この状況を奇貨として



          白島 真

 2020年3月号より当誌の詩誌評を担当することになり、年間を通して毎月100冊から150冊の詩誌を読み込んだ。
 筆者が詩誌を友人と発行したのはもう半世紀も前の20代のころの一時期で、今回は全国で発行される量の多さと各々の充実した内容に圧倒された。
 初回3月号の詩誌評タイトルは「詩誌文化」とし、冒頭「詩誌の世界は百花繚乱、まさに詩誌文化と呼ぶにふさわしい活況を呈しており、詩の世界もまだまだ未知の可能性を秘めている」と書いたが、この気持ちは担当を終えた現在も全く変わっていない。ただ手放しで喜べない現状もあるので、そのことは後述する。
 沢山の詩誌や個人誌、詩集まで筆者宅宛にもお送り戴き感謝の念に堪えない。これから少しずつお礼状を書いていくつもりだが、この場を借りても御礼申し上げたい。さて、前置きはこのくらいにして本題に入ろう。
 2020年は全世界に蔓延するコロナウイルスの影響で、文化のパラダイムシフトが起きた年として後世に記憶されるだろう。この11月下旬までで約6000万人が感染、140万人以上が死に至っている。文化交流の要諦としての人間同士の触れ合いは3密のため避けられ、会議、各種イベント、展示、演奏会、舞台演芸などが中止に追い込まれた。ビジネスは出勤しないリモートワークが一般的となり、教育分野では多くの卒業式や入学式が見送られ、zoomを使った非対面方式の授業が導入された。一見合理的に見えても準備により時間がかかる点や、運動不足による健康への弊害も指摘され始めている。また無観客イベントなどが有料・無料で主にインターネットを通して放映されていることもこのコロナ時代の特徴である。イベントが無くなり内面を凝視せざるを得ない状況は詩作の再興隆に繋がる可能性を秘めている。
 その中で詩誌発行は堅実な動きを見せた。詩誌の運動体としてのイベントや対面の合評会、編集会議などは中止されたものの、電子メールやSNS、あるいは電話、手紙を使って打ち合わせを行い、締切に間に合わせるという発行者や編集者の懸命な努力が編集後記から窺われた。対面がない分、味気なさを覚えた詩人も多かったと思われるが、コロナ禍中で同人誌(個人誌を含む)文化が衰退を免れたことは特筆してよいだろう。
 けだしコロナ禍如何に関わらず、この同人誌文化にはいくつか問題点がある。メンバーの高齢化問題とSNSでの周知・販売路線があまりに疎かな点である。
 高齢化問題に関しては詩界や同人誌だけの問題ではなくわが国そのものの特質でもある。40代以下の若い詩人をどうやって取り込んでいくかが大きな課題だが、まずは詩誌の存在をいかにアピールするかである。
 以前、地元の詩人会に入会したくてその方法を検索したがHPもなく、詩人集が発行されたとの情報は入るものの入会のツテが何も無く、苦労した覚えがある。どうにか入会後(1年で退会)、老齢の一般会員らしき詩人にHPくらい作らないんですかねと問うと、「あのな、インターネットにはウイルスという恐ろしいものがいる。だからそれはやらないのじゃ」との即答があり、唖然とした。
 同様に現在発行されている何百という詩誌も一般には詩誌間以外ではその存在を殆ど知られていない。  
 商業詩誌の最後の頁には寄贈詩誌一覧が掲載されている場合が多いが、それを見てアクセスしたり、購入の旨を伝えることは、ごく稀なのではないだろうか。各詩誌が少なくとも40代以下の若い書き手を起用し若返り化を図っていくことは急務ともいえる。そしてインターネット(SNS)担当者を最低一人は確保してネットでの告知や販売ルートの確立を目指すべきである。
 この1~2年では若い詩人を取り込む有力な詩誌として「インカレポエトリ」や「ココア共和国」の創刊があった。詩誌評では何回か取り上げたので詳述しないが、従来の詩誌とはかなりコンセプトが違うし、ともに未来志向系である。SNS(主にtwitter)の活用もよくされている。前者は詩の授業を受けた大学生の選抜作品集であり、その中から詩集を既に発行した学生や卒業生が4名もいる。後者は10歳から83歳まで参加者がいる投稿詩主体の詩誌である。第一回秋吉久美子賞などの発表も間近だ。
 また大阪文学学校の「樹林」も様々な年齢層の生徒の作品集で、講師の評のみならず生徒間の評も熾烈を極めている。6月号で筆者が取り上げた秋田の詩誌「北の詩手紙」は地元の高校の文芸部の作品を掲載したり全世代型交流としてのワークショップを開催している。コロナが収束したら各詩誌で実行されてみたらどうだろうか。
