まずは印刷するスペースを決めるという作業をする。
版面(はんづら)というのだけど、もちろんこのときはそんな名前は知らない。

ページの上下左右に印刷しないスペースを確保する。
本を何冊か測ってみて、だいたいこのくらい余白を作ると良さそう
という値を入れて作ってみた。
(注:ここからの図は当時のデータも作業環境も手元にないので、できるだけ再現した現在のものです)

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本の内側(「ノド」という)の余白については製本されている状態では
きちんと測れなかったので切り取って測った。
正確にはわからなかったけど、とじシロがある分、
他の余白よりは多くとっておくようだ。
ひとまず3mm多く余白を取ってみた。

さて、この水色のスペースに要素を入れていくのだけど、
この時点でぼくはまだフォントというものの存在をきちんと理解していなかった。
Macに入っている書体が全部だと勝手に思い込んでいた。
だから、「本明朝」「平成角ゴシック」「丸ゴシック」「Osaka」
という書体のみで作り始めた。

まず一番重要なのは、その人物の名前だ。
これがページの中でのタイトルのようなものだから大きくなくてはいけない。
次に重要なのはその人の言葉つまり「名言」だ。
この2つをきちんと目立たせる。
それを基本としてページのデザインを組んでいった。

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組み上がったのはこんな感じの誌面だ。再現してみた。
すんなりできたわけではなくて、
ものすごく何度もやり直して試行錯誤の末にこの形になったのだと思う。
書体は、本明朝と平成角ゴシックの2種類しか使っていない。

悪くはない。優先順位はしっかり出せていると思う。
ノンブル(ページ数)の入れ方も、
通常は本の外側にいれるものを内側に入れてみたり、
左右のページで上下に入れてみたり、
何かオリジナリティを出そうと必死になっていたあとが見れる。

これをプリントアウトして持っていった。

「いいじゃん!イメージ通り」
特にダメだしはなかった。

あとは残りの原稿をもらっていって、
60人分のページを作ればいい!
そのはずだった。

そうはいかなかった。

問題は印刷所とのやりとりだった。

今まで作っていたフリーペーパーは、
自宅のインクジェットプリンタでプリントアウトしたものを
印刷所に持っていって、
それをコピーする形で印刷してもらっていた。
本の印刷はどうするのか知らなかったけど、
同じようにすればいいんだろうと思っていた。

打ち合わせでプリントアウトしていったページのデザインを見せて、
これを印刷すれば良いんですよね!?って聞いたら、
無茶苦茶困った顔をされた。

「データで入稿してください」

ページメーカーで作るのは問題ないけど、
それをデータで入稿しないといけないらいしい。
どう考えても、それはそうだとしか言いようがないが、
本当にそんな基本的なことも知らなかった。

「でもデータが大きいですよね。どうやって渡せばいいんでしょう?」

家にあるMac(PowerMacintosh 7200/90)には、
CD-ROMはついていたけど、CDに書き出す機能は付いていなかった。
フロッピーディスクはついていたけど、フロッピーには2MBくらいしか入らない。一体どうやってデータを渡せばいいのか?

「CDに焼いて入稿か、MOディスクでの入稿が一般的です」とのこと。
どうやらそのための機械を買わないといけないらしい。
話を聞くと、修正のやりとりなどを考えると
MOディスクとドライブを買うのが良さそうだということがわかった。

もう存在していないメディアなので一応説明しておくと、
MOというのは、光磁気ディスクのことで、
フロッピーの数百枚分の容量640MBが入いる夢のようなメディアだった。
ただ、2000年代に入ると、もっと大容量のメディアが出てきて
あっという間にすたれてしまった。

まずはこのMOというのを買わないと話にならない。
貯金も何もない二十代の若者にはけっこうデカい出費だった。
金額はよく覚えてないないけど、これでお金がなくなった。
少なくともゲームもアニメのレーザーディスクも
当面は何も買えなくなる生活になった。

