自然の重ね描き|大森荘蔵『知の構築とその呪縛』
昔は近代知によって失われた自然の生命を復活する希望をこの書に感じていたが、久しぶりに読み返すとかつてほど筆者の論にすんなり乗ることができない。フッサール『危機』やコイレの近代科学批判に対して、自然の死物化の原因は自然の数学的描写にあるのではなく、それが幾何学・運動学的にしか描かれていないことにあるという反論(130)はもっともに思うが、その対案が「重ね描き」というのは、こちらの理解不足かもしれないが凡庸な結論に感じてしまう。
曰く「物と自然は昔通りに活きている。ただ現代科学はそれを死物言語で描写する。だがわれわれは安んじてそれに日常語での活物描写を「重ね描き」すればよいのである」。ここには科学的認識の解釈論への批判はあっても、科学的方法論そのものへの批判はなく、むしろその擁護として働いて、結局は科学の現状維持を推し進めることにならないか。重ね描きの精神は前提としつつ、僕らは新しい自然の描き方を生み出さなければ、さらに言えば「描く」という比喩を超えた科学を目指さなければならないのではないか。
とはいえ、昔感動した内容をいつしか当然のものと受け取れるようになったこと自体、かつてこの書を読んで知の構築にともなう「呪縛」から解放された結果なのだと思う。
pp.60-65, pp.77-85の西洋古代中世における自然論、生命論についてはこのテーマについて考えるとき参考にしたいが、参考文献として挙げられているスミス『生命観の歴史』を手に取った方がいいかもしれない。
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