匂いが産まれる

匂いが産まれる


 鉄の味とは言い得て妙で、何故なら誰も鉄を食べたことがないのに、そう言われると味がわかるからだ。血を舐めた時の味だと言われることも多いが、それとは少し違う。やっぱり鉄の味なのである。読んだところによるとそれは匂いのせいらしい。味を構成しているものには2種類あって、ひとつは「甘い」「辛い」という舌で感じ取るもの、もうひとつが「風味」、英語でいう「フレーバー」を鼻で感じていて、後者の、要するに「匂い」が味の一部となっている。かくして鉄の匂いは、鉄分を含む血液の匂いや味と比較され、独自の「鉄の味」を生み出すのだ。私達は鉄を食べることは出来ないが鉄の匂いを嗅ぐ、「風味」を味わうことは出来るわけで、鉄の味はここに由来している。

 わたしは恋人の首筋に張り付いて、彼の匂いがする。と言う。しかしどんな匂いかと尋ねられると考えてしまう。汗の匂いだとか服の匂いだとか言えたら良いが、人の匂いとは上手く言葉で形容出来ないものだ。わたしは目を閉じて嗅覚を研ぎ澄ませ、自分の中から言葉を探す。彼は汗をかいているが、俗に言う汗臭さはなく、それよりもっと濃い何かが隠れている匂いがして、わたしの頭の中に小さい頃に聞いた童謡、「大きな古時計」が流れる。彼の太い手が古い茶色の木目に触れて汗が染み込み、ガラス扉の向こうの振り子が揺れ、ポンと鳴る。その匂いだとわたしは言った。わけがわからないと笑われた。

 恋人はわたしの髪に顔を埋め、わたしの匂いがすると言う。と言うのでどんな匂いかと尋ねたら、少し考えた後すぐに甘い匂いだと言った。甘いがシナモンのように甘ったるくなく鼻に抜ける、炭酸みたいな匂いだと。なるほどとわたしは笑った。

 わたしは他の人にも甘い匂いがすると言われたことがあり、医者はそれをケトン臭と呼んだ。ケトン臭とは体内で糖が上手く使われない時にする匂いで、ダイエットをしている人、糖尿病の人、「死にかけの患者からする匂いである」らしい。わたしからもその匂いがすると。私は10人にひとりが死ぬという最も死亡率の高い精神疾患を患っている、摂食障害痩せ型であり、やはりなるほどなと思う。

 その匂いが好きだとわたしの恋人は言った。遺伝子的に相性が良い人の匂いを人は無条件で良いと感じるらしい。わたしと彼とは遺伝子レベルで相性が良いのか、だったらあなたはわたしの抱える「死」と相性が良いのか||。炭酸みたいに軽く、いつの間にか消えて行くわたしと、古時計のように重たく、手汗に塗れ存在感のあるあなた、全く不釣り合いのように思えるが、もしも遺伝子的に相性が良くて彼の隣にいられるのならば、彼を死に近付けたくはない。わたしは彼のことが大好きで、極めて尊い存在だと思っている。

 わたしが彼の匂いを「汗の染みた大きな古時計のようだ」と言ったのは、彼が実際に汗ばんでいたこと、日に焼けて茶色く、筋肉のついた大きな肉体を持つこと、そして彼の中に知識や経験からだろうと思う。数歳上の彼は、人よりも波風のある半生を送り、何度も死ぬような目に遭い、多くの国々を訪れ、驚く程の書籍を読み漁り、かくして極めて知性的であった。わたしはそんな彼をとても尊敬し、一緒にいられることを大変喜び、以前よりよく食べ、「死」を自分と、そして彼とも、遠ざけようとしていた。勿論その方がずっと彼と一緒にいられる。しかしふと思った。

 匂いが味の一部であるならば、彼の匂いは彼の味の一部なのではないのだろうか。ということは匂いを嗅ぐことで

 わたしは彼を食べられる?

