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【ショートエッセー 神戸新聞文芸202403】白菜のように ※落選作

 寒くなると白菜が出回る。大好きな野菜というわけではないが、体を温める鍋料理や煮込み料理をする機会が増えると自然と白菜の出番が増える。

 白菜が入るとボリュームが増すし、ビタミン類や食物繊維も豊富で体調が整う気がする。それに、だしを吸った白菜は美味しい。そのときどきの旨みを吸って蓄えた白菜は、白菜自身が持っているかすかな甘みも加わって、他の野菜では得られない満足感を与えてくれる。何より、旬のものを食べているという感覚が好きだ。冬の恵み、凝縮された冬の良さそのものをいただくありがたさ。実際、どんなに寒い日でも、窓が鳴り建物が揺れるような強い北風の吹く日も、よく煮えた白菜を食べると、冬も悪くないなと思えてくる。

 その白菜は料理の主役になることはない。白菜がないと作れない料理は、わたしの知る限りではない。その一方、白菜が入っていることが多い料理に白菜がないと物足りなくなる。記録的な不作の年なのかと慌ててしまう。たとえば白菜の入っていないすき焼きはすき焼きと言えるのだろうか。わたしだったら、白菜のないすき焼きもすき焼き、乙なすき焼きなのだ、と自分に言い聞かせながら食べることになる気がする。

 白菜は色は薄く、味も薄い。でも、「吾輩は白菜である。名前もちゃんとある」などと主張しない。そこがいい。

 そんな白菜のような人間になりたいと思うようになったのは、ここ二三年である。

 「醸肥辛甘は真味にあらず、真味は只これ淡なり、神奇卓異は至人にあらず、至人はただこれ常なり」という『菜根譚』の一節を思うことが増えた。「本当のよい味は薄味であり、本当のよい人は特徴のないひとである」――学生時代に初めてこの一節を読んだとき、退屈なことを書くものだと思った。特徴がないのは良いこともしていないからでは、とさえ思った。

「人は一代、名は末代」のかわりに「悪名は無名に勝る」という下品な言い回しが登場してきた頃だったと思う。これからは他人と替えられない人材にならないといけない、個性やオリジナリティが大事だと教育されてきたことも影響しているのかもしれない。ともかく若い頃のわたしは、自分がいいと思ったことは少しでも早く、ひとりでも多くのひとに広めるべきだ、そのためにも伝え方やパフォーマンスに工夫を凝らさないとだめだと考えていた。

 あれから四半世紀、すっかり特徴のない中年男性になった今、若いときの考えは浅はかだったなと思う。

 伝え方を工夫しないと伝わらないようなものに大した値打ちはないのである。本当にいいものは、そのままでもちゃんと響く。

 さて、これといった特徴のないわたしは本当にいいひとだろうか。本当の美味さを持つ白菜には遠く及ばない気がする。精進します。(終わり)

※この作品の著作権はわたし(本木晋平)にあります。無断での引用・複製・販売を固く禁じます。

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