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受け身の人生と耳に痛い言葉

人に苛立つとき、その人は自分についても苛立っている。そうしてわけがわからなくなっている。感情が優位になり、今ここではない問題を引っ張り出し、自分の感情に必要な分の燃料となる記憶をどこからか持ってきて、自分の苛立ちの正当な理由にする。

要は整理がついてない。整理をつけるだけのパーテーションを自分の中で立ち上げる余裕がない。力もない。だから踏ん張りが効かない。マイナス1がマイナス90にも感じられる。だから人の評価が重くてしょうがない。プラス評価を熱望するくせに、人からのマイナス評価が怖くて、それによって起こる自分への失望が怖くて、評価が発生するような場所から離れようとする。

これらはすべて自分の中で起こっている嵐である。感情が苛立ち、気分が乱高下しても、他人や世界は長いこと何も変わっていない。あるいはめいめいに動いているだけで、自分に対するネガティブな働きかけなど実はほぼなかったりする。

仮にネガティブな働きかけがあったとして、それに反応しなければならないことはない。上記のような心の動きは、自己評価を他人に委ね過ぎている状態だと言わなければならない。あるいは他人に承認を求め過ぎている。これらすべてを総称すると「受け身の人生」ということになる。受け身の人生は自分で自分をコントロールできない。そういう理由で、生きづらさが増していく。

受け身の人が怖がるのは、他人の指摘や目線である。結局ここでも評価という要素が出てくる。ネガティブな評価をされるのが怖いのだ。なぜか?それは、自分自身が揺らぐような気になってしまうからである。物事の大概がそうだが、ひとつ隘路にはまるとぐるぐると抜け出せないスパイラルになっている。抜け出したいのであれば、どこかで変える努力をしなければ変わらない。それまでのやり方や考え方を変える必要がある。ダイエットもそうだ。それまでと同じ食事量と運動量では痩せることはない。

ところで話は変わるが、人に何か言いたいことがあった時(相手にとって耳の痛い正論などだ)、言ったほうがいいか言わないほうがいいか?これは言わないほうが絶対に良い。昨日のエントリー(D・カーネギーの話)ではないが、指摘というのはどれだけ正当であっても相手にとっては気分の悪いものだ。指摘というのは相手に我慢を、あるいは努力を強いる行為となる。また、言う側にとっては自己陶酔の恐れがある。自分だけが安全圏から何か良いことをした気になって、相手は自尊心を傷つけられ、当然の反発としての恨みが相手の中に発生する。

だが、何かを言わなければどうしても気が済まないような時、「今の件について本当はちょっと言いたいことがある、でもはばかられるので言いづらい」といったジャブの打ち方もある。ワンクッション入れる。これはギリギリの戦法だ。相手にとって痛い言葉というのは簡単に増幅して一人歩きし、その人の中でこちらではコントロールができない凶器となり得る。つまり指摘の言葉そのものは言わないほうが得策なのだ。だからその言葉は口にはしないが、相手に賛同はしないということでの態度は表明する。ギリギリというのはそういうことだ。
また、この場合はユーモアの介在する余地がある場合に限られるだろう。ピリピリとした一触即発の状況、または関係性の間柄では指摘のような言葉は一切発さないほうが得策なのは変わらない。

まあ、それよりも実用的で汎用性のある言い方は前エントリのカーネギーに倣うのがいいだろう。なんたって成功者だ。人がモデルとするのは成功者でなければならない。幸せになりたければ幸せな人の真似をするべきだろう。そのやり方が自分にとって合うかどうか?それは自分で考えるほかない。

やぶさかではありません!