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SNS時代の豊かさの話

日本人男性名に「豊」とつけられることが昔に比べて減ったという。

こちらのサイトによると、1960年代生まれの男性名にランクインしているのを最後に、「豊」は上位から名前を消している。
私は70年代生まれだが、確かに身の回りにも「豊」という名前の人は少なかった。ちなみに「太」さんは会ったことがある。背が高くてスッとした、非常に痩せ型の人だった。元気かなあ太さん。

名前というのは時代を反映している。SMAPの木村拓哉が人気を博せば「拓哉」が増えるし、野球で松坂が一世を風靡すれば「大輔」が増える。嘘のようだが本当である。そこには「スターのように人気者になってほしい」「あやかりたい」といった、名付ける両親の思いが込められている(のだろう。自分はそういう名付け方をしないので正直いってよくわからない)。

そして名前が「願い」であるならば、「豊」という名前がつけられる背景には日本の世相がある。世の中がまだあまり豊かではなく、それは手に入れたい目標であり願望だったのだ。60年代といえば1955年から1973年までの日本の高度成長期の真っ只中。主に物質的な豊かさが求められて国中が勢いに乗っていたその時代を考えると、実に象徴的な名前であるといえる。

2023年(令和5年)の男の子の名前ランキングを飾るのは、蓮(れん)、碧(あお)、陽翔(はると)、湊(みなと)、凪(なぎ)、律(りつ)などである。60年代生まれの「豊」のような土着的で意味性の強い名前ではなく、言葉自体がきれいでポエティックな、物語に出てきそうな名前が現実につけられている。碧や律といったあたりはワールドカップの影響だろうか?日本代表で活躍した田中碧や堂安律といった名前の選手と同じである。

かつて高度成長期に求められた豊かさと、令和の時代の豊かさは同じではないだろう。社会状況があまりにも違いすぎる。
世の中がうんとデジタルになり、スマホの普及からSNSの隆盛によって我々の生活はすっかり塗り替えられた。皆が気軽に何かしらを発信できるようになった。その功罪、善し悪しはあるものの、それはいつどんなものについても付きまとうものだ。とにかく我々の暮らしはデジタルになった、といえるだろう。

その中での豊かさというものを考える時、より「五感」が本質的な要素として重要になっていると私は思う。と書くと少々固いが、つまり人々の感覚、表現そのものが、その人の魅力としてよりクローズアップされやすい環境であると言いたいのである。
文章を書く、写真を撮る、動画を撮る、イラストを描く。これらはすべて表現活動であり、表現する時にはその人のセンス、つまり「世界の捉え方」がくっきりと表象される。そういう時代なのである。

SNS等によってその人の魅力が垣間見える環境に比べると、いわゆるリアル(という言い方は違和感があるが便利なので暫定的に使う)でのやり取りはまるで水面上の氷山である。その人の一部しか見えていないし、見せようがない。実際に会って話すだけではもう足りないのだ。つぶやきという本音も、写真を撮ることで見える美意識も、シェアしているものでわかるセンスも、対面して話し、その姿を見るだけでは感じられない。会うことがダメだと言っているのではない。会うだけではその人についての情報としてあまりに乏しく、その人の持つ豊かさは見えてこない。なぜなら、我々はSNSにおける表現というものを得てしまったからである。

ところで、名前についてもう一つだけ。私の実名は「忍」なのだが、先に書いた「名前は願望」という説に沿うと、これはどういうことなのだろうか?苦境にあっても我慢せよ、みたいな意味か?と思って若い頃モヤモヤしていたのだが、以下の解釈がかっこいいので採用している。

「忍」という漢字は、上が「刃(やいば)」下が「心(こころ)」から成り立っている。つまりこの字は、心臓に刃物が突きつけられるような危機的状況であっても動じずに冷静に考え、自分の意思を変えないという強い心をあらわしている。

「忍」のもつ意味/忍者の聖地 伊賀/伊賀ポータル

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