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世界音痴

『世界音痴』というのは歌人の穂村弘のエッセイ集のタイトルである。

〇〇音痴という言い方は字義どおりの「音程が取れない人」以外にも一般的に用いられる。方向音痴、運動音痴、機械音痴、味音痴などである。
音とは無関係でありながら「音」が残っているのが面白い。

世界音痴。世界とは自分を取り巻く自分以外の環境のことだが、自分以外すべてということはほとんど自分自身のことでもあろう。世界すべてが狂っているという人がいたら、それは本人が狂っていると言っていい。世界が憎い人がいたら、それは自分を憎んでいるのとほとんど同義だ。そこは表裏一体であって真逆のようでありながら真逆でない。

自分は世界音痴だろうか?違う言葉であれ、誰もが一度は思うはずだ。
しかも何か上手くいかないことがあった時にそういうことを考える。自分を疑い振り返る。
私は「音痴」だろうとは思う。いろんなことが苦手だ。上手くいかないなと思うことも日々あるし、周りが自分よりも上手くやれている気がしてしょうがない。何かが決定的に欠けているのではないか?と思ったりする。世界の音程が取れていないように感じてしまう。これを読んでいるあなたもそういうことはないだろうか?

だが、これをあえて正しく考えると「音痴なときや事柄もあるがそうじゃない部分もちゃんとある」という結論に落ち着く。しかもそれはほとんど全ての人にとっての事実だ。どうしようもなく音痴で生きていく資格がない、なんてことはない。原理的にない。自分の認識が今そうであるというだけのことに過ぎない。仕事だの、周囲との関わりだの、わずかな事例だので自分を決めつけてしまおうとする自傷的な心の揺らぎに過ぎない。つまり状態がたまたまそうだというだけのことで、少なくとも今まで生きてきた自分はちゃんとここにいて生きている。

よく物をなくそうが、他人の言葉に傷つこうが、生活の中でとても苦手なことがあろうが、人から評価されている実感がなかろうが、人がみな我より偉く見えようが、そういうのは全て自分の頭の中で肥大化させただけの認識に過ぎない。自分というものはすでにここにいるのだから、その現実を認めるだけでいいのだと思う。あとは、人生いろんなことがある。これは誰しもそうだ。浮き沈みというのは常にある。打ちのめされる気持ちになることは誰にとってもあり、例外はない。隣の芝生はよく見るとけっこう傷んでいるものだ。

ところで「穂村弘」という名前は、西洋絵画の「落穂拾い」(ミレー)みたいですね。どうでもいいですけど。

やぶさかではありません!