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【小説 神戸新聞文芸202311】ジントニック・ナイト

 あと数日で中秋の名月を迎える夕暮れ時、出版社から新刊の六刷決定の電話連絡を受けた在野の歴史研究家のTは書斎の椅子から飛び上がった。

飛び上がった瞬間は純粋に驚きだけだったが、時間が経つにつれ、その驚きが喜びへと変化していくのを、窓から見える、夕暮れから夜の入り口への移り変わりのように楽しんだ。 

 それまで所属学会の会報誌に掲載する論文しか書いたことのないTにとっては初めての一般読者向けの入門書で、読書や歴史が苦手なひとにもとっつきやすいよう、構成や文章に工夫を凝らした。

自信作だったので、この夏に本が出るので購入するなら取り置いておきますよ、と会うひと会うひとに手作りのチラシを渡すなど、自分のできる範囲で営業もした。

それでもTの新刊が書店で平積みになっているのを見ると、初版止まりだったら、初版の段階で大量に売れ残ったらどうしようと不安になった。

  幸い、複数の識者やインフルエンサーがTの著作を好意的に紹介してくれて、それからは売れ具合が激変した。

文字通り飛ぶように、蒸発でもしているのかと思うほど売れに売れまくった。

初版の発売日から一週間で二刷の連絡が入り、その翌週に三刷の、三週間後に発行部数を増やしての四刷の連絡が入り、これで出版社が損をすることはなくなったと安心したところに五刷の連絡が入った。

そして今回の六刷の連絡。


  ――自分へのご褒美に、ジントニックでも飲もうかな。

  Tにとってジントニックは欠かせないカクテルだった。

ジントニックがなければ人生はもっと暗いものになっていただろうとさえ思う。

どこか懐かしい気持ちにさせるジュニパーベリーの苦味と香り――大人にならないとこの良さは分からないだろう

――ライムの異国めいた爽やかな酸味、トニックウォータの優しい甘みが奇跡のような相乗効果を起こすこの透明な液体が体の中に入るや、Tにまとわりついているいっさいのネガティブなものが洗い流されていく心持ちがするのだった。

飲み会でも、はじめの一杯がたいてい生ビールかウーロン茶である中、Tだけジントニックを頼み続けるので、この頃になると飲み会の幹事が、Tさんはジントニックよねと気を利かせてくれるようになったほどだ。

  しかしジントニックを飲む前に新刊の売れ具合を自分の目で確かめようとTは自転車に乗って、駅前にある行きつけの書店に向かった。

新刊は一冊も置いていなかった。

著者であることを隠して書店員に本の在庫状況を訊ねると、ああ、あの本ですよねと教えてくれた。

 「予約がすごくて。もう人気アイドルグループが表紙の雑誌なみに殺到しています。実はわたしも従業員の役得で優先予約を取って読んだんです。いい本ですよ」

  書店を出たTは担当の編集者に電話し、お礼かたがた売れ行きについて探りを入れてみた。

新しく刷ったのも予約分でどんどんはけてしまうこともあって、店頭で買えないとクレームが寄せられているとのことだった。

 「T先生との出会いに感謝です。本当にありがとうございます。今度飲みに行きましょう」

  褒められて悪い気はしないものの、紙の本が一冊も見つからないことが少し残念でもあった。

せっかくだからと他にも書店を回ってみたが、新刊が見つかるどころか知らない間に閉店してしまっている書店が結構あって、それがTをますます寂しくさせた。 

 帰宅ついでに夕飯の材料を買いに行こうとスーパーに向かった。

秋の日は落ちるのが早い。

台風が近づいているせいかいまだに蒸し暑かったが、表はすっかり暗くなっていた。

  公園の前を通るとスズムシの鳴き声が聞こえる。Tは自転車を止め、耳をすませた。

見上げると、そろそろ満月になりそうな明るい月が輝いている。

月を見てからだと、スズムシの鳴き声がなぜかいっそう美しく聞こえてくる。

  ふと、スズムシを探してみたくなった。

Tは自転車を停めて公園の草むらに入った。

虫のいる気配はないが、確かに草むらから鳴き声が聞こえる。

絶対この中にいるはずだと、Tは四つんばいになって本格的にスズムシを探した。さっき自分の新刊本が見つけらなかったことの代償行為のようにさえ思えてきた。

  公園の近くにある派出所から出たひとりの若い警官が、草むらで何かを真剣に探しているTを見つけ、声をかけた。 

「すみません。何をしていらっしゃるんです? 落し物ですか」

  ええ、お金を落としてしまってと適当にごまかせばよかったのを、根が正直なTはありのままに答えた。 

「スズムシを捕まえようとしているんです。実にいい声で鳴いていたもんですから」 

「ご職業は」 

「無職ですが、歴史を研究しています。本当に、ただ虫を探しているだけですよ」 

「身分を証明できるものはありますか」 

 職質されても無理はないかもと思いつつ、虫を探しているくらいで職質を受けるなんて窮屈な社会だなとも思った。

  職質が終わった後もしばらく探したが、スズムシは見つからなった。  

――そうだ、今晩、自分へのご褒美にジントニックを飲むんだった。

  スーパーに向かっている途中、自宅でジントニックを作って飲むことを思い出したTは、夕飯の食材のついでにライム一個とジン一瓶を買い足した。

トニックウォーターは置いていなかったが、近くの酒屋で小ぶりの瓶二本手に入れることができた。

  帰宅して夕飯を食べ終わったTは、あらためてキッチンに入ってジントニックを作った。

タンブラーに氷を入れ、ジンを多めに注ぐ。

ライムの果汁とトニックウォーターも注いで炭酸が抜けすぎないよう注意深くかき混ぜた。

素人が初めて作ったとは思えない、ご褒美の域を超えたジントニックが出来上がった。

  秋の夜、誰に気兼ねすることもなく、自分が飲みたいブレンド比率のジントニックが飲めるのは何という幸せだろう。

新刊やスズムシを見つけられなかったことがどうでもよく思えてくる。

見つからなくても、存在することさえ分かっていれば、それで十分じゃないか。 

 Tはタンブラーを書斎に持っていき、ますます満月に近づく月を眺めながらジントニックを飲み続けた。

  ――あの月は今でも十分きれいなのにまだ完全ではない。

いや中秋の名月になっても、来年のそれはもっと美しい月になっているだろう。

自分の人生もきっとこれからだ、何だか面白くなってきたな――

丸みを帯びたアイスキューブの快い冷たさを唇に感じながら、Tはジントニックの残りを一息に飲み干した。

(終わり)

★『ジントニック・ナイト』は神戸新聞文芸2023年11月分発表に向けて書いた短編小説です。落選しましたが愛着のある作品なので公開することにしました。元原稿は改行していませんが、オンライン上読みやすくするため、文ごとに改行しています。

★著作権は本木晋平にあります。無断複製・引用はご遠慮ください。

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