 彼は炭酸が好きでよくサイダーを飲んでいるが、シナモンは得意ではない。わたしの匂いへの言葉はきっとそこに由来するのだろうが、つまり彼はわたしを食べている。彼の食体験がわたしの匂いと、もっと言うとわたしの「風味」、味と重なり、彼の口から出ることがその証明だ。私は彼の中で食べ物として喩えられ、食べ物として「ある」と言って良い。そしてわたしの匂いを好きだと言った彼は、顔をわたしの髪の中から、首筋、胸元、臍周りへと移し、性行為をする。わたしは文字通り彼に食べられる。彼は炭酸を飲むように、炭酸のようなわたしの体を嗅ぎ、舐め、念入りに食べて行く。だったら、彼がわたしを食べられるのならば、

 わたしだって彼を食べられるはずだ。

 口元がニヤリと歪む。摂食障害のわたしはいつもお腹を空かせている。けれども匂いを嗅げば、美味しいものを腹いっぱい||

 血の匂いがする。

 恋人は朝早くにわたしの部屋を後にした。わたしは彼が食べ飲みした酒のグラスや夜ご飯の残り、脱いだパジャマなどを片付け、彼が置いて行ったチェックのシャツに目をつける。「私に着てほしいと思って」持って来たというそれに昨日袖を通したが確かによく似合っていて、そしてその時彼の匂いがとてもした。思い出しながら片付けを終え、シャツの袖を鼻先に近付ける。やはりこの匂い。汗の滲みついた大きな古時計の匂い。シャツは濃い茶色に、紺と白のラインも入った上品な色合いをしていて、シャツのような見た目をしているが裏地が付いて重たく、着丈も長く、コートと言って良い厚みがあった。海外産のビンテージらしく、買ってから十何年と着ているという。これを着て彼は、イタリアに行き、アメリカに行き、何人もの女の子とデートし、本を読み漁った。凡ゆる年月がこのシャツの中に流れ、裏地には長年の汗が吸い込まれ、わたしはもう一度袖先に顔を埋め、鼻で大きく息を吸う。彼の匂い、シックなシャツのデザインと古さが、流れる歴史が、シャツと彼の厚みが、わたしの頭の中にやはり、古時計を連想させた。

わたしは匂いを嗅ぐ。

袖先にあてがった鼻をゆっくり動かしていく。

手首、腕、二の腕、肩先、首元

服の生地を回転させながら

丁寧に

丁寧に

嗅ぎ残しのないように

首元から胸、腹、臍、丈のかかる大腿部

時計の振り子が金色に揺らめく

大きな背中まで嗅ぎ終わり

彼の匂い

思わず

舌先を出して

ぺろりと

繊維の一筋を

舐めて

彼の匂い

彼の味

わたしは彼を食べようとしている?

彼の一部を食べている!

汗の匂い

大きな古時計に染み付いた

知識と経験の匂い

でも足りない

わたしの口元はさらに歪んだ

シャツを着て、自転車に飛び乗った。


 味を構成するものには2種類あって、ひとつは「匂い」、もうひとつは「甘い」「辛い」など舌で感じるもの。前者はここにある。彼のシャツを着ると、端から匂いを嗅ぐよりもうんと強く、彼の匂いを感じられて、ニヤつきが止まらない。彼の匂い、彼の味をずっとずっと鼻で「食べていられる」。わたしは嬉しくって堪らなかった。しかしまだ足りない。わたしはもっと彼のことを味わいたい。惜しいことに、わたしの中で彼の味はまだ完全ではない。味を構成するもうひとつ「甘い」「辛い」などの舌で感じるもの、これをわたしはまだ得られていない。かつわたしの部屋に彼のシャツを置いておけばおくほど、彼の匂いは薄れていった。彼がシャツに袖を通さず匂いが移らないからだろう、このままだと完全に彼の匂いはなくなってしまうかもしれない。わたしの部屋にシャツがあったとて、わたしがずっと彼を嗅ぎ続けられる、食べ続けられる保証はないのだ。自転車に乗るわたしに向かい風が吹き付ける。風がシャツの匂いを飛ばして行ってしまわないか。ないしは風の匂いと混じり合って、シャツの匂いが薄れてしまわないか。鼻で息をすると秋の冷たい風が通り抜けるばかりで、匂いは感じられなかった。寒さに鼻を啜る。ここだ。

