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「フェル活」推進運動!〜 フォーカシングを指し示す社会記号を探して〜


「社会記号」という視点


最近、「社会記号」という言葉を知った。マーケティングのプロである博報堂ケトルCEOの嶋浩一郎さんの造語である。嶋さんの『欲望する「ことば」』(集英社新書)によれば、社会記号とは「女子力、草食男子、美魔女、おひとりさま、イクメン、インスタ映え..」などなど、いつのまにか現れ、社会に一般化して、新しい意味や価値を示すようになった言葉のことを指すようだ。マーケターやPRパーソンは、このような社会記号を自分で作り出したり、今あるものを広めたり、あるいは流通しつつある社会記号を敏感にキャッチして、それに合わせて何か新しい情報を提言したりするのだという。

例えば「イクメン」という言葉の登場は、以降の男性の育児への関わり方や男性の産休・育休に大きな影響を与えている(現状はともかく)。「朝活」という言葉で言えば、僕が中学生の頃は登校後すぐに本を読む(つまらない)行事だったのが、今や健康的で仕事ができる人の象徴のようになっている。いわゆる「推し活」も、従来のファン行動や、ある種の消費行動に別様の肯定的な意味を作り出したと言っていい。コロナ禍での「おうちじかん」などの用語も、自宅で過ごすなかでの量的・質的な充実感の改善のニーズを一言で言い表すキャッチーな言葉として流通した。

広く社会にPRするためには、このような社会記号の流通を常に意識し、ある時はそれに乗っかり、さらには新たな「ことば」を作りつつ、人々に新しい「あたりまえ」を作る必要がある。人々の潜在的な欲望から命名された社会記号(例えば「
おひとりさま」「おうちじかん」)が、新たな市場を作り出す(例えば「ソロキャンプ」「ひとりカラオケ」などのソロ活や、自宅での「お取り寄せグルメ」ブームなど)。こうしてモノやサービスが、新たな価値基準とともに、世の中に浸透していくのだそうだ。

フォーカシングをどう「文化」にしていくか


ちょうど昨年2023年の2月末に、個人での事業としてfocusing living laboという「フォーカシングの普及と発展」のためのプロジェクトをはじめ、まもなく一年が立とうとしている。大学の業務のすきま時間に(この"すきま時間"も社会記号か)細々と広報活動やワークショップを継続しているが、フォーカシングをどのように多くの人に知ってもらうか、あるいはフォーカシングをどのように広く一般に「あたりまえ」のこととして親しんでもらうか、それを言葉にするのがこのプロジェクトの重要な課題だと認識している。

いちおうfocusing living laboのミッションは「フォーカシングを文化にする」ということなのだけれど、これはつまり多くの人にとってフォーカシングを「当たり前のこと」にしたいということでもある。私たちがついつい外国に行っても人と会うとお辞儀をしてしまうように。あるいは、私たち関西人ががいつも話の「オチ」を要求したり(いつもではないかも)、いつも「これいくらで買ったと思う?」と安さ自慢をしてしまうように(これもいつもではないかも)。

フォーカシングを多くの人に知ってもらうために、どんな社会記号に注目したらいいのか、ここのところ考えている。自分の実感を大切にしたり、腑に落ちる感覚や納得感を重視すること。結論を急がず、じっくりとうまく悩みながら、結論を探すこと。「ウェルビーイング」や「ネガティブ・ケイパビリティ」などの用語(これは社会記号というにはまだ硬すぎるか)の周辺には、フォーカシングへの潜在的な欲望があるような気がしている。

新たな社会記号となりうる何かを想定しつつ、フォーカシングの普及に貢献する新しい「ことば」をつくることができないか、いろいろと試してみる必要がありそうだ。最近だと作りやすそうなのが、「〇〇活」という表現だ。先ほどの「朝活」や「推し活」もそうだし、他にも「ポイ活」という言葉は、買い物などで電磁マネーやポイントを活用してうまく運用することをうまく言い表せていたり。「腸活」という言葉も話題になり、何度も繰り返し訪れる健康ブームではあるものの、普段は割と地味な存在である発酵食品に光が当たったり、「白湯」というこれまた地味な飲み物が、ついにコンビニの売れ筋商品になるような影響力を持ったりもする。

そんなわけで、「○○活」という言い回しを使うことで、日常でフォーカシングを活かす方法を広報できなるんじゃないだろうか。中身やその実態はこれからもどんどん詰めていく必要がありそうだけど、自分は「まぁとりあえず作って考えてみよう」という発想で物事を進めていっている。まずは仏を彫ってから。

ということで考えたのが、日常の中でフェルトセンスを大事にながら行う活動やその場面、略して「フェル活」という概念である。

「フェル活」概念、爆誕


「フェル活」。語呂がいいのか悪いのかもよくわからないが、とりあえずは日常のなかで、あるいは特定の場面でフェルトセンスを大切にしたり、何からの行動や判断、考えに自分の実感を動員、利用して進めていくことを指すある種のハンドル表現、新しい言葉としておこう。

具体的には「フェル活」はどのようなことを指すのか。よくフェルトセンスの説明をする際に使われる例などが参考になりそうだ。師匠である関西大学の池見陽先生はよく、フェルトセンスを説明するときに「自分が何を食べたいかは自分の身体が知っている」という言い回しを使っていた。お昼ご飯に何を食べようか考えた時に、色々悩ましいが自分自身の身体に尋ねてみる。「洋食ではなくて和食がいい…でもあっさりしすぎていても、ある程度ガッツリ行きたい…とんかつ…は脂っこい気がするがそそられる…そうか、おろしとんかつがいい!ロースではなくヒレで!」…みたいな感じである。

