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美の来歴㊽ 三島由紀夫が愛した絵  柴崎信三

〈英雄〉になりたかった人のたくらみ


 三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁の日から半世紀が近づいた秋、その現場となった東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の旧庁舎、現在は敷地内を移転して再構築した「市ヶ谷記念館」の旧総監室を訪れる機会があった。

 「あの日」に駆け出しの記者がそのバルコニーの前にたどり着いた時、すでに壇上に三島たちの姿はなく、集まった自衛官らはその場から三々五々散って、蹶起の主張を書き連ねた垂れ幕が晩秋の皓々とした光を浴びていた。そのころ、奥の総監室ではすべての事態が終わっていたのであろう。

 記念館は戦前の陸軍士官学校本部であり、戦後東京裁判の法廷となった大講堂などとともに残された総監室は、かつての陸軍大臣室である。総監の執務机とその前の接客用の応接セットを除けば、それほどの余分な広さはない。この小さな空間で総監の監禁が行なわれ、救出のために封鎖された扉を蹴破って入室しようとした佐官らが、三島と「楯の会」のメンバーに次々と切り付けられて重傷を負った。

防衛省市谷記念館(旧陸上自衛隊東部方面総監部)2017年撮影

 正午過ぎ、すぐ南面にあるバルコニーに降り立った三島は呼集された自衛官たちを前にして最後の演説を行い、「天皇陛下万歳」を唱えて総監室に舞い戻ると、その床に正座して割腹自決した。横に立った森田必勝が介錯した。いまも前室につながる扉に三島が救出の武官との攻防の際に日本刀で作った刀傷が遺り、半世紀を隔てた部屋の深々とした静寂を切り裂いている。 

 「楯の会」の制服に身を固めた三島が、四人の若者を従えて益田兼利総監に面会したのは午前11時すぎである。明るいカーキ色の服地の左右に六個ずつのボタンで飾った、見慣れない派手な制服姿の訪問に益田はいささか驚くが、以前からの約束であったので「よくいらっしゃいました」と迎えた。

 着席した三島はそこで、手にしてきた室町末期の作という佩刀を披露する。
 「そんなものを持ち歩いて、警察に咎められませんか」
 益田がそのように三島にただしたのは、職務と場所から当然であったろう。
 「これは美術品だから大丈夫です」

 

◆旧総監室のドアにのこる三島が作った刀傷(2017年撮影)

 三島がそう説明して刃紋を磨くために、後方に控えた小賀正義に「ハンカチ」と命じたのが合図で、行動が起こされた。椅子の益田はそのまま後ろ手で両手首を縛られた。「三島さん、冗談はよしなさい」といったその口も猿轡で拘束された。「楯の会」の隊員たちは内側から施錠した出入口に室内の家具を動かしてバリケードを作り、そこへ救出の自衛官らが体当たりして突入を試みる。扉の一部が壊れてなだれ込んだ幕僚たちに、三島が立ちはだかって「出ろ!出ろ!」と咆哮する。刀が振り下ろされて、深い傷を負う人が相次いだ。
 修羅場と呼ぶのがふさわしい。三島たちの要求でバルコニー下の広場に在庁する自衛官が呼集される一方、非常事態の通報で警察が出動する。正午過ぎ、三島は総監室からバルコニーに降り立って集まった自衛官たちを前に演説を始めた‥‥。

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 あらかじめ三島と森田の割腹による自裁という到着点から逆算したような、分刻みの周到な計画は、三島の巧みな戯曲を思わせる。クライマックスはこのバルコニーという〈舞台〉の演説であり、直後の二人の死でそれは完結する。無力な象徴天皇と空洞化した日本の伝統文化、戦力を否定された自衛隊と憲法など、〈政治〉への憤りを三島はそこで滔々と論じたが、つまるところそれは、彼がこの舞台で演じる〈聖別された死)の賑やかな書割というほどの意味合いしか持ち得なかったのではないか。              

〈その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされ  た。私の血液は沸騰し、私の器官は憤怒の色をたたえた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく私の行使を待って私の無知をなじり、憤しく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め上ってくる気配が感じられた。それは目くるめく陶酔を伴って迸った‥‥〉

  三島由紀夫は24歳の時に書いた自伝的な出世作『仮面の告白』のなかで、主人公の少年が自宅の父親の本だなにあった画集のなかにグイド・レーニの『聖セバスチアンヌの殉教』をみつけ、両手を縛られた裸体に数本の矢を受けて苦悶するモデルの若者の姿に興奮して初めて自涜をする有名な挿話を描いた。

◆グイド・レーニ『聖セバスチァンの殉教』
(1615-16年、油彩・カンバス、ローマ パラッツォ・ロッソ)