 次に販売ルートの確立であるが、SNS担当者を置けばそのSNS(例えばtwitterやFacebook)からダイレクトで受注ができるし、ココア共和国のようにAmazonを通す方法もある。また、最近ではBOOTHというクリエイターズマーケットが若者の間では人気を集めている。ネットで簡単に詩誌や詩集の売買ができるサイトである。  
 ちなみに筆者はtwitterのダイレクトメール利用で定価2千円の拙詩集を3回のキャンペーンを実施することで1年少々で200部以上を販売し、現在手持ちはゼロ。SNSは単に売り上げを上げるというだけでなく、詩誌の細かい情報の伝達や、信頼を勝ち取るツールとして利用できるし、何よりも若いファン層を取り込めるという利点に富む。ただやたらと宣伝するのではなく、効果的なマーケティングの手法を模索すべきである。
 そして詩作者=購入者ではなく、詩に興味のなかった純粋な読み手を開拓できるのもSNSの強みであろう。 
 若い詩人の動向であるが、ネット投稿サイトの概況に触れてみる。現代詩フォーラム、文学極道、ビーレビュー、MY DEARなどがその代表格であろう。日本現代詩人会の投稿サイトなども人気を集めている。   
 詩をただ投稿するだけではなく、各所なりの評価方式があるが、読み込みに優れた適切な評から罵倒に近いものまでまちまちである。投稿しても安易に書き直しや削除ができてしまったり、それを禁じているところもあり、そこに詩の投稿サイトの個性がある。詩誌のように文字数制限が不要なのでやたら長い作品も目立つが、明らかに推敲不足なものも見受けられる。文学極道は辛口の批評と週1回実施されていたtwitterのキャスティング(ツイキャス)を利用した朗読放送で耳目を集めたが、残念ながら2020年いっぱいで新規投稿はできなくなるようだ。(実質的な閉鎖)その場合、投稿された各作品の保存がどうなるのか気になるところだ。
 若い詩人たちがネット投稿で満足しているかといえばそうでもなく、最近はSNSで宣伝しながら紙媒体の詩誌の発行をする同人誌や個人誌も目立ってきている。  
「指名手配」や「聲℃ セイド」「みなみのかぜ」「楽詩」「OUTSIDER」「オオカミ」などがあげられよう。
 少し詩誌から話はそれるが、この稿を書くために「詩と思想」のバックナンバーを読み返してみた。発行年2001年2018年~20年の1月2月合併号で、内容は詩集や詩誌、詩界の動きを含めた総括である。2000年の現代詩時評総括は展望Ⅰで北畑光男展望Ⅱをたかとう匡子が書いている。そして詩集評総括を大塚欽一詩誌評総括は佐々木洋一。以下、北海道から沖縄に至る地域別総括が続く。20年前とはいえ執筆者の半数は名前を知った詩人だ。たかとうや北畑が推薦していた2000年発行の日本詩人クラブ編『日本の詩一〇〇年』(土曜美術社出版販売)も取り寄せ、主だったところを読んでみたが、いずれも得るところが大きかった。特に冒頭の座談会「今改めて〈詩とは何か〉を問う」が圧巻であった。今道友信をゲスト中村不二夫司会、石原武、小川英晴、冨長覚梁、原子修の座談である。(惜しくも今道、石原は鬼籍に入られた)
たかとうはこの座談会を評してこう書く。【事実、今日の詩は他者の多くを小説にまかせ、定型リズムを短歌俳句にまかせ、散文的自由詩を現代詩の骨格としてその上に乗っかって書かれてきたが、他者をとり戻し、根源的なひびき、言葉の美しいリズム、音声をもとり戻すことこそは現代詩の二十一世紀への重要な課題といえるだろう。】
筆者もこの原稿締切までの限られた時間で座談会を繰り返し読んだが、小川の発言、T・Sエリオットはフレーザーの『金枝篇』から題材を取り『荒地』を書いたこと、ガルシア・ロルカはジプシーから神話的題材を取ったという内容を受けて、詩こそが神話的な力を取り戻すことのできる唯一の表現形態であることに各論者の含蓄ある発言が展開されていく。詩の持っている一種の神話性というか、神秘的な力を取り戻さなければならない、という座談の内容は現代の詩人や詩誌の共通の重要項目と成り得る指摘である。研鑽を積んでいきたい。 
バックナンバーでは葵生川玲のAIの記事苗村吉昭の現代詩に対する考え方古賀博文の中央と地方問題花潜幸の①生活詩②創作詩③思想詩あるいは①具象詩②抽象詩の分類方法山崎修平の幅広いジャンルへの志向青木由弥子の「詩と思想」誌自体の回顧などが印象に残った。
以下、先月以降に届いた詩誌を書いておく。後任に詩誌評が引き継がれるまで2か月ほどのブランクが生じるからである。

