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人工知能の限界は~東野圭吾さん『魔女と過ごした七日間』~

こんにちは。桜小路いをりです。

先日、東野圭吾さんの『魔女と過ごした七日間』を読み終えました。

元見当たり捜査員の父親を殺された中学3年生の陸真が、「魔女」を自称する不思議な女性と出会うことから、物語は始まります。

父親が隠していた秘密に驚く陸真ですが、彼女と協力して犯人を追うことに。

「魔女」こと羽原円華は、自身がもつ特異な能力と大胆な行動力を活かして、どんどん真相に近づいていきます。

「人工知能」と「DNA鑑定」について深く考えさせられる一冊です。

個人的に久しぶりのミステリー小説だったのですが、段々と真相に近づいていくドキドキ感は、「さすが東野圭吾さん」と唸らされました。

伏線回収も芸術的なほど綺麗で、登場人物の掛け合いも、軽やかな中でぐっとくるポイントも多くて、読後感もすっきり。
これだからミステリー好きはやめられない。

また、人工知能やDNAにまつわる問題提起も散りばめられており、それらを織り交ぜて展開していく物語に、時間を忘れて夢中になってしまいます。

時代背景的には、今から少し先の未来なのかな、と勝手に推測しています。
私は、十数年後くらい先の社会を思い描きながら読みました。

物語の中でとても印象的だったのは、「人工知能」と「見当たり捜査員」という取り合わせでした。

「見当たり捜査員」とは、指名手配犯の顔を記憶して、街中で一般人に紛れて指名手配犯を見つける警察官のことです。

もともと存在を知ってはいたものの、小説の中で、改めてそのすごさに驚きました。

卓越した記憶力と想像力で、指名手配犯を見つけ出す見当たり捜査員。
対して、数値とデータで指名手配犯を見つけ出す人工知能。

この小説の中のひとつのテーマにもなっており、ぜひ本作を読んでその対比を感じて、考えていただきたいです。

また、もうひとつのテーマになっているのが、「DNA」です。

ネタバレになるので詳しい情報は差し控えますが、私がこの本を読み終えて頭に浮かんだのは、「DNAという聖書」という言葉でした。

ボカロPのwotakuさんの楽曲「ジェヘナ」の一節です。

絶対に覆せない、どんなにあがいても変えることのできないもの。

そんなニュアンスを感じるこのフレーズが、「ジェヘナ」を聴いたときからやけに重く心に残っていて、それがこの小説を読んで鈍く光るような気がしました。

容姿は努力次第で変えられるし、生い立ちだって嘘を吐けば偽ることはできる。名前も、然るべき手続きを踏めば変更できる。

それでも、「DNA」を変えることはできない。

それに無力感を覚えるわけでも、反発するわけでもないけれど、ただ漠然と心に残っていた「DNAという聖書」というフレーズの意味が、すとんと腑に落ちました。

この小説に出会えていなかったら、この「すとん」は感じられなかったと考えると、何だか感慨深いです。

『魔女と過ごした七日間』、エンタメ性に富んだミステリー小説としても、ある種の社会派小説としても読み応え抜群の作品ですので、ぜひお手に取ってみてください。

今回お借りした見出し画像は、螺旋階段の写真です。DNAの螺旋構造のイメージで選ばせていただきました。どんどん謎の奥深くに潜っていく、というミステリーのドキドキ感にも重なる気がします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。