 わたしの部屋には置き時計がなく、恋人にもあったら便利だと言われて探していた。そして近所に一軒だけ時計店があるのを見つけた。しかもヴィンテージ専門店。高級そうな腕時計が並ぶ中、わたしは置き時計の棚から木製の小さな振り子時計を手にとった。文字盤が汚れ、木の柱も古びたものを選ぶわけを店主に尋ねられたが、「そろそろお腹が空いたので」と、店主の長話を遮り店を出た。

 「時計買ったんだ」

 「そう、良いでしょ。 あなたの匂いみたいな」

 「俺って汗臭いおじいさん時計なの?」

 「違うけど」

 部屋に来た恋人と軽口を叩いて笑う。頬にキスをするとやはりシャツと同じ、彼の匂いがした。

 「でも好きなの」

 わたしは考える。この匂いが永遠に続くにはどうすれば良いか。匂いを嗅ぎ続けられれば、永遠にわたしは彼を食べ続けることが出来る。大好きな彼のことを。今日はハロウィンで、ゾンビ映画を観ようということになった。テレビの中で次々とゾンビと化した人が人を食べていく。わたしは彼にカニバリズムの話をした。人の体の中で一番美味しい部分は何処だと思う? 答えは太ももの裏。80年代に女性を殺して食べた男の人がそう言っていた。とわたしは述べる。シャツには彼の太腿の匂いもついていないので、わたしは彼のズボンさえも欲しかった。しかしそれでは不十分で、服の匂いはいつか消える。匂いだけでは味にならない。「甘い」「辛い」のような舌で感じるものがない。それを得たいのならば、匂いを嗅ぐふりをして彼の喉元に齧り付き、

一気に

肉を剥がし、血が飛び散り、口の中いっぱいにぐにゅぐにゅとした動脈の食感と、汗の染み付いた大きな古時計の味が広がり、そうだ、それが良い

わたしは服を脱いで膝を付き彼の腹の上に跨り、裸の彼を見下ろす。汗が滲み、筋肉が脈打ち、黒い肌が光っている。

「良い匂い」

わたしは右手に置き時計の振り子の針を忍ばせて彼の喉に手を当てる。彼の大きな目が見開かれ、わたしを見上げ瞬きをする。わたしはゆっくりと顔を下げ、ゴクリと

喉が鳴る

力を込める

飛沫

わたしは今日この日の匂いをいつまでも忘れないと思う。


 この家に引っ越して来てから長い時間が経ち、置き時計は壊れてしまった。分解して修理を試みてみたものの動き出すことはなく、やたらに鋭い振り子の針先で指先を切るだけだった。動いていた頃は大きく立派に見えていたが、分解すると個々のパーツはとても小さくて、作業をしながらわたしはかつてこの置き時計を買った日のことを思い出していた。わたしの匂いを「炭酸水」に喩えられ、彼の匂いを「汗の滲んだ大きな古時計」と喩えたこと。その日から、彼とこの置き時計を見る時間が、彼が時計に触れる瞬間が、長く多く積もり、彼の匂いが置き時計に染み付いているような気がした。わたしは歯車やネジや釘やよくわからない小さなパーツを掌の上に乗せて鼻先に当て、匂いを嗅ぐ。喉がゴクリと鳴り

あんぐりと

大口を開けて

咀嚼する

鉄の匂いが血の味にどうして喩えられるのか

 わたしはあの日思い留まった。置き時計の針をベッドの脇に捨て、彼の体に覆い被さる。大好きな彼を死に近付けるわけにはいかない。彼は「死にかけ」のわたしとは違うのだ。いや、そもそもわたし自身「死」から遠ざからなければならないし、匂いを嗅いで、対象を殺してしまっては、言い換えると、匂いを味にして一回きりの「食べる」をしてしまっては、匂いが永遠になるわけもない。永遠に食べ続けることも出来ない。わたしは彼の頬に名残惜しく口を付けた。彼の匂いがとても強く、やはり良い匂いだと思った。

