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アストン・ヴィラ、ウェストハム、バーンリー

Ⅰ.アストン・ヴィラ、ウェストハム、バーンリー
 

左からアストン・ヴィラ、ウェストハム、バーンリー

アストン・ヴィラ、ウェストハム、バーンリー。
 
 いずれもイングランドにあるフットボールチームです。

 この3チームにはある共通点があります。

 場所?いえいえ、3つのチームは全然別の場所にあります。

Wikipediaから引用した地図にエンブレムを重ねたもの

 歴史?確かにいずれも19世紀からある由緒のあるチームですが、イングランドではさほど珍しいものではないでしょう。

 正解はホームユニフォームの配色です。

Wikipediaにあったホームカラーの画像。左からアストン・ヴィラ、ウェストハム、バーンリー。非常によく似た配色である。

見てください、いずれも臙脂色と水色のユニフォーム。
つい最近までは世界最高峰のサッカーリーグであるプレミアリーグにこの配色のチームが3つもいたことに驚きを隠せません。

 それでは、この3チームについて振り返って見ましょう。

1.ウェストハム

 まずは、ウェストハム。ロンドン東部にあるこのチームのサポーターは労働者階級が殆どで、1885年に造船会社の社員チームとして創設されました。そのため愛称はアイアンズ、ハマーズと呼ばれていて、マスコットキャラクターもハンマーモチーフでかっこいいです。

 さて、そんなウェストハムのユニフォームですが、実は当初は青いユニフォームだったと言われています。それではいつ、現在の配色になったかと言えば、1903年頃だと言われています。
 この配色になった経緯については諸説あります。有名な話だと短距離走で勝ったという説があります。

 ウェストハムのコーチであり、有名なプロの短距離走者だったウィリアム・ベルトンは1899年の夏、アストン・ヴィラの本拠地付近の見本市に訪れていました。痩せこけていたベルトンを見たアストン・ヴィラの選手は短距離走のレースを仕掛けてきます。「挑戦者たるアストン・ヴィラの選手4人のうちの1人がベルトンに勝つこと」にお金を賭け始めたのです。しかし、さすがはプロの短距離走者、4人を打ち負かしたベルトンは賭けにも勝利します。しかしながら、困ったことに賭け金を支払うことが出来なかったアストン・ヴィラの選手たち。仕方が無いのでユニフォームを洗う係だった選手が賭け金代わりにそのユニフォームを渡し、クラブには「ユニフォームがなくなった」と報告したのでした。
その後、ユニフォームを受け取ったベルトンがウェストハムの選手だったチャーリー・ダフに渡したことで、この配色のユニフォームに定着したということです。

 しかしながら、この説にはしばしば異議が唱えられています。
 また、出典こそ不明ですが、地元の他2チームが使っていた色を合わせたとか、当時強豪だったアストン・ヴィラにあやかった、などの説もあります。

2.バーンリー

 2022-23シーズンこそ2部のチャンピオンシップにいるバーンリーですが、昨年まではプレミアリーグにいました。このチームはなんと、イギリスの国王チャールズ3世がサポーターであることが知られています。

 バーンリーは1882年に、ランカシャー州バーンリーにて、ラグビーチームのバーンリー・ローバーズのメンバーによって設立されました。そのため最初の8年間のユニフォームは前身のラグビーチームと同じく、青と白の様々な組み合わせを用いていたと言われています。1890年代当初は臙脂色と琥珀色の縞模様で、その後は黒と琥珀色のユニフォームに、1894-95はピンクと白の縞模様に、1897-1900はオールレッドのシャツ、1900ー1910はオールグリーンのジャージと変わっていきます。
 1910になって臙脂と青のユニフォームになり、1930年代から第二次世界大戦まで白いシャツだった時期を除けば、それ以降はずっと現在の配色だということです。
 臙脂と青の組み合わせについては当時のフットボールリーグの王者であるアストン・ヴィラに敬意を表したものだと言われており、当時のバーンリーの委員会と監督はそれが運命に変化をもたらすものだと信じていました。
 戦後の1946年にバーンリーがクラブの色を臙脂と青に再登録しましたが、これは地元紙のバーンリー・エクスプレスへの読者からの手紙によるものだと考えられています。

