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【小説 神戸新聞文芸 202401】イロハモミジの栞 ※落選作(選外佳作)

 恒例の古本まつりで買った古本の一冊に見覚えのある栞が挟まれているのを見て、ケンタの時間が止まった。
 ケンタが十代の頃、恋人のユウコに贈った手製の栞だった。
 電車を乗り継いで行ったデパートの文具売り場で売っていた手漉きの厚手の和紙に、紅葉の名所で知られる古刹の庭園に落ちていたイロハモミジの紅葉を押し花にしたのを乗せてラミネート加工した。
 栞違いということはない。自分が作ってユウコに渡した栞と同じだ。
 この本はユウコが読んだのだろうか。ユウコも読んだのだろうか。それとも、挟んでいることを忘れたままどこかに売ったり譲ったりして、ケンタのところまで流れてきたということか。
 この本だと迷わずに買った栞が挟まっている。ユウコと本の好みが似ていることがうれしかった。
 シマザキユウコの名前、せめてファーストネーム、ユウコの名前だけでも、いや、彼女の書いた文字や落書きでも、どこかに書かれていないか。ケンタは落丁乱丁を調べるように何度もページを繰って検めた。
 名前も、ユウコらしい手書きの書き込みもなかった。
 裏表紙の右肩に、古本まつりで買った古本屋とは別の、大阪の古本屋のラベルが貼り付けてあるだけだった。古風ながら、それ自体小さな美術作品とも言えそうな凝った作りの藍色のラベルには電話番号が書いてあった。
 古本を売ったひとの情報を第三者に教えるなんてことはないのは分かっているけれど、そこの古本屋に電話してみたくなった。どんな方でしたか、彼女はお元気そうでしたか、幸せそうでしたか……
 ケンタは古本と栞の写真をスマホで撮り、SNSに載せた。買った本から栞が出てきたのでお返ししたいので連絡してほしい旨コメントを添えた。ユウコから返事が来ればいいと思った。
 ケンタがユウコと会ったのは中学三年のときだった。父が転勤族だったので引越しと転校を繰り返していたケンタが、最後の引越しで通うことになった中学でユウコと同じクラスになったのだった。
 四月生まれのユウコは早生まれのケンタには早熟しているように見えた。実際ユウコは何でもできた。
 おそらくは、できすぎたせいだと思う。ユウコはいつも、クラスからひとりだけ浮いていた。非社交的ではないけれど、ここは本当の居場所ではない、でもどこに本当の居場所があるのか分からない、そんな愁いを含んだ表情で、ひとり本を読んでいることが多かった。
 ユウコを思い出すとき、学校の図書室で南向きの窓に向かって分厚いハードカバーの全集本を読んでいるイメージしか浮かばない。ケンタの中で一枚の美しい絵が現れる――清澄な光に包まれた静謐な空間なのに、誰にもうかがい知れない悲しさを湛えている少女が描かれた絵。
 あるとき、ケンタは思い切って、本を読んでいるユウコに話しかけた。
「熱心に読んでいるけれど、何の本?」
 ユウコはケンタの顔を見た。目が合った。ユウコの読書の邪魔をして、何かひどく悪いことをしたように思った。その分、不思議な高揚と達成感もケンタを包み込んだ。やった。近づいたぞ。俺だけが近づいたぞ。
「『大地』。パール・バックの『大地』」
 小説はおろか読書の習慣のないケンタは、国語の授業中退屈しのぎに眺めていた副読本に書いてあった情報を必死で思い出した。
「アメリカの女性の作家だったっけ?」
「そう。読んだことあるの?」
「ない」
「何を読むの?」
「何も、読まない」
 少しの沈黙の後、ユウコは声を出して笑った。普段笑わないユウコが笑ったのが、ケンタにはひどくうれしかった。
「変なの」
 変だと言われて幸せな気持ちになったのは、後にも先にもこの一度きりだった。
 ケンタとユウコは別々の高校に進学することになった。ユウコはいわゆる進学校で、ケンタは大学進学者もいないわけではないという高校だった。
 卒業式の日、ケンタは手作りの栞をユウコに贈った。家の近くの幼稚園のバザーで買った厚手の手漉き和紙に、近くの公園のイロハモミジの、特にきれいな紅葉を選って作った押し花を乗せてラミネート加工したものだった。
「いろいろ読む本を教えてくれたから、お礼に」
「ありがとう。すごく、おしゃれな栞。手作り?」
「うん。気に入ってくれて、よかった。作った甲斐があった」
 ユウコへの告白のつもりだった。好きなのに好きだと言えないつらさ。自分の気持ちに正直になれないつらさ。でも、ユウコには、自分は釣り合わない。自分にはふさわしくない。 
 甘い苦しみというものがあるなら、まさに今のこの気持ちだろうとケンタは思った。
 それ以来、ユウコとは音信不通だった。
 SNSに栞の写真を載せたとき、ケンタには、会いたいひとと久しぶりに会いたいという自然な情感だけがあった。だいたい、ユウコももう結婚しているだろう、子供もいるだろう、幸せでいてくれたらそれでいい。
 結果は予想もしない形でやってきた。二ヶ月ほど後、SNSにユウコの母親から返事が来た。一度お会いしたいということだった。
 嫌な予感は的中した。数年前、ユウコは、がんで亡くなっていたのだった。独身だった。
「娘が大切なひとからもらった栞だと何度も見せてくれたのと、あまりにもデザインが似ていて。それと、大切なひとと言っていたひとの名前が、あなたと同じ名前だったので」
「そうでしたか。あの、この栞は」
「きっと何かの縁だと思います、こういうこと、なかなかないと思いますよ。そのままあなたがお使いになれば。そしてときどきは、娘を思い出していただければ」
 ユウコの母親は顔を上げた。ユウコと同じ目だと思った。ユウコのかんばせが浮かんだ。
「そうします。ありがとうございます」
 帰宅したケンタは、イロハモミジの栞を文箱にしまった。
「お帰り、わたしの青春、わたしの初恋のひと」
 頭の中に浮かんでいる図書室で本を読むユウコに聞こえればいい、この思いが届けばいい――ケンタは祈るように呟いた。
(終わり)

※著作権は作者(本木晋平)にあります。無断引用・無断複製を禁じます。

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