 匂いが味になる方法をもうひとつ知っていた。その話は彼がゾンビ映画を観た後に教えてくれた。ゾンビ達は人体を味わって食べているのか、そもそもゾンビに味覚があるのか、ということをまじまじと考えているわたしの傍ら、酔っ払った彼はクリスマスソングを次々とテレビで流し出し、長話をした。含蓄と経験に富んだ話と、惚気話だった。

「お陰で今年のクリスマスは楽しいものになりそう」

「わたしでも幸せになれる?」

「なれるよ。ふたりなら、幾らでも」

 そしてわたし達は「we wish a merry Christmas」の「merry」がどういう意味なのかを話し、秋に買った花火に来年の夏にこそ火をつけようと話し、まだ見たことのない景色の話をしては旅行に行き、自転車で二人乗りをし、何十、何百回と街を駆け回った。彼の背中からはいつも汗の染みた古時計のような匂いがし、それとわたしの炭酸のような甘い匂いとを混ぜる、向かい風がいつも心地良く吹いた。わたしは彼に負けないくらいの多くの本を読み、そして彼と一緒に、多くのものの、匂いを嗅ぐだけではなく、味わい、美味しいと言って咀嚼し、そうしているうちに段々と「死にかけ」の体から生きている匂いがし始めた。骸骨のような体が少しずつ知識と経験と肉を付け、丸みを帯び、わたしはカレンダーと月の満ち欠けの様子を気にするようになって、

 そして迎えたあの日の匂いをいつまでも忘れないと思う。

 血の味に喩えられる、鉄の匂いと置き時計の味と、彼の匂いのはずだったけれども、歯車を飲み込んだ後シャツに鼻を当てても、何の匂いもしなくなっていた。彼のシャツはわたしの家に置かれたまま、わたしのものになり、わたしの家は彼と同じ場所になり、人は他人の匂いには敏感だが自分の匂いは慣れてしまって、わからないものだった。彼の匂いは、長い間一緒にいるうちに、わたしの匂いになってしまった。わたしから炭酸みたいな甘い匂いは消え、「死にかけ」のケトン臭は消えたが、彼は彼女の薄い髪に顔を埋め、わたしの匂いがするという。というのでどんな匂いかと尋ねたら、少し考えた後にすぐに甘い匂いだと言った。私は笑う。

「炭酸の匂い?」

「うーんそんなんじゃなくて、なんか」

「食べちゃいたいくらい良い匂い」

「わかる」

 忘れられない血の匂いはもう過ぎ去っていた。彼はその匂いがする場面に駆けつけ、黒くて大きな手で私の手を強く握った。わたしは下半身だけ服を脱ぎ、目を見開く彼に見下ろされる。汗が滲み、筋肉が脈打ち、わたしは生きて来た中で一番口元を歪ませる。腹、臍、大腿部、その全てに力を込め、鼻で息を大きく吸い

ああ

この匂いだ

「おめでとうございます」

元気な女の子になりました


 匂いが永遠になる方法を教えてくれた時の彼はとても恥ずかしそうだった。酒に酔っているのか顔を赤らめ、しかしそれが本当になる気がして、わたしは鼻を啜った。暖房の効いた暖かい空気が鼻を通った。

 彼女からは確かに良い、甘い匂いがするが、炭酸水の匂いは決してしない。肉を裂き、血が飛び散り、ぐにゅぐにゅとした膣を蹴破って産まれて来たその子は、わたしが生きている証であり、彼の匂いと共に生きる証であり、赤ちゃんからは何故か「食べちゃいたいくらい良い匂い」がするものだ。

 匂いが永遠になるもうひとつの方法は、その匂いとずっと一緒にいることだ。これからもずっと一緒にいようねと言う彼の匂いに、私はなんと名前を付けよう。

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