詩の感性は風と聲に乗って


            白島 真

 前号では100号を越える詩誌を取り上げたが、その後、さらに8冊をご恵送戴いた。
 詩人会議系の詩誌「沃野」632、「軸」137、「道標」178すふの3冊。そして「日本未来派」239、「山脈」通巻149、「菱」209、「RAVINE」210、「笛」293の8誌である。同人誌の世界でこれだけ100号を越える詩誌が存在することは驚きであると同時に、詩の未来にほのかな光明が見え、感慨を覚える。スペースの関係で1誌を紹介する。

☆「菱」209(鳥取市・発行・菱の会、編集・手皮小四郎、花房睦子) 
  令和2年6月、83歳で鬼籍に入った西崎昌(まさる)の追悼号が組まれている。手皮はじめ8名の詩人が追悼文を書いているが、詩誌「竜骨」同人の森清の文章は北川冬彦の詩誌「時間」や、菊田守、辻征夫も会員だった「現代詩入門」(惜しくも2年で休刊)に西崎が参加したことに触れている。年譜によれば「菱」は1963年創刊、西崎は1971年の13号から参加している。1962年の作品、「古墳」を一部引用する。

黒い腐植土を掘つていくと
朝顔のように
清冽な朝がある

防人たちの弓音のように
時間が耳もとを過ぎていく

魚類の住む青い海に
吐きだし
絶句したことばはなんであつたか
あゝ ひとは 埴輪のようにうつろである   (古墳一部引用)

 促音のみが旧仮名遣いの大きな文字で書かれているのは時代の傾向なのか。作風もどこかモダニズム詩を思わせ、ネオ・リアリズム提唱以前の北川冬彦の影響を感じる。

☆「インカレポエトリ」3〈犀〉(編集・朝吹亮二、新井高子、伊藤比呂美、笠井裕之、川口晴美、北川朱実、城戸朱理、小池昌代、小沼純一、管啓次郎、瀬尾育生、永方祐樹、中村純、野村喜和夫、蜂飼耳、樋口良澄)
 大学で詩の講義を持つ編集人も創刊時の8名から倍増した。生徒投票で3号は〈犀〉と命名されたが、本の装幀・デザインも一新され厚さも372頁とボリュームがある。
 インカレ叢書と銘打ち出版社七月堂の協力で詩集も以下の4名がすでに上梓している。小島日和(早稲田卒)、川上雨季(慶應義塾)、内堀みさき(愛知淑徳卒)、大島静流(慶應義塾卒)。また、犀発行を記念した座談会や10/22(木)~25(日)に西荻窪の会場「数寄和」で音声・映像などによる制作展示、ギャラリーでのゲリラ的な朗読パフォーマンスが行われた。若い方々の活字離れや、詩集が書店に無いなどの暗いニュースの中で、詩は確実に書かれるべき風と聲に乗って、次世代の種を播き始めている。
 次にB5版(変形含む)の大型詩誌4誌を取り上げる。

☆「妃」22(東京・発行・編集・田中庸介)
 寄稿者は有働薫、葉山美玖、広田修、渡辺めぐみ、細田傳造、谷合吉重、鈴木ユリイカ、生野毅、望月遊馬、田中庸介など17名。
渡辺めぐみの「初夏」

雨脚の速さが
閉じられた店々の戸を
濡らすとき
ある大きな屋敷の
郵便受けの前に
犬であるものの生き方が立っている

と、ちょっと不思議な詩句で始まり、聖俗を超えた小鳥の鋭い嘴、奈落よりせり上がる雑草、15分ごとに来るバスにさえ遊離感がある主人公のこの世界は、読む者の現実感さえ危うくしかねない。
 望月遊馬の「詩のなかの楽器」は仲田有里詩集『植物考』の詩集評だが、宮城谷昌光が直木賞の選評で述べた、「文体とは観念を保存するものである」の保存という語に着目する。詩にとっての文学性は保存されることによって、何かを発信しようとしてくるのだろうか、と問いを投げかけ、その観点からの仲田評は豊かで卓越している。

☆「タンブルウィード」8(藤沢市・若尾儀武)
 9人の同人で構成されており、同人はみな詩集発行経験者である。タンブルウィードとは西部劇などによく出てくる荒地をころころと転がっていく草のことである。
 巻末のバーコードを読み込むとHPに誘導され、先ほどの詩誌名の由来や同人の自己紹介、バックナンバーの案内や購入方法、そして各人のエッセイなどが読める。筆者の好きな夭逝画家、深井克美に触れたエッセイ(田尻英秋)などもあり、サイトはとても充実したつくりで、詩誌とネットの連携型と言える。詩誌は折角のB5変形大判なので、もう少し文字のポイントが大きいと筆者のような高齢者は助かる。

☆「つむぐ」(東京・編集・しま・ようこ、田中眞由美、原田克子)
 記録としての詩誌と表題にある。同人誌ではなく15名以上集まれば発刊するとのことで末尾に要項がある。規定は詩で3頁、エッセイで1頁。
 田中眞由美の詩篇「そのひと」「見知らぬもの」は対になっているようである。

白い闇をすかして
黒い影がうずくまる

(中略)

そこにはもう
そのひとはいない
そして世界のどこにも
そのひとはいないらしい
そのひとに似たひとと
そのひとの話をする
そうだったのと
そのひとに似たひとは首をかしげる
(略)              (「そのひと」抜粋)

そのひとは
見知らぬものを
飼いはじめていた

けれどそのひとは
見知らぬものを
飼っていることに気づかない  (「見知らぬもの」 冒頭)
 
 ここに書かれた〈そのひと〉とはどうも実体があるものではなさそうだ。自家撞着を含んだ己の分身なのか、あるいは一番己らしい影なのか。並ぶ〈そ〉の頭韻が凄まじい。
 原田克子の庚子七赤〈かのえねしちせき〉は初めて聞く言葉。九星気学の領域、つまり星占いの言葉らしくて、いろいろ検索して楽しんだ。今年は大変化の年であって、古いシステムが解体され尽くし、新時代の幕開けとなるそうだ。何か当たってる?

☆「波蝕」27(川崎市・荻野央)
 荻野の個人誌であるが表記は一人詩誌と書いてある。こちらも作りはB5の大判で、詩掲載の各頁にカラー写真を配置。旧知の田中健太郎の詩誌「木偶」に復帰した頃から注目していた詩人である。プレヴェールやホフマンスタール、梅崎春生を登場させた、庭についてのエッセイは含蓄が深い。またトワイライトゾーンをリアルタイムで観ていた筆者には「構造の町」と題された文章からTV映画が蘇り、懐かしさと荻野との同時代性を感じてしまう。

☆「CROSS ROAD」16(松阪市・北川朱実)
 個人誌といえば北川を抜いて語れない。「引き算の練習」を全篇引用する。

モズに襲われたツグミが
風切羽を一つ地へ戻して
大陸へ帰っていった

庭にこぼれた海峡の光

紺碧の空から
何も引くことができない

引き算が苦手だった
見えないものが
いつも立ちふさがり

夕暮れた教室に残された

原っぱにサーカスがやってきて
むずかしいことが
考えられなくなった

雨期に入ると
砂漠は
地平線のかなたへと虹を渡し

エメラルドグリーンの湖を
ゆらす

五千年をなんども引き算して
ゾウとカバが帰る場所を
あらうのだ

母を施設に置き去った日
あとずさりして電車で帰り

始発に乗る練習をした

顔を落として
あかるい服を買い続けて       (「引き算の練習」 全行)

 母親を施設に預けた日の感情をこのような表現で書き切れる感性を羨ましく思う。散文はジャズのアート・ペッパー。そして筆者の居住する岐阜出身の芥川賞作家、小島信夫のエピソードを取り上げている。

☆「獅子座」30(一宮市・里中智沙)
 里中の個人誌である。鶴田浩二、立原道造、藤原因香の和歌など自在に引用、あるいは改変し、独特の詩体を作り出している。日原正彦の詩集『降雨三十六景』に対する評は、日原のエンターテインメント性に注目した力作である。

☆「左庭」45(京都市・山口賀代子)
 山口ほか伊藤悠子、岬多可子など活躍が目立つメンバーが多く、しかも居住地は発行人の言う通り全国バラバラ。今号は山口の「坂の途中」がミステリアスな詩情を内包し圧倒的に迫ってきた。詩かショートショートなのか、はたまた散文詩なのかという問題がよく提起されるが、今のところその区分を明確に論じたものを筆者は知らない。ジャンルが曖昧になってきていることだけは確かだ。次頁の伊藤悠子「声」も引用したい素晴らしい作品だが、惜しくもスペースがない。森田道子の表紙画「遊」も素敵だ。

☆「流」53(川崎市・編集・福島純子、山本聖子、西村啓子)
 女性ばかり7名の同人で構成された詩誌。どの詩篇もよく推敲されていて熟達した詩作のエネルギーを感じさせる。 例えば山本聖子の詩句

カメレオンの
舌が鞭のようにひるがえり
バッタが
くわえられていた
バッタが
あなたでなくって
よかった       (閃光)

長太郎と名付けられた
おおきな裁ちばさみを取りだし
しゃり しゃり
音たてて断ち切ります

      (閉ざされた五月の扉)

 いずれも冒頭部分だけを引用したが、この後、何がどのように展開されていくのか、とても興味を引く書き出し方をしている。

☆「砕氷船」34(滋賀県・苗村吉昭)
 苗村と森哲也の二人誌。は詩表現の可能性を常に探求しているように思える。今号は「哀切刻句」のタイトルで「凶器三昧 その一~その五」を寄稿。一を引用する。

★たわむれに喉に寒薔薇九寸五分
細き棘、喉元に微かな痛み、時に一筋の赤い糸。九寸五分、命絶つには程よい寸法。熟慮か戯れか。薔薇の一点の熱さ、刃の冷たき刃紋。某月某日、草叢にされこうべ。

 その一からその五までの15句と付随した散文詩が掲載され、いずれもなみなみならぬ緊迫感を表出している。
 一方、苗村の「ちいさいときに」の制作意図が今回、明確に見えてきた。最初に「フナの墓」という詩篇が置かれているが、新任の若い女のセンセイが子供たちにフナの解剖を命じる。残酷と思える描写の後、フナの墓を作るが、
【長じてわたしは
あの「フナの墓」の埋葬儀式は欺瞞に満ちた大人社会に組み入れられるための通過儀礼であったと苦々しく思い返すようになった】
と書く。小さいときに植え付けられた制度やシステムの害毒を意識化する試みと思える。視点が新任女性のセンセイの心境まで及ぶところは苗村の大人の優しさだろう。

☆「オオカミ」36(藤沢市・光冨幾耶) 
 光冨は郁埜から幾耶と筆名を変更。
坂多瑩子、みよおじ愛、石川厚志、宮坂新、佐相憲一、猫町すみす、平川綾真智、福士文浩などの名が見える。ベテラン及びこれからが楽しみな詩人まで混然一体としているが、それだけにいろいろな作風が楽しめる。現在、参加者を募集しているので、どこか詩誌に所属してみたい方は参加してみたらよいと思う。媒体としてお薦めできる。

 さて残す字数も尽きてきた。筆者が詩誌評を担当して大きな感銘を受けた5誌のうち、今月は3誌が勢ぞろいしているので、それを取り上げて終わる。今回も掲載できなかった詩誌が15誌も残ってしまった。一度も載せられなかった詩誌があったことは返す返すも残念である。

☆「ERA」第三次15(さいたま市・川中子義勝)
 巻頭は青木由弥子「夕空」である。最後の2連が特にいい。

ふたりをくるんでいたものが
ほどけていく
とけさってはじめて気づく
おおきな手の感触

だれもいない夕刻
園庭で空を見上げる
背にあたたかく
手が添えられている

 日原正彦「唸る」

大柄な彼は
おちついた弦楽器に似た佇まいでわたしをみつめた
それは 北方の濃い青空のような色の
コントラバスだったと言おう

 どこか穏やかな温かみを秘めた日原詩の真骨頂だ。

☆「千年樹」83(長崎市・岡 耕秋)
 力量ある21名の執筆者。創刊20周年にあたる81号のことは当誌6月号でも触れたが、岡のエッセイはいつも身につまされる内容が多い。今回は編集後記で【2000年の創刊以来、樹木を表象とし、成熟をテーマにしてきた。(中略)未来に希望を与えるものは人文知であろう。その再興が『千年樹』の隠れた課題でもあった】と記す。冊子に挟まれた黄色い栞では長崎平和宣言の内容に触れ、84歳まで生きた被爆少女のこと、核兵器禁止条約の署名・批准を促し、日本国憲法の平和の理念を永久に堅持することを伝えている。

☆「交野が原」89(交野市・金堀則夫)
 主宰者の金堀が詩集『ひの石まつり』で第31回富田砕花賞を受賞された。まずは祝福したい。活躍中の詩人が多い詩誌である。高階杞一、八木幹夫、峯澤典子、北原千代、たかとう匡子、季村敏夫、岡島弘子、岩佐なを、田中眞由美、山田兼士、苗村吉昭、瀬崎祐、青木由弥子、一色真理、渡辺めぐみと筆者の好きな詩人が並ぶ。この詩誌から派生した詩誌「石の森」(編集・西岡彩乃、発行・美濃千鶴)には目を通していたが、この度、さらなる関連個人詩誌「凛々佳」(編集・発行、凛々佳)が創刊された。詩誌「交野が原」の勢いは止まりそうにない。

*文中、敬称は省略させていただきました。
*改行の/や//マークは見易いようになるべく展開しております。
*『詩と思想』2020年12月号詩誌評のアーカイブです。
*2021年1・2月合併号アーカイブUPは2021年2月5日ころとなります。

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