【ショートエッセー 神戸新聞文芸202401】筆は選ぶもの ※落選作

 二十歳のとき、成人祝いで父から万年筆をもらった。まったく親不孝なことだけれど、父がくれた万年筆はわたしの手に馴染まなかった上、二年もしないうちにペン先が割れてしまったので、そのまま捨ててしまった。現在愛用している万年筆は、四半世紀前、当時東京の日本橋にあった丸善の文房具売り場で買った万年筆である。会社員になって初めての冬のボーナスで買うこともあって、購入前に何度も書き味を試したことを覚えている。
 万年筆に限らず筆記用具はこだわる。鉛筆やシャープペンシルは使わない。基本は万年筆かボールペンで、そのボールペンも、好みのメーカーの、好みのインクを芯に充填した、ボール径が〇・七ミリ以上の太書きサイズでないと、文字を書く気にならない。
 紙にもこだわる。たいていはフライヤーや刷り損ねの裏に書く。両面真っ白な紙が苦手なのかもしれない。原稿用紙は市販のものを使うが、これも原稿用紙を裏返して横書きで文章を書いていく。原稿用紙のあのマス目の中に文字を埋めていくのを考えただけで緊張して何も書けなくなってしまうのだ。一度、東大阪にある司馬遼太郎記念館で彼の原稿を見たことがある。マス目など気にせず自由に文字を書いてあって、マス目が苦手なのは自分だけではないんだと心強かった。
 もっとも手書きすることはほとんどなくて、今はたいていネットブックという低価格の小型パソコンで書く。しかしこれにもこだわりがあって、どのネットブックでもいいわけではない。まして普通のパソコンだと書けなくなる。まったく書けないわけではないが、どうしても集中の糸が切れて休憩する回数が増えてしまう。
 アマチュアのくせに、才能もないくせに、いい年して神経質過ぎないか、などと言われても、駄目なものは駄目だから仕方がない。ただでさえ、文章を書くというのは、誰も踏み入れたことのない山へ狩りに出かけるような心もとなさの中で頭を目一杯使う作業なのである。馴染まない道具は生産性に影響する。何かしっくりこないなと思ったが最後、そのしっくりこないという想念にすっかり縛られて書くどころではなくなる。
 金にも名誉にもならない文章を書くようになる前、ある初老の作家が、愛用しているワープロが製造中止になったことを知るや、同じ型番のワープロを買えるだけ買ったという記事を雑誌で読んだ。そのときは、そんなものなのかな、くらいにしか思わなかったが、金にも名誉にもならない文章を書くようになった今、使い慣れた型番のワープロを買い漁った作家の気持ちがものすごく分かる。
 弘法は筆を選ばずということわざがあるが、ことわざを作ったひとは絶対に書道の素人である。弘法大師だって筆を注意深く選んだに違いない。万が一、万が一だ、大師が使う筆に頓着しなかったとしたら、わたしは彼の鈍さが心底羨ましい。憧れはしないが羨ましい。

※著作権は作者(本木晋平)にあります。無断引用・無断複製を禁じます。

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