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「ジェンドリン哲学」登山ガイド(5): ジェンドリンの環境論と「人新世」、あるいは人間カタツムリ

ジェンドリン哲学という「過酷な山脈」への安全登山を目指す本企画。年末年始はスキップしてしまいましたが、2022年もゆるやかに続けて参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
今回は、ジェンドリンの後期の主著とも言われる、かつとっても難解で知られる『プロセスモデル(A Process Model)』の冒頭のお話です。プロセスモデルは、身体論として読むことができます。ジェンドリンにとって身体とは、環境と切っては切り離せないもの。ではこの場合の「環境」とはどうういものか、そして翻ってその時の「身体」とは何を意味するのか、整理しておきたいと思います。補助線として挙げるキーワードは、ここ数年来そこかしこで取り上げられ始めた「人新世」です。

人新世とは?


昨年、新書大賞を受賞した大阪市立大学の斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』で、この人新世という言葉は、広く社会に浸透することになった。この本での紹介部分を見てみよう。

人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

『人新世の「資本論」』

人間の経済活動、生産活動、消費行為は、例えばかつて恐竜を滅ぼした隕石の衝突や火山活動の活発化のように、「地質学レベル」にまで影響を及ぼしている。地表を舗装し、山を削り海を埋め、化石燃料を発掘し、マイクロプラスチックが海中にたくさん漂っている。宇宙ゴミの問題もしばしば指摘されているが、実際に人間の活動が地球環境に多大な影響を与えてきた。国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が、地球温暖化に対する人間の活動の影響を「疑う余地がない」と指摘している。

なお元々この「人新世」という言葉は、クルッツェンがとある会議のディスカションの中で、つい苛立って、思わず口にしたものなのだそうだ。現状を鋭く捉える発想が、このように不意打ちでやってくるのは興味深い。その後、2000年に論文化され、以来、現在の環境問題や文明論を扱うためのキーワードとなっている。

「因果応報」という仏教の言葉があるが、環境の中の人間の行いが、再帰的に人間自体に降り掛かってくるというコンセプトは、ジェンドリンの身体=環境論の特徴でもある。

ジェンドリンの身体=環境論

ジェンドリンの哲学分野での後期の主著『プロセスモデル』(Gendlin, 2018)は、身体と環境の相互作用プロセスから、行為や言語、創造性を説明するある種の身体論を含んでいる。その際に問題にされる身体は、現象学やプラグマティズムで想定されるそれと同様に、環境と常にすでに(always and already)、相互作用し続けている身体である。特に『プロセスモデル』の第1章では、身体と環境の捉え方についての4種類の定義づけをおこなっている。

 ジェンドリンはまず環境と身体を2つの異なる実体、つまり外側に環境(空間)が広がっていて、その中に物質としての身体が置かれているという視点をとらない。身体と環境にはすでに相互作用があり、相互影響するという考えから始める。特にこのような「はじめに相互作用プロセスありき(interaction first)」という発想から、『プロセスモデル』の第1章では、環境(身体と環境の相互関係)を4つの区分、環境#1〜#4として定義する(Gendlin, 2018, p.4-8)。

環境#1: 観察者の環境

 環境#1(en#1)は、いわゆる「観察者の眼差し」によって捉えられる環境、「傍観者の環境(spectator's environment)」である(Gendlin, 2018, p.4)。例えば、生物学者が動物たちの棲んでいる環境を捉えるときに見ているものが、環境#1である。

ジェンドリンの例だと、たとえ森の中に暮らすサルであっても、ある種類のサルは「樹」の上で暮らすが(クモザルとかホエザルとか)、別の種類のサルは「地面」の上で生活している(ゴリラとかチンパンジーとか)。この時に、「樹」や「地面」など呼んでいる環境中の要素は、観察者により抽出され記述されたもので、どちらの種族にとってもいわば”足場”として共通するものである。

観察者は目の前のサルの生活環境を観察するが、それは観察者の視点であり、サルがその環境を生きるようには、観察者は生きていない。観察者は、樹上のサルが木々を飛び移るようには、サルの生活世界を体験してはおらず、あくまで「別の生きている身体(another living body)」にとっての環境として想定されるものである。あくまで観察された環境が、環境#1である。

