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ピアノを拭く人 第3章 (5)

 月は川面に映りそうなほど、煌々と輝いている。彩子は、信号待ちをしながら、買い物を繰り返した透を残念に思う反面、どこか安堵している自分に気づいた。
 新たな透を知るたびに、その姿に魅了され、恋心は増していく。それに比例するように、病気から解放された彼が自分から離れてしまうことへの怖さも膨らんでいく。彩子は同居する相反する感情に戸惑った。


「見苦しいところを見せて、申し訳ない……」
 落ち着きを取り戻した透が、地を這うような声で言った。
「普通に思い出す嫌な記憶が1か2ぐらいの衝撃だとしたら、強迫観念は50から100くらいの強さで直撃してくるんだ。全身がぞわっとして、血の気が引き、自分では如何ともし難い絶望的な気分に襲われる。それをそのままにするのに耐えられず、さっきみたいに衝動的に、強迫行為に走ってしまう……。そのままにして、観念が心を通り過ぎるままにしなければいけないのだけれど……」
 透の絞り出すような低い声が、彩子の胸を強く締め付ける。
「そうなんだ。話してくれてありがとう。強迫観念の怖さは、私は透さんと同じようにはわからないけれど、それと向き合う強靭さに頭が下がる思い。さっきみたいになったとき、どうすればいいか桐生先生に相談してみよう」
 彩子は車を発進させながら、醜い感情を払拭するように、張りのある声で言った。
「そうだな。1日でも早く良くなれるように、もっとエクスポージャーを頑張るよ」
 苦悩を抱えながらも決意を瞳に宿し、前を見据える透の横顔は、胸が震えるほど凛々しい。
 それを見た彩子は、胸に巣食う独占欲に罪悪感を覚え、自分は彼の回復を支えられるだけで幸せだと言い聞かせた。


「すごいな……。みんな美味そうだ」
 エプロンをかけた彩子が、次々と食卓に並べる料理を見て、透が感嘆の声を漏らした。
「いま、透さんの好物のから揚げを揚げるから、先に飲んでてくれる?」
 彩子は、スパークリングワインを冷蔵庫に入れ、冷えた酎ハイとグラスを並べた。
「いや、飲むのは後でいい」
「そう。じゃ、テレビでも見て、待ってて。揚げたてを食べてほしいから」
 透は、しばらく1LDKの彩子の部屋を興味深そうに観察していたが、カバンから文庫本を取り出し、ソファに掛けて読み始めた。

 彩子は鶏肉が揚がる音を聞きながら、透が自分の部屋にいる現実を捉えかねていた。別世界にいるような高揚感のなか、次々と揚がっていくから揚げを、レタスをしいた皿に盛りつけ、レモンをスライスして添えた。

「何読んでるの?」彩子はから揚げの皿を運びながら、小説に没頭している透に尋ねた。
「トゥレット症候群と強迫神経症を抱える私立探偵が出てくる小説『マザーレス・ブルックリン』。このあいだ、映画を見たから、原作を取り寄せたんだ。彼みたいに特性を仕事に生かせるならいいが、俺のは役に立たないから、治療したいね」
「面白そうだね。私も読みたい。読み終わったら貸してくれる?」
 透は肯き、本をカバンにしまって食卓に戻った。
「彩子の本棚、自然科学系の本が多いな。さすが、理系女子だ。コロナ禍で再評価されているカミュの『ペスト』とか小説も読むんだな。ところで、ユヴァル・ノア・ハラリとダン・ブラウンは全部揃えてるのか?」
「うん。原書と翻訳、両方揃えるほど好き」


 2人は酎ハイをグラスに注いで乾杯し、いろいろな話をしながら、よく食べた。彩子は、透が野菜を最初に食べること、シチュー系はパンよりもご飯にかけて食べるのが自分と同じだと知り、意外な共通点に驚いた。コーヒーを淹れ、手作りのケーキを平らげると、2人ともすっかりお腹が満たされた。
「スパークリングワイン、そろそろ冷えたと思うけど、開ける?」
 彩子は料理の皿を片付けながら尋ねた。
「いや、いいよ」
 透は洗い物をする彩子の横に立って皿を拭き、料理の残りをタッパーに詰めてくれた。彩子の頭のなかに、約束されていたことへの予感が漂い、心臓が早鐘を打ち始める。


「彩子、座って……」
 片付けが一段落すると、透はソファにかけ、玉露を入れる彩子の背中に声を掛けた。彩子はサイドテーブルに茶碗を置き、やや緊張した面持ちで透の隣に掛けた。
「メリークリスマス」
 透がカバンの中から、ラッピングされた小箱を出し、彩子に差し出した。
「ありがとう。開けてもいい……?」
 透の了承を得て、包みを開けると、パープルの洒落たボトルに入った香水が出てきた。
「ブルガリのオムニア アメジスト……?」
 彩子がボトルを開けると、フローラル系の繊細な香りが、ふわりと立ち上がる。
「彩子、いつもピンクグレープフルーツの香りのボディミストつけてるだろ? その香水、トップノートにピンクグレープフルーツが入ってるから気に入ると思った。きりっとした爽やかさと、女性らしいやわらかさもある香りで、できる女の彩子にぴったりだ」
「好きな香りだよ、ありがとう……。勿体なくて使えないよぅ」
「つけてみろよ。使い切ったら、またプレゼントするから。実は退院して、最初の買い物だったんだ。デパートに行って、店員に商品を出してもらって、ラッピングをお願いするのがすごいハードル高かったんだぞ。店員に何度もお礼を言って、手数をかけることを謝ってしまい、恥ずかしかった……」
「そのことが一番嬉しい……。この香水が似合う女性になれるように頑張るよ!」
 彩子は感極まって、透に抱きついた。この瞬間、世界が終わってもいいほどの幸福に包まれた。


「私も用意してあるの」彩子は抱擁をとき、東京出張の日に買ったプレゼントを部屋から持ってきた。
「開けていいのか?」
「もちろん。手袋だけどサイズ合うかな? 透さん、手が大きいから」
 メローラの黒い手袋は、透の大きな手を包んでくれて、彩子は安堵に胸を撫でおろした。
「暖かいよ。それに、すごく上質だ。良いものを身に付けると、立ち振る舞いまで変わる。モデルのバイトをしていたときの気持ちを思い出すよ。ありがとう」
「ピアノを弾く大切な手、冷やしてほしくなかったから」
「ずっと大切にするよ。本当にありがとう」
 透は手袋をしたまま、指を伸ばしたり曲げたりし、付け心地を確かめた。


 彩子は透の黒いセーターの胸に横顔をつけてもたれた。思えば、誰の目も気にせず、2人でゆっくり過ごせるのは今夜が初めてだ。耳に届く音が次第に遠ざかっていき、透のやや速い鼓動だけが力強く響く。


「彩子、深い関係になる前に、話しておきたいんだ……」
 透は彩子の体をそっと離し、頬を引きつらせて切り出した。