さて、買ったMOディスクにデザインデータを入れて、
印刷所へ確認に持っていった。
これで何の問題もなければ作業が進められる。

翌日電話がかかってきた。
「えーと、これじゃダメですね、印刷できないです

「何がダメなんですか?」

「フォントが使えないフォントになってます」

「え?フォントって何ですか?」

「・・・・・」

印刷所で印刷するには専用の書体=フォントを使わないといけないらしい。

それを買わないといけないのか…。
そもそもフォントというものを売っているということすら知らなかった。

「どういうフォントを買うといいんでしょうか?」

印刷所の人に聞く質問じゃないとは思うのだけど、
他に聞ける人もいないので聞いてみた。

モリサワのフォントが一般的ですが、
あとはデザイナーの方によって変わってくると思います」

「なるほどモリサワですね」

とりあえず知りうる限りで一番大きな電気屋、
横浜のヨドバシカメラに行ってみた。

あった、モリサワのフォント、これだ。
値段は…ん? えーーーーーーーーーーーー!!!!
な、なんだこの金額。

書体1個が数万円!?書体1つですよね。これを何個も買うんですよね?
一式揃えたらこれいくらになるんだ?家が建つんじゃないか。
これはとても手が出せない…。
買うためにバイト漬け生活にならないといけないし、
第一そんなことしてる時間的な余裕はもうない。

のんきにフォントなんて買いに来ているけど、
じつはもうそんなことやってる場合じゃなかった。
次々とページを組んでいかないといけない状況なのだ。

モリサワは買えない。
どうにか他の書体で使えるものはないのか…。

どこにも聞けるところがなかったので印刷所の人に電話した。
ほとんど涙目だ。

モリサワは無理です。高すぎました。他に使えるのはないですか?」

調べてもらったら「ダイナフォント」というのが、比較的安価であるらしい。

印刷所では使わないTrueTypeという形式のものを買って、
それを印刷所で印刷用のフォントに変換して使えば対応できるとのこと。

店に戻ってダイナフォントを調べた。
あった。
いくらだったのか、正確な価格は覚えてないけど、
これなら全財産つぎ込めば買えそうだ。
明日からはかすみを食って暮らそう。

画像3

書体にダイナフォントを使って、実際の誌面をできるだけ正確に再現してみた。

今では使わない書体の使い方が逆に新鮮とでも言っておこうか…。
改めて再現すると字詰めも何も知らないからメチャクチャだし、
変な長体をかけて無理矢理文字幅を合わせてたり、
名前の部分のアルファベットの書体「郭泰碑」って何だ?
全然使わない書体だから調べるのが大変だった。
初めて見た。(って自分で作ったはずなんだけど…)

とにかく、今見ると理解不能な代物ではあるのだけど、
このときのまぎれもない全力のデザインだった。

とにかく、これでフォント問題は解決した。
もうこれで問題はないだろうと思ったら、
また申し訳なさそうに印刷所から電話がかかってきた。

「あのー写真のデータが印刷できないデータでして…」
こういうやりとりがこの後も何度も続いた。

写真のデータはJPGではだめでTIFFかEPSにすること。
写真の色はRGBはダメで、CMYKかグレースケールにすること。
ほんとに一個一個ダメだしをされながら学んでいった。

すごく細かいことだけど、こういうやりとりが印刷所と永遠に続く状態で、
印刷所の人もこんな素人相手に本当に大変だったろうと思う。
その時は、何かする度に問題が起きるので
印刷所とのやりとりが恐怖でしかなかったのだけど、
いま思うとここで印刷所の人に全部教えてもらったんだなと思う。
感謝しかない、本当に。

作業が佳境に入る頃、装丁をどうするかという話になった。

装丁、カバーや表紙のデザイン。つまり本の顔だ。

ものすごく重要な部分だということもあって、
装丁のデザインだけは有名なデザイナーに頼むつもりでいたらしい。

なんとなくそれを察していたのでぼくもそのつもりでいた。
内心やってみたい気持ちもあったけど、
そんな責任重大なことはちょっと言い出せなかった。

「これ、装丁のデザインも井上くんがやったほうが熱くね?
ぽつりと歩くんが言った。

「20代、未経験みたいなヤツらで全部作ったほうが熱い本になりそうじゃん」

ほんとにそんなノリで、装丁もデザインすることになった。

心の底からありがたいと思うし、
チャンスをもらって感謝してもしきれないのだけど、
こんな軽いノリでこんな重要なことを任せてしまって大丈夫?
という思いも少しあった。

でもせっかくもらったチャンス。
これはどうにかしてやるしかない。

もちろん装丁を作るのはこれが初めてだ。
本の表紙がどうなっているのかもよくわかっていなかった。

身近にある本をよく観察してみた。
本の構造、大体こんな感じだ。これは横組みの本(左開き)の本の場合。

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まず表紙があって、カバーがぐるっと本を巻いている。
その上に帯が付いている。
これを作ればいいのだ。

まず本の作り、仕様を決めないといけなかった。

何の本だったか忘れたけど、
手元にあった一番かっこよく見えた本を見てこれと同じ感じにしたいと思った。
黒い上製の本だった。
上製、並製という言葉もよくわかってなかったけど、
ボール紙を使って厚みがある本の感じが立派で、
本のサブタイトルにある「20代のバイブル」という言葉にぴったりな感じがした。

印刷所の人にその本を「これと同じ感じにしたい」と言って渡した。
紙のこととか全然分かってなかったけど、
今見るとすぐに分かる、表紙も見返しも「タントN-1」という黒い紙だ。

装丁の作り方については、買ってあった解説本に
「表紙を作る」という項目があったので、それを参考にした。

通常はAdobe Illustrator(イラスレーター)を使うらしいのだが、
今から新しいことを覚えている余裕はなかった。
とにかくトンボという印刷の範囲を入れる目印さえつけられれば、
何でもよさそうだったので、
多少面倒でも使ったことのあるソフトで組むことにした。

上製の本の作り方の見本はもらってあったので、
それを参考にしながら、まずはカバーを外した下にある「表紙」を作った。
表紙はシンプルなデザインが多いので、一番手が着けやすかったからだ。

上製の場合はボール紙に巻くための巻き返し分、
上下左右に15mm余白を取るトンボを打つのだけど、
これがとにかくわけわからなくてえらく苦戦した。
こういう作業にページメーカーというソフトは向いてなかった。

いま作ったら15分もかからないで作れるようなものだけど、
このときはソフトの不便さもあって、ものすご〜〜〜く時間がかった。

作ったのはこんなデザイン。再現してみた。

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ただ、これだと黒い部分を印刷することになるので、
印刷部分を反転して欲しいと言われて、作り直した。
で、反転させてこうなった。

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実際の仕上がりはこんな感じ。黒い紙に白のインクで印刷している。

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うん。なかなか、いい。
実はこの本で気に入っているのはこの「表紙」のデザインだけだったりする。
いま、デザインを再現してみても、けっこう思い切ったデザインしてるなと思う。
背に日本語のタイトルを入れてなかったり。
シンプルですごくいい。何より真っ黒なのがしぶくて好きだ。

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さて、あとはカバーと帯だ。

カバーと帯、これがまさに本の顔になる部分。
すごく重要だ。

当時のサンクチュアリ出版。
順調な会社だったとはとても言える状態ではなかった。
出版社と言っても定期的に本を出していたわけでもなく、
半年ぶりに刊行するこの本からシリーズを立ち上げて、
巻き返しにかかろうとしていた。

その意味では、言わば会社の命運を左右するような重要な1冊で、
かなりの大役を背負ってしまっていたんだなと、いまになって思う。

正直、その時は慣れないデザイン作業に追われ、
印刷所からは頻繁にだめ出しが入って、
プレッシャーを感じる余裕さえなかった。
完全にいっぱいいっぱいだった。

カバーについても考えてはいたけど、うまくまとまらなかった。
表紙で作ったようなシンプルに十字のマークと
欧文だけのシンプルなデザインを考えてみたけど、
いまいちピンとこない感じがあった。