☆「笛」293(金沢市・笛編集委員会)
前回、前々回記載の100号越え詩誌のまとめから発行日の関係で抜け落ちたのでUPしておく。巻頭ではおおつぼ栄が詩篇「桃の時間」を寄せている。おおつぼは岐阜在住で詩誌「ピウ」を発行していたが、先ほど届いた☆「ピウ」9(岐阜県・天木三枝子)では住所が金沢になっている。金沢での活躍に期待したい。

☆「水脈」68(坂井市・佐野周一)
 福井の詩誌である。私も所属する詩誌「時刻表」の同人でもあった神子萌夏の追悼頁があり、中林千代子がエッセイ、五十嵐冴子が追悼詩とエッセイを寄せている。

休日のゆったりした土曜の朝
「そろそろ」と ご主人が声をかけた時
目を覚まそうとしないあなたに気づいた
前の日も 午前中はヨガ 午後はボランティア
夕食後も いつもと変わりなく過ごし
おやすみなさいと 眠りについたというのに   
(五十嵐冴子「かくれんぼう」抜粋)

☆「モデラート」50(和歌山市・岡崎葉)
 節目となる50号であって、岡崎をはじめ、木村恭子、草野信子、白井知子、中村不二夫、井手ひとみ、神田さよ、吉川彩子、など13人が取り上げられている。 
柳生じゅん子も詩誌「タルタ」や千木貢のことを書いている。冊子のサイズも独特のもので縦型、表紙の色も若草色、レイアウトのセンスも抜群の詩誌である。

☆「想像」170(鎌倉市・羽生康二・羽生槇子)
 詩誌評担当期間中、いつも楽しみに拝読していた詩誌である。特に槇子氏は90歳というご高齢で24時間酸素ボンベが必要という。引火の恐れがあるので台所では火を使えないそうだ。康二氏も膝が相当お悪いようで、その悪条件の中でお二人が筆力を保たれている姿に感銘を受ける。娘さんが帰国してご一緒なのを今号で読み、少しほっとしている。末永く書き続けてほしい。

☆「Asgard」3(札幌市・若宮明彦)
 アスガルドと読む。若宮は地質学者でもあり、地元札幌の大学で教鞭をとる。若宮の詩論集「波打ち際の思想を歩く」(文化企画アオサギ)は秀逸。三角みづ紀も熟読して北海道新聞に評を寄せている。詩歴は長く、前述の2001年合併号には瀬戸正昭が「この年度の創刊は一誌のみ」と函館での若宮の詩誌「Northern Light」を挙げていた。「Asgard」の詩篇タイトルは岩石倶楽部、化石倶楽部、鉱物倶楽部の3篇。導入部にアリストテレスや稲垣足穂の引用もあり、ともかく面白い。佐相憲一、小篠真琴らが寄稿している。

☆「エウメニデスⅢ」60(長野県佐久市・小島きみ子)
 個人誌に戻ってから2回目の刊行。元同人の小笠原鳥類と詩集『量』でH氏賞を受賞した高塚謙太郎が寄稿している。高塚の「日本語のために」と題された詩篇を引用する。

伐りおとす枝や枝は私の国で
それから、ら
系統を見ないまま
は、は、なれ
夏の日は遠ざかる
暗くなる方へ
枝のさきの方へ私
葉をつける
あつめていくこと
日記として生きるその枝葉にひとつ
水滴のようにみえる私の国
の袖は
浦葉をうつしとって流れる
私たちや私の目のなかの記録
育ちきれなかった
火の山のめぐみの葉たち
たちすくむ枝や枝は
越境せよ、と
うつっている
電気のはざまで揺れうごいている記憶
は、は、花
国の花、は
は、
記録的な猛暑を思い出して流れているひとつ
萼として
私たちを支持

 末尾掲載の小島の「高塚謙太郎『量』〈七月堂〉について」は9頁にわたる労作。『量』はその分量も破格だが、難解な詩も多い。そのいくつかを実に丁寧に解析しており、弐瓶勉の青年漫画の用語が使われていることを突き止めた努力には敬服する。元同人なので読み込みには古い作品や資料から類推する箇所もあり、高塚ワールド解明のよき指南書になっている。
 
☆「POT2021」1(編集人・青木由弥子)
「詩と思想」研究会アンソロジーである。講師として中井ひさ子、花潜幸、司会進行の長谷川忍、青木も作品を寄せている。構成は詩とエッセイ。研究会参加の草野理恵子原島里枝雪柳あう子石井宏紀、若い浦野恵多などの名がみえる。

☆「月の未明」6(埼玉・原島里枝)
  原島の個人誌である。はがき大の大きさの紙を8枚蛇腹のように折りたたんだ形。ポエトリーの大会出場や深夜のツイキャス放送、詩集『耳に緩む水』(七月堂・帯文は高橋次夫)の上梓と大活躍である。紙や印刷にもこだわりが強く、今回はカラー刷りで、おしゃれなケースに収納している。ゲストは詩集の表紙、装丁を手掛けたマチコ氏。そして白島真、あれ?私だ。

1年間のお付き合いをありがとうございました。多くの詩誌に接することができ、大変な中にも大いなる喜びと学びがありました。掲載できなかった詩誌が多々ありお詫び申し上げます。2021年、よい詩生活をお楽しみください。
          

*文中、敬称は省略させていただきました。
*改行の/や//マークは見易いようになるべく展開しております。
*『詩と思想』2021年1・2月合併号詩誌評の総括編アーカイブです。

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