環境#2: 身体的に生きられた環境

次に出てくる環境#2(en#2)は、ある生物がその環境を正しく生きているプロセスそのもの、「再帰的に同一の環境」(p.4)と表現されている。
先ほどの例で言えば、樹上を生きるサルが移動し食事し睡眠をとる、まさにその環境のことを指す。この環境#2と生物の身体とは本来的に切り離せないものである。例えば、肺と空気が切っても切り離せず、それは「呼吸」という1つの生命活動のプロセスとして記述できる。「身体と環境は1つの出来事、1つのプロセス」(p.4)だと言える。空気はなくても肺はあるだろう、と想定できるかもしれないが、それが可能なのは観察者による環境#1である。

一方で、例えば「歩行」という1つの行為の中で、地面(による反発)とそれを踏み締める脚、という2つの異なる対象が立ち現れるように、脚と地面は、全く別物のでもある。と全く同じものというわけではない。「身体は環境と同一のものであり、同一のものでない」(p.5)とも指摘される。このようにジェンドリンにおける環境#2は、単なる身体と環境の未分化、融合化、一体化みたいなことを言いたいわけではなく、身体と環境の相互作用プロセスにおける双方の機能を分析するものでもある。

このような「同一であり、同一でない」という相反する関係性を、ジェンドリンは「含意(implying)」という語で説明する。「身体と環境#2は、お互いを含意する。それは、この哲学(プロセスモデル)基本を成す」もので、一般的な身体や環境の捉え方(環境#1的なもの)と異なる、とジェンドリンは強調する。「含意(implying)」はジェンドリン哲学やフォーカシング実践に通底するキーワードであり、彼が変化し続けるプロセス、さらにそこから差異や同一性を記述する際の重要な道具立てである。

環境#3: 生きられた環境の拡張と再帰

生物にとってまさに生きられちえる環境#2から生成されるものが、環境#3(en#3)である。ジェンドリンは、あらゆる生物の身体が身体と環境との相互作用過程の結果が蓄積(accumulate)されたものだという。端的に、私たちは食べたものが地肉になり、生活習慣が体型などの反映されるわけであるが、このような環境の中での行いの結果が身体に再帰的に影響を与え、蓄積し続けるということを環境#3として取り上げている。

ジェンドリンの挙げる例では、身体に”近い”ところから言えば、我々の肌や髪の毛は、私たちの生命活動の結果生じるもので、多くの場合、それは身体とほとんど同一視されるだろう。あるいは巻き貝が成長するとともに大きくなっていくその「貝殻」も生命活動の蓄積であるし、それだけではなく、当の生物の身体を離れて、蜘蛛が枝の間や軒下に「蜘蛛の巣」だとか、ビーバーが木を切り倒し築いた「貯水ダム」なども含まれる(p.6)。環境#3は、環境#2という生きられた身体=環境の拡張でもあり、それは生物の生命活動に直接的に再帰し、つまり環境#2に再びなるのである。環境#2と環境#3は相互に影響を与えるものである(p.6)。

生命活動により身体より拡張された環境#3は、直接的に生命プロセスに参与するものの、一見すると、たとえ環境#3が身体から切り離されたとしても生命活動には影響を及ぼさないように思えるかもしれない。ビーバーは森の中のダムから離れても生きていけるし、実際に動物園でも飼育されている。蜘蛛も、たとえ蜘蛛の巣から摘んで引き離しても死ぬことはない。ただ長期的に見れば、ビーバーが貯水ダムを作れる森や湿地帯が奪われたことで繁殖ができず、毛皮目的の乱獲だけでなく環境破壊によってヨーロッパや北米でも生息数が激減している。蜘蛛は蜘蛛の巣が破壊されると獲物を捕獲することができず、いそいそと新たな巣を作り、その巣のメンテナンスを欠かさない。そして巻き貝は貝を破壊されれば、おそらく直ちに命を落とすことになるだろう。

拡張された環境#3は、生命プロセスに密接に関与しているのである。ビーバーが、自身が環境#3として作り出した新たな生活の基盤(環境#2)をなくして生きていけないのと同様に、人間を含むあらゆる生物は、環境#3という自身の生命プロセスが生み出したものの再帰により、生命プロセスに直接的な影響を受けるのだ。

環境#0: 予期せぬ新たな環境の生起

最後に、ジェンドリンは環境#0という項目を想定する。これは、身体と直接相互作用する環境#2や、生命活動の結果として蓄積され、生命自身に再帰的に影響を与える環境#3の構築に、いつか影響を及ぼす可能性の余地のようなものである。これは、まだ現在には存在しない。環境#2が生成的で常に安定したものではなく、何かそこに新しい要素が生じれば、生命プロセスに影響を及ぼしうる。

