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【小説 神戸新聞文芸202403】除夜の鐘の音数え ※落選作(選外佳作)

 あと数時間もすれば音もなく年が変わる頃に除夜の鐘が鳴り始めた。

 除夜の鐘は煩悩の数の分、百八回鳴らされると言われていて、そうであれば当然百八回聞こえるはずでる。もっとも、実際に百八回鳴ったか確認したことはない。三十秒ごとに鐘が鳴るとすると、百八回目を聞くまで一時間近くかかる。一時間も鐘の音に集中する能力を持ち合わせていないわたしには無理な話だ。一時間も集中できないから大したことも成し遂げられなかったかと思う一方、集中力をそういうことに使うのも集中力の無駄遣いではないかと自分を慰めてみたりもする。  クリスマス後の冷え込む晩、飲み納めにと行きつけのバーで会ったお坊さんのことを思い出した。

 もちろんスーツ姿だったが、スキンヘッドで線香の香りがしたし、社会人にはない浮世離れした感じを漂わせていた。わたしの席から一つ離れたカウンター席で、ジンのストレートを気持ちよいペースで飲んでいた。こういう飲み方をされたら酒も本望だろうという、実に惚れ惚れする飲みっぷりで、酒仙という言葉を思い出した。

 酔った気安さから、失礼ですがお坊さんじゃないですかと声をかけた。

「日本にもシャーロック・ホームズっているんですね。いかにも坊主です」

「お坊さんが年の瀬に酒なんか飲んでいいんですか。仏罰がくだるのでは」

「仏罰? そんなのがこわくて酒なんか飲めますかいな。こんな美味いジンが飲めるなら、もうどんな仏罰を受けたっていい、地獄に落ちたって構わんです。もうせっかくのご縁だ、あなたもこれ飲んで一緒に地獄に落ちましょう。寂しいじゃない、ねえ」

 お坊さんのざっくばらんな話しっぷりに、声を出して笑ってしまった。

「ところで、そろそろ大晦日ですね。除夜の鐘って、あれ、何で百八回鳴らすんですか」

「いろんな説があるんですが、そもそも百八回鳴らさないといけないわけでもないんです。うちは曹洞宗だから鳴らしますが、鳴らさない宗派もあるんですよ」

「初めて知りました」

「そう、除夜の鐘で、どうしても忘れられない思い出がいるんです。少し話が長くなりますが、聞いてくださいますか」

 どうぞ、と頷くと、お坊さんは飲み残しのジンをくいっと飲んで話し出した。

 坊主って、慢性的な供給過剰というのか、寺の数より僧侶の数の方が多い状態が続いているんです。坊主が増えるのに合わせて寺を増やすわけにもいきませんしね。

 そういうわけで仏教系の大学を出たわたしは修行を積みながら就職の機会をうかがっていたんですが、幸い、それほど待たずにとある町の寺の住職になれました。

 その寺がある町は、過疎化の波に飲まれてすっかり寂れていました。人口が少ない分、檀家の数も少なくて、近隣の町もカバーしないと生活できませんでした。

 寺も、町の寂れ具合を煮詰めたような寂れようで、人間よりも妖怪向けの物件ではないかと思うほど荒れ果てていました。しかし、その寺に設えてある鐘は、寺にも町にも不似合いなほど立派な作りで、かつての檀家がいかに裕福であったかがしのばれるのでした。

 その素晴らしい鐘で撞く除夜の鐘の音は格別で、町のひとも大晦日に寺の鐘を撞くのが楽しみらしく、むかしは鐘を撞くための整理券を配ったり、その整理券をめぐってトラブルが起きたりというほど鐘撞きの希望者が多かったという話を聞きました。しかし年々鐘を撞くひとが減って、わたしが着任した頃には百八人集めるのもやっとでした。大晦日に一発撞いてくれないかと営業した年もあるくらいです。まあ、鐘を撞かなくても大晦日を楽しく過ごす娯楽が増えたのもあるかもしれない。

 転任でその寺を離れる前年の大晦日でした。百八回目の鐘が撞かれた後、小学生と思しき女の子が鐘を撞きたいと申し出てきました。

 聞くと、今まで一度も鐘を撞いたことがないと言います。鐘の音の音を数える物好きもいないだろう、一回くらい多く撞いても、と、わたしは女の子に鐘を撞いてもらうことにしました。 

 女の子は、ありがとう、と満面の笑みを浮かべて帰っていきました。

 年の終わりにささやかながらも善事をしたとうれしい気持ちで鐘の周りを箒で掃いていると、突然、みすぼらしい身なりの老人が現れました。みすぼらしい、と言いましたが、なぜか高貴な感じがしました。どういうところを高貴に感じたのかうまく説明できませんが、寒山拾得の、寒山だったか拾得だったか、あの二人組みのどちらかみたいな感じと言えば何となくでも伝わるかもしれません。

「お坊さん、今年の鐘の音、一つ多かったね。百九回だった」

「鐘の数を数えてらっしゃったんですか」

「ああ。鐘の音が聞こえるたびに、この一年の煩悩の数が消えて心身が澄んでいくような気がしてね。だがこの年の暮れは違う。一つ多かった。どういうわけだ」

 わたしは、とっさに嘘をつきました。

「わたし自身の煩悩も流そうと、わたしがおまけで撞きました」

「どんな煩悩だ」

「わたし、酒飲みなんです」

 老人はあちこち歯の欠けた口を開けて、鐘のように大きく笑いました。

「さようか。委細承知、よいお年を。お坊さん。あなたのそういうところ、大事にしなさいよ」

 そのご老人、事情の全てを知っていたと思うんです。まあ、わたしを試したんですね。そして自分はそのテストに合格した。わたしは、女の子に鐘をついてもらったのとは別の意味でうれしくなって、胸がいっぱいになりました。

 いい町だな、こんなにいい町なのにどうして寂れていってしまうんだろうと、寺を離れるときはさすがにセンチメンタルな気持ちになってしまいましたね。

 話していたら、またあの町を訪ねたくなってきました。今頃どうなっているんだろうな。

 オチのない話で、ごめんなさい。

 とんでもない、いいお話をありがとうございますとお坊さんに拝んだわたしは、いい気分でバーを後にしたのだった。

 思えば、除夜の鐘の話自体、あのお坊さんの方便だったのかもしれない。

 今聞こえた除夜の鐘は何回目のだろう――いつの間にか冷たくなっている鼻腔を温めようと手で鼻を包みながら当てずっぽうしてみる。きっと八十八回目。末広がり。
(終わり)

※この作品の著作権はわたし(本木晋平)にあります。無断での引用・複製・販売を固く禁じます。

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