それだとかっこよくはあるけど、地味で埋もれてしまう気がした。
もっとインパクトのある何かが欲しいと思った。
一瞬ぱっと見ただけで目を引くような何か。

そんなときサンクチュアリ出版においてあった
「メガプレス・エージェンシー」という
フォトエージェントの写真のカタログを見ていて、
1枚の写真が目に止まった。
町の上空で手を広げて飛び上がっている男性のモノクロ写真。
その姿が十字のように見えた。
人生の十字路・クロスロードを象徴するようなポーズ
そして上空にジャンプする勢いの良さ。

これだ!
この写真を使うしかない。

その場で満場一致で写真を使うことが決まった。

そして作ったカバーがこれ。

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そして無事、全部のデータを入稿した。

1997年7月のことだ。

本文の追い込みもあって、
徹夜で作業してもう間に合わないか!?ぐらいギリギリの入稿だった。
最後はまる2日くらい寝ないで作業していて、
最後のデータをバイク便で送った。

このときの達成感。
目が回って倒れるくらいの嬉しさだった。
人生で嬉しかったランキングでトップ5に入る多幸感。
「やってやった」という思いで爆発しそうだった。

これが初めてのブックデザインだった。

本のデザインは「できる」ことではなかった。
仕事を引き受けた時点では「できない」ことだった。
だからある意味、嘘をついて仕事を始めたようなものだ。

「5パーセントの奇跡 嘘から始まる素敵な人生」という映画がある。
「五つ星ホテルで働きたい!」という夢を叶えるために、
先天性の病気で95%の視力を失った主人公が、
障がいを隠して一流ホテルで見習いとして働きはじめる話。
職場にも同僚にも嘘をついて「見えるフリ」を貫き通す。
ただでさえプロフェッショナルなスキルが要求される現場で、
決定的なハンデを克服するために壮絶な努力でそれをおぎなっていく。
徹底的にすべての場所を記憶して、まるで見えているかのように振る舞う。
はじまりは嘘でも、とてつもない努力で克服していくことで道はひらかれていく。
むしろハンデがあったから、そしてそれを隠したからこそ、できた努力だ。
この映画、実話がもとになっているというから驚く。

ここまで壮絶な努力をしたかはともかく、
できもしないことをできると嘘をついたことから、
ぼくの仕事も始まった。

やりきってしまえば、嘘かどうかなんて、どうでもよくなる。
できないなら、できるようにしてしまえばいい。
ただそれだけだ。

完成した本を見てデザインについてダメ出ししてくる人もいた。
正直、素晴らしいデキとは言えないのは確かだ。
でもこの時、これをやったか、やらなかったか、
それは人生を左右するほど大きなことだった。

フリーランスになるきっかけについての話だったけど、
「デザイナーです」と名乗り始めたときから、
そのもっと前、名刺を作って何か仕事を始めようとした時点で、
全てが始まっていたのだと思う。

そしてはじめて自力でやりきった仕事が終わった。
「CROSSROAD」という本は、
ぼくの人生の交差点で、道しるべになる本になった。
ここから本当の意味でフリーランスとして生きていく毎日が始まる。

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…はずだったんだけど、ちょっと状況が変わってしまった。
この本を入稿して何日か後、本が完成してくる前に、
ひょんなことから急に会社勤めすることが決まった。
新聞社で本を作る部署で働くことになったのだ。

いきなり生活が激変してしまった。

そして完成した本が書店に並ぶ頃には、
終電を過ぎても帰れずに働き続ける激務の毎日が始まっていた。
本屋に行って、並んでいる本を見て
感動を噛みしめている余裕なんてなかった。

ただ本の方は好調に売れたようで、それには安心しつつ、
なんだか数週間前の喜びを他人事のように感じていた。

とにかく新しい日常の中で、驚くほどの忙しさに目が回る毎日だった。

そうして数ヶ月がたったある日、勤め先の新聞社に高橋歩くんがやってきた。
「井上くんにデザインを頼みたい本があるんだけど」

そしてまた新しい何かが始まった。

<前回までのはなし>


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