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【早起きできたら日記9】 私の〈おふくろ的こだわり〉について

6:30起床。今日は娘のお弁当を作る日。わたしは弁当を作ることはそんなに嫌いじゃない。キャラ弁などはもちろん論外。ただ冷凍食品や夕飯の残り物を駆使するだけだ。そんなに面倒には感じない。それなのに子どもたちは「ママのお弁当だいすき」と言ってくれる。ちょっと笑っちゃうけど、そこに〈おふくろ的こだわり〉を持ってないのでまあいいや、と思う。

家事嫌いの件も含めだが、わたしは何かにつけて〈おふくろ的こだわり〉がどうも薄い気がする。子どものことは当然愛しているし、教育や発達についての本を読むくらいの「子育て」に対する意識はある。でも習い事にいくつも通わせたり、知育を頑張ったり、何かに力を注ぐ感じ…そういう意欲があまり湧かないのだ。未就園児くらいの頃は子どもと向き合っている時間も長いので、足繁く公園へ通ったり、家で工作させたり、多様な体験を求めていろいろな場に足を運んだものだが、今はそういうこともあまりしない。家族でなら公園、レジャー、様々な場所に行きたいと思うが、わたし1人で連れて行こうという気が起こらない。わたしの思いつくことといったら「図書館か本屋に行かない?」 そればっかりなのだった。(自分でも笑える)

しかし思い返せば、一日のほとんどを子どもに費やしていた時期だって、わたしは自分の学びや自己実現の方に思考がとられていた。その「学び」としての興味のひとつに「教育」や「子育て」があって、我が子への愛情は、また別のところにある気がした。そして当時頭を悩ませていたことも、「子育てのうまくいかなさ」ではなく「わたしの人生どうしていくか」だった。子育ての困りごとは「はあ、大変」と受け止めていて、悩み事ではなかったんだなと思う。(コミュニケーションに問題を感じてコーチングを受けたこともあったが、問題を感じたのは”自分に”だった)いろいろ出かけていたのも、わたし自身がそのほうが楽しいからだった。「なんか、こんなんで良いのかなあ」と思ったりする。もっと子どもに必死になれなくて良いのかなあ、と。わたしの〈おふくろ的こだわり〉は、今も昔も「本で一緒に物語の世界を楽しむこと」のみ。あとは日々のスキンシップとコミュニケーションを多少意識してるくらい。愛情の割合と思考の割合は、別に比例しないのかもなあ。

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