いわゆる"その時の気分"というのを丁寧に確かめていくこと。これは確かにフェル活っぽい。自分が食べたいものを吟味したり、納得感をもって食べるということは、生活の質をより高めるような気はする。とんかつを食べる理由や言い訳にもなるか(?)。

あるいは、何かの意思決定の際にフェルトセンスを参照するということが案外大事だ、ということを「フェル活」的な言葉で表現してみるのはたしかにアリな気がしてきた。そこで思い出したのが、2013年にイタリアの名門サッカーチームであるACミランに移籍した本田圭佑選手の言葉だ。

入団会見でなぜACミランに来たのかを記者から聞かれた本田選手は「自分の心のなかのリトルホンダに『どのチームでプレイしたい?』と尋ねてみたら、ACミランだと言った。だからここに来た」という趣旨の回答をした。この会見は当時もとても話題になり、どうも当人が意図した以上に(不思議がられるようなかたちで)取り上げられたり、パロディ的に小さなホンダ選手の出てくるCMが作られたりもした。のちに別のところで本田選手はこのリトルホンダという表現について、「みんな自分の心の中や頭の中にいる、いわゆるもう1人の本質的な素の自分」を大事にしていないと指摘して、自分に嘘をつかないこと、本音を大事にすることの重要性を強調している。

”リトルホンダ”がそのままフェルトセンス的な何かかどうかは難しいが、自分の感覚や思いを重視するということに関して言えば、フォーカシングが大切にしている身体的な納得感、あるいは違和感に気がつくということとは大いに関連していると言っていいだろう。本田選手のいわゆる”ビッグマウス”的な側面も、自分の感性や自分の軸を大事にするあり方の体現そのものなような気がする。

類似する例として、ロックシンガーの矢沢永吉さんの名言「ボクはいいけど、YAZAWAは何て言うかな?」も連想させるが、これはむしろ世界のYAZWAのセルフブランディングの妙を示すエピソードなのでちょっと違う要素も入っている気もする...とはいえ自分の率直な思いにちゃんと気がついていることは、この「フェル活」に叶う特徴の1つと言ってもいいかもしれない。「僕はいいけど、僕の"フェルが"ちょっと…」と言うのが令和のフェル活的スタイル(かどうかはよくわからない)。

あなたの「フェル活」を教えてください


さしあたり「フェル活」という表現を使いつつ、日常生活のなかにある潜在的なフォーカシングの機会を掬い取ることができそうだ。ただ、たとえば「朝活」や「推し活」「ポイ活」は、どれも日常のなかで半ばルーティン定期にコツコツと継続していることを言い表すのに使われやすい印象がある。マインドフルネス実践や瞑想のように、1日何分座る、みたいなトレーニング化というか構造化されやすいものは「○○活」表現にハマりやすい気もするが、僕自身はあまりフォーカシングを1日10分みたいにルーティング的に行うものとしては捉えていない節がある。

むしろ生活のなかでモヤっとしたり何か逡巡したり、フェルトセンスが生じやすい場面をキャッチしながら、日常のなかでフォーカシングの練習をすることを大切にしたいと思っている。ちゃんとジムに通って、運動時間を確保することは大切だけれども、それってけっこうハードルが高かったり、続かなかったりする。それでも、日常の中でも一駅分歩いたり、階段を使ったりして運動の機会を得たりもできる。日常の中での機会を大切にするほうが、継続しやすかったりする。だから、しっかりとセッションやセラピーの機会があることとは別に、日常のなかに遍在するフォーカシングの習慣を意識することは重要だと思っている。
むしろ実生活のなかで、まだ潜在的だけれどフォーカシングを活用できるかもしれないような機会自体を「フェル活」と命名して明示化していくこと自体に意味がありそうだ。

「フェル活」という言葉を暫定的に作って、これでどういう展開が起こりそうかを。これでどんなことが言えそうか、しばらく遊んでみたり、実験してみたいと思う。実は自分自身はこれまで戦略的に、「フェルトセンス」や「体験過程」というフォーカシングに特有の用語をあまり使わずに、いかにフォーカシングを多くの人に活用してもらったり、馴染んでもらえるかを試してきたところがあった。よくわからない用語を使用することで、フォーカシングが忌避されることが回避したかったからだ。でもこれからはむしろ、「フェルトセンス」という用語をどのように使っていくか、流通させていくか、もっと多くの人に届けるかを大切にしたいと思っている。そのためには、新しい社会記号が必要がと考えている。

まだ中身も定かではないけれど、だからこそ自由さもある。とりあえず、一緒に「フェル活」をはじめましょう。ここでいうフェル活とは「日常のなかで、これはフォーカシングっぽいかも」とか「こういう場面ではフェルトセンスが際立つ」みたいな自然とフォーカシングの練習になるような場面を意図的に意識して暮らすこと、くらいの意味。あなたの発見した日常のなかの「フェル活」場面をぜひ教えてください。実生活に活かせるフォーカシングの知恵を、ぜひみんなでシェアし合いましょう。

#フェル活

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