例えば隕石の衝突のような出来事は、突然「外部」からやってきたように思えてしまうが、ジェンドリンはそのような「外部」を想定せず、環境の定義として未知の変化の可能性を環境#0という項目で定義づけているのである。例えば、突如として生じうる原因不明の未知のウィルスの流行は、その流行以前の身体にとってはまさに環境#0として想定されうる環境への影響要因として捉えられるだろう。

ジェンドリンの環境論と人新世、あるいは人間カタツムリ

「人新世」という考え方を、上記のジェンドリンの環境論から捉えようとすれば、人間がその経済活動の結果として生み出した現在の地球の状況=環境#3が、再び人間に再帰的に影響を与えるというのは至極当然の帰結である。
生産活動のために掘り起こした化石燃料を燃やし、その排気ガスを放出する(環境#3)。そして放出する先は、我々が呼吸するための「空気中」(環境#2)である。海も地中も同様、私たちが暮らす生活の連環のネットワーク、環境#2に他ならない。

『人新世の「資本論」』では、昨今の表面的なSDGsへの取り組みへの警鐘や、気候変動対策の問題点を批判的に論じ、「脱成長コミュニズム」という視点をこの状況を打開する選択肢の1つとして提案されている。少なくともジェンドリンの視点からは、これまでの約100年で人間の生命活動として変化をもたらした環境#3、それにより影響を受けた<コモン>としての環境#2をさらに改変するためできることは、環境#2と環境#3の新たな相互作用を生み出すこと、我々の現行の何かを変化させること以外にはない。

個々人のレベルではともかく、人類という巨視的な意味では、我々はいわば「自分自身で自分の背負っている貝殻を壊し続けてきた」と言っていいだろう。貝殻がなければ、巻き貝は生きてはいけない。自分で自分の殻を溶かす酸を出しながら生きてしまっている、不可解な動物が人間なのである。

荒川修作とマドリン・ギンズは『建築する身体』の中で、「人間カタツムリ(humansnail)」という詩的なメタファーを用いている。詩人のフランシス・ポンジュの「カタツムリ」という詩の引用によって展開されるこの人間カタツムリというモチーフから連想すれば、現状の問題の施急性に比して、実際に私たちにできる取り組みはどれをとっても、カタツムリのような遅々とした歩みになるだろう。『建築する身体』邦訳序文で、ルセルクルはこう述べる。

カタツムリは彼の家あるいは世界を背負っているので、その環境世界を抽象して思考されることはできない。そして、そのためらいがちな、だが頑固な歩みの過程で、カタツムリは世界を手探りで〔試行的に〕探索するのだ。

『建築する身体』フランス語版 序文

「建築する身体」というコンセプト、あるいは荒川+ギンズたちの手続き的建築という方法は、手探りで私たち(人間カタツムリ)自身の生きていく世界(環境#3)を「建築」していくことであった。私たちが生きているこの「世界」という殻を守る方法は、現実(環境#2)を這いずり回り模索しながら、我々の棲む新たな世界(環境#3)を作ることにある。殻を守るために、これまでとは別の仕方で、新たな殻を作っていく必要がある。自分自身を「カタツムリ」として設定する(setting)。環境#3の作り手でもあることを自覚して、日常を建築する営みが、荒川たちが狙っていたことであろう。

私たちは地球という大きな「殻」に守られて暮らし(環境#2)、その地球という「殻」は私たちの作り出すものでもある(環境#3)。人新世というコンセプトとジェンドリン哲学(あるいは荒川+ギンズ)を交差させたときに見えるのは、このような人間のカタツムリ性、脆弱であるが慎ましく逞しい生命活動の機微である。世界は私たちとは切り離せない。そして私たちは世界に影響を与え、影響を受ける存在である。その結果が今の世界に他ならず、もう自分たちの殻に閉じこもってはいられないようである。少なくともカタツムリには可能なように、その目や触覚をおずオズと出して、手探りに世界を詮索していくことが求められてるのだろう。

出典

荒川修作+マドリン・ギンズ(河本英夫訳) (2008).『建築する身体ー人間を超えていくためにー』春秋社.
Gendlin, E. T. (2018). A Process Model. Northwestern University Press: Evanston, Illinois
斎藤幸平 (2021). 『人新世の「資本論」』集英社新書.

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