補足
バーンリーは1900年に降格し、さらに八百長が発覚したために次のシーズンを出場停止となっている。これは記録されている中でも最古のサッカーの八百長と言われている。その後は負債を抱えるなどして20世紀の最初の10年間苦戦を強いられた。さらに1910年には新しい監督が馬車から落馬して死亡してしまうという不幸に見舞われている。こうした中でのユニフォームの変更は大きな意義があったのではなかろうか。

3.アストン・ヴィラ

 アストン・ヴィラはバーミンガムのアストンに本拠地を置くチームで1874年に設立されました。このチームはイングランドで最も歴史があり、最も成功したチームとされています。フットボールリーグ(かつてのイングランドのサッカーリーグの1部)で7回、FAカップ7回、リーグカップ5回、そしてチャンピオンズリーグの前身たるチャンピオンズカップでも優勝している強豪だったのです。

 さて、英語版のウィキペディアには

They were the original wearers of the claret and blue.

と書かれています。つまり、この情報が事実だとすればこの配色の起源はアストン・ヴィラになる訳です。しかしながら、なぜ臙脂と青という一風変わった配色のユニフォームになったのでしょうか。

 アストン・ヴィラのチームカラーですが、正式には臙脂色のシャツにスカイブルーの袖、白のショートパンツに臙脂と青の縁取りがなされ、スカイブルーのソックスに臙脂と白の縁取りがなされているということです。
 
 文献によれば当初はロイヤルブルーのキャップとストッキング、ロイヤルブルーと緋色の「縞模様の」フープ着きのジャージ、白いニッカボッカーでしたが、そのユニフォームは試合で着用されませんでした。
 1877ー1879、チームは白、黒、青、赤、無地の緑など様々なユニフォームを着用しました。1880年までにスコットランドのライオンパントが胸に刺繍された黒いジャージがスコットランドの指導者のウィリアム・マクレガーとジョージ・ラムジーによって導入されました。

 このような変遷をたどりながら、ついに時代は訪れます。
 1886年11月8日の月曜日のクラブの議事録によれば、

⑴ 色はチョコレートとスカイブルーのシャツで、2ダース注文することを提案し、支持された
⑵ マクレガー氏がこれらを最低価格で提供するように要求することを提案し、支持された

ということが記されているのです。

 さて、チョコレートは後に臙脂になりましたが、なぜスカイブルーと臙脂になったかについてはよくわかっていないのです。


 このように歴史を紐解くと、ウェストハム、バーンリー、そしてアストン・ヴィラの関係などもわかってきたのではないでしょうか。

Ⅱ.アストン・ヴィラ、ウェストハム、バーンリー以外

 
 しかしながら、長いサッカーの歴史の中でアストン・ヴィラのユニフォームを真似たのはウェストハムとバーンリーだけだったのか、という疑問が残ります。色々なチームが真似て、その中でトップリーグで活躍できるクラブがウェストハムとバーンリーだった、と考えた方が自然ではないでしょうか。

 そこで今回はこの3チーム以外も調べていきたいと思います。

1.スカンソープ・ユナイテッド

 皆さんはスカンソープ・ユナイテッドFCをご存じでしょうか。

 スカンソープ・ユナイテッドはリンカンシャー州スカンソープに本拠地を置くプロサッカーチームで、1899年に設立されたという歴史あるクラブです。現在は5部相当のナショナルリーグに所属していますが、2010年には2部のチャンピオンシップにも所属していたチームです。

