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コラボ小説「ピンポンマムの約束」6

 本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。

※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 あたしは目覚めが悪い。起床してから、脳や身体が活動モードになるまで時間がかかる。睡眠と日常の境界が曖昧な入院生活だとなおさらだ。目覚めきれていない朝方は、強迫観念に侵入されやすい。それを知っているだけに、余計に怯えてしまう。

 タオルと洗顔フォーム、歯磨きセットを持って洗面所に向かう。電動歯ブラシで一本一本入念に磨き、コップに汲んだ水で口をゆすぐ。口の中に滞留していた夜の澱がミントの味に流されると、少し頭がクリアになる。

 腕をまくり、伸びすぎた前髪をヘアピンで留め、両手をこすり合わせて洗顔フォームを泡立てる。ほとばしる水道水を掌に受けると、脳の覚醒に拍車がかかる。水と洗顔フォームが良い比率で混じり、両手に純白の泡が盛り上がる。

 それを顔にぬろうと腰をかがめたとき、「あたしみたいなのが親戚にいるせいで、従妹の結婚が駄目になる」という考えがすうっと頭に侵入してくる。あたしの動きは電気ショックを浴びたように静止する。すとんと血の気が引き、全身の毛穴が収縮する。あたしは、両手の泡を顔にぬり付け、乱暴に顔をこすり、水をばしゃばしゃかけて流す。顔を拭くのもそこそこに、持ち物をまとめて、部屋に逃げ帰る。廊下でパジャマ姿のおばちゃんとぶつかりそうになったが、きちんと謝ったかわからない。

 ベッドの上に座り、化粧水やクリームをつけるのも忘れ、肩で息をする。心音は、耳の傍で打っているのかと思うほど激しい。帯びた熱で顔の水分が蒸発していき、皮膚が突っ張る。

 一昨年、婚約者と一緒に、宮崎県にある彼の実家に、結婚の許可をもらいに行った。彼のお母さんは「あなたのような高校も出てなくて、よくない経歴のある方を身内に迎えたら、娘の結婚が駄目になるの。向こうは由緒ある家柄でそういうことを気にするのよ」と大反対した。彼のお父さんは不動産事業を幅広く展開する名士で、彼の妹は県会議員の御曹司と縁談が進んでいた。
 そのことが頭にあり、あたしのせいで、子供の頃から仲良しだった優秀な従妹の結婚が駄目になるかもしれないという考えが浮かんだのだろう。いままで、そんなことを考えたことないのに、どうしていま、こんな考えが浮かぶのかと腹が立つ。けれど、一旦入ってきた強迫観念は、他の考えを一切寄せ付けない力で脳を浸食していく。あたしと違って頭が良く、優しくて美人の従妹が嘆き悲しむ姿が浮かぶ。やっぱり、あたしは周囲の人を不幸にする。生きている価値なんてない!!

 あたしが凍り付いていても、周囲の世界は進んでいく。夜勤の看護師さんがバイタルチェックをし、看護助手さんが朝食用のお茶を注ぎにくる。朝食のトレイを乗せたワゴンが忙しく廊下を行き交い、残留していた夜の空気が朝の空気に駆逐される。あたしは、その流れから切り離されたまま、配膳された朝食を機械のように口に運ぶ。何をどれくらい食べたか、味がどうだったかなんてわからない。強迫観念に振り回されてはならないと思っても、他の思考をねじ伏せる勢いで脳を支配されてしまうのだ。


「顔色がよくないですね」
 朝の回診にきた金先生が、何の感情も映さない目で、ベッドに横たわるあたしを見下ろす。

「今朝から、強迫観念に襲われていて……」
 あたしは溺れた人が助けを懇願するような目で訴える。

「どんな強迫観念ですか」

「あたしみたいな落ちこぼれが親戚にいるから、出来のいい従妹の結婚がダメになると……」
 言葉にすると、かたちのないものが輪郭を与えられたように、くっきりと脳に刻印されてしまう。

「ほう」
 金先生は、表情筋を動かさず、口元だけで反応する。

「マインドフルネスを試してみるのはいかがですか。強迫観念は、相手をしなければ去っていくと学習したでしょう」
 ロボットのように乾いた口調に、あたしの苛立ちは募る。

「でもっ、強迫観念は、四苦八苦して一つやり過ごしても、もぐらたたきみたいに、ぼこぼこ湧いてくるんです。それで一日が終わってしまって、くたくたになってしまうんです!」

「強迫観念を恐れず、どうぞお越しくださいと構えていればいいのです。避けるのではなく、嫌なことをどんどん浮かべてください。怖い話を何度も聞く課題で、その効果を学習しましたよね」

「でも、あたしに従妹は1人しかいないし……。他の従妹の結婚がだめになることを想像できないんです」

「でしたら、あなたと親しくした友達が、あなたと関わりがあるせいで結婚できなくなると想像したらいかがでしょうか」

「従妹と友達では親しさが違うし、同じ怖さは感じられません! 強迫観念にも怖さの種類があるんです」

「それなら、私があなたの主治医だというせいで、あなたに恨み殺される可能性があるので、婚約者がそれを恐れて破談にすると想像してください。私は同性愛者なのでパートナーですが。だめなら、さらに怖い話を作り、スマホに録音して何度も聞いてください」

 返す言葉が見つからないあたしに、先生は温度を感じさせない口調で続ける。

「いつまでも観念の相手などしていないで、米田心理士の課題に取り組むことをお勧めします。院内の人を片っ端から呪う課題が出ているのでしょう。タブレットが使えるように頑張ってください」

 先生は糊の効いた白衣の裾を翻し、幽霊のように足音をたてずに病室を出ていく。その冷淡さがあたしの闘争心をかきたて、課題に取り組むために起き上がることができた。


                 ★
 中庭に出ると、思ったより日差しが強い。首筋に初夏の日差しを受けて歩きながら、目についた人を観察する。

 お見舞いに来たらしい若いお母さんと3歳くらいの女の子があたしを追い越していく。高そうなワンピースを着たお母さんは娘と手をつなぎ、愛情に満ちた視線を娘に注いでいる。幼女は母親に甘えた瞳を向けながら、跳ねるように歩く。あたしは、幸せな空気に包まれた光景に神経がささくれ立ち、あの娘が車道に飛び出して車にはねられて即死し、母親の気が狂ってしまえと小声で呪詛の言葉を吐く。ぞわっと悪寒が走るが、木々のさざめきに注意を移し、紫外線をたっぷり含んだ木漏れ日を頬に浴びながら歩く。

 視線を上げると、猫背の医師と、勘に障る声で話す看護師が渡り廊下を行くのが目に入る。看護師は体格がいい。身体を揺らしながら歩くので、丸眼鏡がずれて鼻に乗っている。ユニホームがぱんぱんで、今にもボタンが飛びそうだ。彼が高カロリーで味の濃いものを幸せそうに食べる様子が浮かぶ。あたしは、あのデブが糖尿病になり、食事制限で好きなものが食べられなくなるよう念じる。

 いやな気分が全身に広がる前に、次のターゲットを探す。水色のストライプのパジャマを着たおじいちゃんが、杖をつき、蟹のような歩幅で歩いている。この病院には、老年精神科があるので、中庭には杖や車椅子の高齢者がたくさん目につく。あのおじいちゃんが転倒し、大腿骨を折って寝たきりになることを想像する。

 そのとき、おじいちゃんが、バランスを崩して前のめりになる。血の気がすっと引き、周囲の音が遠ざかっていく。あたしは踵を返し、狂ったように大股で歩き、空いているベンチを見つけて倒れこむように腰を下ろす。心臓がドラのように打っている。おじいちゃんが転倒し、担架で運ばれる光景が浮かぶ。それがこの目で見たことなのか、想像なのかわからなくなる。強くなった陽射しが首筋にじりじりと照り付ける。

 全身に鳥肌が立ち、歯ががちがちと鳴りだす。あの場所に戻っておじいちゃんが大丈夫か確認すべきか、でも、あたしの思った通りになっていたら……!身体からすべての感覚が遠のいていく。

「千秋さん」
 海宝さんの声があたしをつなぎとめる。
「どうしたの、気分が悪いの?」
 彼女の小さな手を背中に感じるが、動悸は治まらない。

「だから、こんなことしたくなかったんです!! ストレスが増えるだけで、全然効果ありません!」

「千秋さん、深呼吸して。いまどんな音が聞こえる?」

「草刈り機の音……」
 喧しい音を立てて動く自動草刈り機が、芝生を整えている。

「草刈り機は何台動いている?」

「2台です」

「その機械には、何て書いてある?」

「浅川園芸」

「いま、どんな匂いがする?」

「草のにおいと、たぶん何か汁物のにおい」
 少し先の厨房で、昼食の準備が佳境に入っているのだろう。

「何があったの?」

 海宝さんの質問に答えているうち、さっきより落ち着いてきた自分に気づく。
「杖をついて歩いていたおじいちゃんを、転んで寝たきりになれと呪ったら、本当に前のめりになっちゃって……」

「そんなの偶然でしょう。あなた、超能力者か何か?」

「怖くて、逃げてきちゃって……。戻って確かめたほうがいいでしょうかっ?」
 興奮して溢れた涙を拭いながら、海宝さんに答えを求める。

「その場を離れたのはいいことよ。同じ場所にいるといつまでも気分が変わらないわ。よく頑張ったわね」
 海宝さんは目だけで優しい笑みを見せる。

「確認をしに戻るのはよくないわ。気になるなら、転びそうなおじいちゃんやおばあちゃんをもっと探して、転べとか階段から落ちろとか呪いをかけるのよ。最初のおじいちゃんより、もっとひどい状況になるようにね」

 海宝さんはそう言い残し、渡り廊下を去っていく。

「何でこんな拷問みたいなことをしなくちゃいけないんだよ……!」
 あたしは口の中でぶつぶつ言いながら、弱々しそうな老人を探す。

 痩せたおばあちゃんが歩行器につかまって歩いている。あたしはおばあちゃんを見据え、転倒して頭を打ち、数日後に脳出血で亡くなれと呪いをかけてみる。おばあちゃんが転ぶ様子はなく、速度を変えることなく悠然と歩いていく。

 さっきのおじいちゃんの姿が鮮やかに焼き付いて離れない。もっと、呪わなくてはと次のターゲットを探して歩く。

 中庭の隅にあるベンチに、表情に乏しいおばあちゃんがパジャマにカーディガン姿で座わっている。お見舞いに来たらしい中年男性が隣に座り、くうを見据えるおばあちