【小説】SEPIA#2


 雨は、降り続いていた。
 私はゆっくりと窓から視線をずらすと、テーブルの上の灰皿の中に置き去りにされた吸い殻をみつけた。
 そんなものさえ、捨てられはしないのに。

 気怠い躰を起こして窓を開けると、ここぞとばかりに冷たい雨が入り込んでくる。季節はもう冬を迎えようとしていたことになんて、昨日までの私は気づくこともなかった。去年、あのひとと過ごしたこの季節は、きっともっと冷たかった気がする。だから私たちは、寄り添う意味をみつけられないまま、それを口実に、ただ限られた時間をふたりで過ごした。
 シャワーを浴びるために浴室へ重い足を運ぶと、蛇口をひねってパジャマを洗濯籠の中へ投げ込んだ。
 今さらだけど、この部屋のどこへ行ってもあのひとの影からは逃れられないことに気がついて苦笑する。こんなふうになるはずじゃなかったのに。
 いつもより念入りに髪を洗って鏡の前に立つと、髪から零れ落ちる雫は、涙の代わりに私の上を流れた。
 割れたグラスの破片を集めて、部屋の中を片付けると少し気分が落ち着いた。
 あのひとは、きっとここに来る。
 もう少しすればあの扉の前に立ち、懐かしい微笑みを私にくれるだろう。それはいつだって少し悲しげで、だから私の瞳にはとても愛しいもののように映る。私の愛すべき共犯者。私に悲しみをくれるひと。私に愛をくれる男。
 それなのに。これからその全てを失おうとしているのに、どうしてこんなに逢いたいって思えるんだろう。


 遠い季節。引き返すための勇気だった。だからこんなときにも私は、彼を抱いた。そして気がつく。この儀式めいた行為が肉体から溢れ出す欲望からではなく、とても純粋に愛しいという気持ちから生まれることを。

「梨奈の機嫌が悪くなると、決まっていつも雨が降るんだ」
 ベッドに躰を埋めたまま、彼の顔を見上げる。
「私は今、そんなに不機嫌な顔をしている?」
 彼は少し笑って私の髪に触れた。愛しい彼の手は、それを軽々と包み込んでしまえるほどに大きく、長い指は言葉を奏でる。
「髪、切らなければよかった」
 肩の上で綺麗に揃えられた髪は、彼の指に絡みつくことなくサラサラと零れた。もつれて大変だったあの長い髪なら、きっとその全てに絡みついて、二度と離しはしなかったのに。
「可愛いよ。短いのも似合ってる。でも、前に俺が選んだスカートは、全然似合ってなかったな」
 そう言って懐かしそうに笑うから、私もそう思っていたよと言いたかったのに、なんだか泣きそうになって、その声を彼に届けることはできなかった。
「憶えてる?梨奈と初めて出会った夜も、雨が降ってた」
「そうだったっけ?」
「うん。泣いてたよ。どうしたのって聞いたら、大切なものを失くしたんだって言ってた」
 私は、溜息をついて瞳を閉じる。そうだ。だから彼に出会ったはずなのに。大切なものを失うことが怖くて、彼を選んだはずなのに。
 あの頃の私は知らなかった。大切なものは、時間の経過の中で作り上げていくものではなく、それは気づかないうちにそこにあるんだということを。

「いつもそう。失くしてから気づくの。もっと大切にしていればよかったと思うの。してあげたいこともたくさんあったのに、何ひとつしてあげられなかったって気がつくの」
 彼のやんちゃな手を両手で捕まえると、元気だったその指はピクリとも動かなくなってしまった。大好きな大好きな彼の手。今まで、数えきれないくらいこの手に触れてきたはずなのに。彼を心地よい気分にさせてあげるためのやり方も、とてもよく知っているのに。
 なんの前触れもなく、突然襲ってきた不安をかき消すために、私は指先に力を込めた。彼が小さな叫び声をあげる。
 愛しい彼の手の甲は、綺麗に塗られた私の爪の悪戯によって薄っすらと血が滲んでいた。
「あなたの手、私の爪と同じ色をしている」
 彼は、顔を少し歪めて私の瞳を覗き込んだあと、本当に綺麗な色だねと言った。
「やっと私たち、同じ色になれたのね」
 言葉の意味を理解できなかった彼は、ただ私を見つめた。
「ねえ、もっと他の色をつけてもいい?」
「少しおちつけよ」
 彼の大きな躰が突然降りてきたことで、私の手足は自由を失ってしまった。
「どうして?」
 無邪気な私の両方の手は、呪縛から逃れると彼の首筋を這いまわる。私はそこに彼の微笑をみつけるはずだった。だっていつもそうだったから。そうすると、彼は愛しいものを見るように私に微笑をくれたから。それなのに、まさかそこに不思議そうな顔をした女を映す悲しい瞳があるなんて。

「そんなに、俺を傷つけたいの?」
 その言葉が何を意味するのか理解できなかった私は、ただ彼の瞳の中で揺れているだけだった。
「どうして?私はただ、同じ色をつけたかっただけなのよ。こんなふうに」
 私はその首筋に、そっと唇を押し当てた。そこは、彼の呼吸にあわせて脈打ち、唇が触れるたびに震えた。ここにも同じ色があるの。
 彼は苦痛を訴える声をあげて、私をベッドへ押さえつけたけれどすでに遅く、そこにはまたひとつ赤い花が咲いた。
「いい加減にしろよ!言いたいことがあるなら、そんなやり方をしないではっきり言えよ」
「言ってるでしょ?私は同じ色をつけたいだけだって」
「俺のこと、憎んでるの?」
「違う!どうしてわかってくれないの?本当に私、あなたと同じ色になりたかったのよ。・・・だって、あなたは知らないでしょ?あなたが口づけた紫色の痕が、消えてしまう切なさを、あなたは知らないでしょ?重ねた肌が残したあとの愛しさを、あなたは知らないでしょ?力強く抱いてくれた翌朝の心地良い痛みを、あなたは知らないでしょ?快楽を求める欲望が愛しさから始まるなんて、あなたは知らないでしょ?」
 溜息と同時に、私の手首を押さえつけていた彼の手が緩んだ。そこにはやっぱり、私の愛すべき色がある。
「ほら見てよ。私はいつだって、こうしてあなたの色を身に着けていられた。あなたの色で飾られた自分を、愛しいと思えた。鏡を見るたびあなたの痕をみつけることができた。だけど、あなたは違ったよね。そのドアを開けて背中向けたときから、あなたは私の知らない別のひとになる。私は何ひとつ、あなたの上に残すことができずにいた」
 最後の言葉を言い終わらないうちに、彼は私の躰を抱き寄せた。
 愛してる。

 長い間、私のものだったはずのその腕の中で。どこが痛いのかさえわからないほどに、ズキズキと疼く。あなたが触れる全てがこんなに痛むのに、どうしてふたりの間には、何も生まれようとはしなかったんだろう。


 ガラス窓の向こうでは、まだ雨が降り続いていた。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?