 この絵の主人公である一人の青年の苦悶と死の伝説は、古今のあまたの画家たちによって繰り返し描かれてきた。三島がレーニの絵とともに深く親しんだのは、このモデルの殉教者を戯曲化した20世紀イタリアの作家、ダンヌンツィオである。晩年にその作品の翻訳に打ち込んだ三島は「あとがき」にこう記している。 

〈この若き親衛隊長はキリスト教徒としてローマ軍によって殺され、ローマ軍人としてキリスト教によって殺された。彼はあたかも、キリスト教内部において死刑に処されることが決まっていた最後の古代世界の美、その青春、その肉体、その官能性を代表していたのだった〉(ダンヌンツィオ『聖セバスチアンヌの殉教』) 

 グイド・レーニのセバスティアン像は、いわば三島由紀夫の性的なアイデンティティーについての戸籍謄本である。それを戯曲化したダンヌンツィオは第一次大戦期のイタリアでアドリア海に面した港湾都市フィウーメの奪回に蹶起したファシストの英雄的司令官でもあり、戦前ひろく日本にも名前を知られた。45歳で自裁する三島にとって、古代ローマと20世紀を結ぶ二人の〈英雄〉は、おのれの〈性〉と〈死〉のをつなぐ神話的なモデルとして生涯を生き続けたのである。

◆ガブリエル・ダンヌンツィオ(1863-1938)イタリアの耽美派の詩人、小説家・劇作家。
作品に『死の勝利』『聖セバスチァンの殉教』。ファシストの軍人で愛国的な運動にかかわる。

 3世紀、古代のローマの神殿の円柱に縛められ、裸身にキリスト教徒の矢を受けて殉教するセバスティアン。20世紀にこのモデルを戯曲にしたダンヌンツィオは、詩や小説の執筆のかたわらで愛国的な司令官として入城したフィウーメの知事公舎のバルコニーに立ち、群衆を前に「フィウーメか死か!」と咆哮した。

 自決の日に「楯の会」の同志の若者と三島が立った市ヶ谷の総監部のバルコニーは、「聖セバスティアン」という古代ローマの青年の殉教の場面と重なり、その伝説を戯曲化して自らも祖国のための蹶起した20世紀のダンヌンツィオという〈英雄〉の舞台とも重なるのである。 

 それにしても、『仮面の告白』に始まり、『金閣寺』や『青の時代』『鏡子の家』など、混沌の同時代を描いて「戦後派アプレゲール」の渦中を生き抜いて文壇の寵児となってゆく三島がなぜ、それほど「戦後」を呪って演劇的な自裁劇の演出と主役を演じたのだろうか。 

〈私の中の二十五年を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通り過ぎたのだ〉 

 市谷駐屯地で割腹自決する四か月前、三島は新聞に書いた「私の中の二十五年」と題するエッセイで、戦後の四半世紀を振り返ってこのように認めている。
 「鼻をつまみながら通り過ぎた」という作家の〈戦後〉に対する回想は、おそらくその現実が物質的な繁栄のもたらす精神の空洞と人間の衰弱が放つ腐臭にあふれていた、という認識によるものであろう。彼はかりそめの平和と豊かな社会へ向かう〈戦後〉には顔を背けて生きた、というのだ。
 それは果たして彼の本当の心の裡から発した声であったのだろうか。文壇はもちろん、演劇や映画の制作と出演、ボディービルによる〈肉体改造〉などでマスメディアの寵児となり、東京・馬込に新築した白亜の豪邸に各界の貴顕淑女を招いた華やかな社交の中心にあって、三島が自信に満ちた哄笑を振りまく時代の偶像であったことは誰もが知るところである。
 翻訳された作品は欧米など海外でも評価が高まり、1965(昭和40)年にははじめてノーベル文学賞の有力候補に名前が挙がるのだから、戦後の腐臭から「鼻をつまみながら通り過ぎた」という自己認識と、現実の三島の水を得たような戦後の振る舞いとの乖離はいかにも過大である。 

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  文壇の寵児として「戦後」を謳歌していた1954(昭和29)年、三島は「ワットオの〝シテエルへの船出〟」と題した美術評論を雑誌『芸術新潮』に執筆した。
 ワットオとは18世紀のフランスの画家、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーのことで、その優雅でどこかにアンニュイが漂う貴族たちの社交空間を描いた作品は雅宴図フェートギャラントと呼ばれて、ロココ時代の最後の輝きを伝えている。 

〈この「シテエルへの船出」にも、描かれているのはいつもの同じ黄昏、同じ樹下のつどい、同じ絹の煌めき、同じ音楽、同じ恋歌でありながら、そこにはおそろしいほど予感と不安が欠け、世界は必ず崩壊の一歩手前で止まり、そこで軽やかに安らうているのである〉 

 小高い丘の上の木陰から半裸のヴィーナスが見守る中で、典雅な装いをこらした八組の男女が寄り添い、語らい、或いは手を取り合いながら歩いてゆく。周囲には春先の霞のような大気が漂っていて、その空にはキューピッドが舞っている。彼らは画面の前方の船着き場へ向かっているのだが、うっすらと広がる靄のような空気が見晴らしを遮っていて、定かには見えない。

◆ヴァトー『シテール島への船出』(1717年、油彩・カンバス、パリ ルーヴル美術館)
 

 それは気まぐれな春の陽気がもたらした眺めという以上に、もっと深いこの時代の表徴のようにも映る。明日の日にどのような瓦解や崩落があろうとも、なんの疑念も幻滅もなく人々が優雅な恋の戯れにいそしみ、官能の花がほころぶ、18世紀のロココの時代精神である。
 フランスのロココ時代はルイ14世の治世の晩期から18世紀後葉の〈革命前夜〉にわたる時期に相当する。華麗で優美な曲線に彩られた建築や装飾に象徴されるロココの時代の社交空間は、同時に怪しい投機システムを財政改革に持ち込んで失敗したバブル経済の元祖のジョン・ローや、稀代の色事師として今日伝わるカザノヴァのような人物が、その歴史上の役回りとして記憶されている。
 砲声や流血に洗われる革命の気配はまだ遠い。ブルボン王朝にあらわれた貴族たちが、気品と優雅を競って最後の花を咲かせた旧体制の〈楽園〉の時代は、かたわらでこうした暗躍する山師や成金たちの野心と陰謀が渦巻く、むき出しの欲望の社会と背中合わせでもあった。

 一触即発の冷戦世界という現実を背負いながら、のどかな一国的平和とその果実を手にした日本の〈戦後〉の背景に、三島はロココ的な世界を夢見ていたのだろうか。彼が書き継いだ『青の時代』や『金閣寺』、『絹と明察』や『宴のあと』などの小説は、すべて戦後の日本で実際に起きた事件をモデルにして描かれた。
 こうした現実の向こう側に三島が見立てた〈ロココ的世界〉がある時反転して、彼を「英雄的な死」が待ち受ける「彼岸」へと駆り立てた。 

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  〈蹶起〉の一週間前、三島は文芸評論家の古林尚との対談で「自分をもうペトロニウスみたいなものだと思っている」と述べている。ローマ皇帝ネロの側近で『サチュリコン』の作者と言われるこの古代の文人政治家の最期を、自身に重ねたのである。ポーランドの作家、シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』のなかで、皇帝ネロの不興を買ったペトロニウスは、花々で飾られた美女が侍る贅沢な饗宴の席で、客たちにこう語りかける。

 〈親愛なる諸君!歓をつくしてください!愕いてはいけません。老いと、衰弱とは晩年に於ける人間の悲しむべき事実です。私は歓をつくし、酒を飲み、音楽を聴き、側に美人たちを眺め、そして花の冠を戴いたまま、永い眠りに入りたいと思います〉(シェンキェヴィチ『クオ・ヴァディス』河野与一訳)  

 

◆「クオ・ヴァディス』(ヘンリク・シェミラツキ、1897年、ワルシャワ国立美術館蔵)

 ペトロニウスは客人たちにこう述べたあと、皇帝ネロへの痛烈な批判を読み上げ、医者に命じて自身の動脈を切って死の褥につく。美しい女奴隷エウニケを道行に従えて。のちに〈昭和元禄〉と呼ばれ、高度経済成長の宴のさなかの日本にあって、三島がたくらんで成し遂げた自裁に、この古代ローマの文人政治家の〈美しい死〉の影を見出すことは、容易なことであろう。
 『ハドリアヌス帝の回想』の著者でフランス初の女性学士院会員となった作家のマルグリット・ユルスナールは、三島由紀夫が自裁してから10年後の1980年に『三島あるいは空虚のヴィジョン』を書いている。

〈三島のなかの伝統的日本人としての分子が表面に浮かびあがり、死において爆発したという経緯を眺めれば、逆に彼は、いわば彼みずから流れに逆らって回帰しようとしたところの、古代英雄的な日本の証人、言葉の語源的な意味における殉教者ということになろう〉

   やがて三島は戦後の〈楽園〉の夢想から覚醒してもう一つの「シテール」へ漕ぎ出す。舞台は若い同志たちと乗りこんで自衛隊員に〈蹶起〉を呼びかけ、割腹自決を遂げた東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーである。〈英雄的な死〉へ向かって生き急ぐ作家の内的な衝動は、戦後という〈楽園〉の仮構を破砕して、あの「聖セバスチァンの殉教」の官能的な法悦へ回帰していったのである。     


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