 このチームも経緯こそ不明ですが、臙脂と青のユニフォームにしています。チームの愛称が"THe Iron"であり、町と鉄鋼業との関係を表しているとのことです。

2.トラブゾンスポル

 海を越えてトルコの強豪トラブゾンスポルも臙脂と青を基調としたユニフォームのチームです。
 こにクラブは1967年にいくつかのクラブが合併して誕生しました。

 1920年代、トルコの都市、トラブゾンにはイドマノカジ、イドマンギュジュ、ネクミアティ、トラブゾン リセシの 4 つのクラブがありました。特に前2クラブのライバル関係は激しかったといわれています。
 1962年に各都市のサッカークラブを一つにまとめる要請がなされますが、赤と黄色のイドマノカジと緑と白のイドマンギュジュの対立は激しく、なかなか合併はできませんでした。
 最初にイドマノカジ他数チームが合併した赤と黄色のチームができ、リーグで8位になるなどの結果を残しました。
 その1ヶ月後、イドマンギュジュ他数チームにより設立されたトラブゾンスポルが形成され、クラブカラーは赤と白になりました。
 イドマノカジはトラブゾンスポルの合併に反対して訴訟を提起しました。リーグの責任者はこの争いに介入し、イドマノカジ、イドマンギュジュどちらもリーグに参加することを拒絶しました。これによってトラブゾンにはプロのサッカーチームが消滅することになるのです。
 最終的にイドマノカジとイドマンギュジュは他数チームと合併し、トラブゾンスポルが設立されました。
 その後クラブカラーを決める際に、何度も会議が開かれ、世論調査も行われました。赤黄色と緑白を併せる案もありましたが、最終的にはどちらでもない臙脂と青になりました。

 最終的に臙脂と青になった経緯についてはアストン・ヴィラからキット一式が贈られたからという説もありますが、明らかではありません。

3.ドロヘダ・ユナイテッド

 このクラブは1919年に設立されたアイルランド1部に所属しているクラブです。
 クラブの財源を支えるためのサポータークラブの名前が”The Claret & Blue Club”であることから分かるように、このクラブのカラーも臙脂と青なのですが、この起源についてはあまりよく分かりませんでした。

 ドロヘダ・ユナイテッドのエンブレムには三日月が描かれています。これは19世紀にアイルランドの大飢饉があった際に、ドロヘダ港からオスマン・トルコの支援物資が多く届いたことに経緯を示したものだとされています。

 そういったことからか、2011年、チームカラーを同じくするトラブゾンスポルと姉妹クラブになりました。

4. コーヴ・ランブラーズ

 このクラブを知っている日本人は少ないのではないでしょうか。このチームもアイルランドの1部に所属しているチームなのです。長年海外サッカー観戦が趣味である方なら、ロイ・キーンがキャリア初期に所属していたチームと言えば分かるかもしれません。

 さて、このクラブのユニフォームも臙脂と青です。しかし、この色になっった経緯自体は単純です。
 このクラブは1922年に駐在していたイギリス兵が設立したもので、彼らが去った後に地元民に受け継がれた、という歴史があります。
 そしてこのクラブが設立される前年度のイングランドの1部リーグ優勝者はバーンリーだったのです。

http://cobhramblers.ie/club-history/

 つまり、アストン・ヴィラにインスパイアされたバーンリーにインスパイアされたのがコーヴ・ランブラーズだったのです。

5.コロラド・ラピッズ

 アメリカのメジャーリーグサッカーの創設チームであるこのチームは1995年設立と欧州のサッカークラブと比較すれば歴史は浅いようにみえます。
 このクラブのオーナーはアーセナルのオーナーと同じくクロエンケ スポーツ&エンターテインメントです。NBAが好きな方にとってはデンバー・ナゲッツのオーナーと言った方がしっくりくるかもしれませんね。

 コロラド・ラピッズは当初は緑がチームカラーでしたが、2003年に黒と青の縦縞に変更されました。そして、オーナーが2006年にクロエンケ スポーツ&エンターテインメントに変わったときに、ユニフォームは臙脂と青に変更されました。これはこのオーナーが所有するチーム(アイスホッケーチームのコロラド・アバランチか)にあわせたからだと言われています。

6.クリスタル・パレス

 え?と思った方は多いかも知れません。クリスタル・パレスといえばプレミアリーグの中堅どころ、長年彼らの試合を観てきた、という方も多いでしょう。
 しかし彼らの現在のユニフォームは赤と青、アストン・ヴィラとは似ても似つきません。

 実は元々、クリスタル・パレスのユニフォームは臙脂と青でした。もっともこれは今から50年程前、1970年代まで遡りますが。

 クリスタル・パレスの起源は1861年になると言われていますが、正式に設立されたのは1901年。
 元のアマチュアクラブは青と白のフープ付きシャツに青のショート パンツを着用していましたが、いくつかのパターンがあったとされ、1861 年の最初のキットは水色と白の半分であったと考えられています。
 しかし、プロとしてのクリスタル・パレス が 1905 年に創設されたとき、臙脂と青のシャツに、臙脂で縁取られた白のショーツとソックスを組み合わせたものになりました。これは、アストン・ヴィラの元選手でありコーチのエドモンド・グッドマンにクラブの設立を助けて貰ったことに起因しています。グッドマンは後にパレスの監督となり、18年間もその手腕をふるいました。
 ところが、1938 年に臙脂と青を放棄し、白いシャツと黒のショート パンツに合わせた靴下を採用することを決定しました。
 それから、1949年から1954年にかけて臙脂と青に戻ったものの、1955年にまた白と黒にしました。
 1963年にアウェイユニフォームの黄色ををホームカラーとして採用したかと思えば、1964年には親善試合でプレーしたレアル・マドリードをモデルにした真っ白なユニフォームに変わり、1966年になってやっと臙脂と青のジャージと白いショーツに戻りました。
 しかし、1973年、新監督に就任したマルコム・アリソンはバルセロナに触発された赤と青の縦縞を採用しました。アリソンはこのようにして臙脂と青だった68年間の歴史に終止符を打っただけでなく、クラブの愛称も「グレイジャーズ」から「イーグルス」に変更し、これは今日まで続いています。

 このようにクリスタル・パレスは元々はアストン・ヴィラ由来のユニフォームでしたが、バルセロナ由来のクラブカラーに変わったのです。

Ⅲ.歴史とは関係なく、臙脂と青のユニフォームだったサッカークラブ

ユニフォームは1stユニフォームこそ伝統的なカラーですが、2nd、3rdになると攻めたデザインになることもすくなくありません。今回はそういった場合の臙脂と青のユニフォームを集めてみました。

1.ビジャレアル20-21 3rdユニフォーム

当時、久保建英が着ていてめっちゃアストン・ヴィラじゃん、と思いましたが、改めてみると緑っぽさが強いですね。

2.エアー・ユナイテッドFC 22-23 3rdユニフォーム

 スコットランド2部のこちらのクラブのユニフォーム

 ビジャレアルと比較してかなり臙脂と青です。

3.ボデフ・プロヴディフ 22-23 2ndユニフォーム

 黄色と黒をクラブカラーとするブルガリア最古のサッカークラブも今季のアウェイユニフォームに臙脂と青を選んだようです。

Ⅳ.まとめ

 今回分かったことは、臙脂と青のユニフォームの大元は大体はアストン・ヴィラにあるということです。
 欧州のサッカーの歴史は古く、またクラブカラーというものはクラブの歴史と深く関わっています。
 臙脂と青のクラブは殆どイングランド、アイルランドに偏っており、他にサッカーが盛んなドイツやイタリア、スペインにおいてはこの配色のユニフォームがみられません。
 これはサッカー黎明期の19世紀末、アストン・ヴィラが交流を図ることができた範囲においてこの配色が広がったと考える事が出来ます。
 アフリカ、アジア、オセアニア、南米などについては現状そこまで深く調べていませんが、新しいサッカークラブはその時の強いサッカークラブの配色を真似る事が多い(バーンリーにとってのアストン・ヴィラ、クリスタル・パレスにとってのバルセロナ)傾向にあります。このような事を踏まえるとアフリカやアジアでサッカークラブが多く出来た頃は世界的に見てアストン・ヴィラは絶対的な強豪とは言いにくく、そこまでこの配色のクラブは多くないと予想します。
 しかしながら、この臙脂に青という配色ほど高級感と爽やかさを両立させるものは無いと思うのです。
 皆さんもユニフォームを作る機会があれば、是非ともこの配色にしてみてはいかがでしょうか。


 
  


 


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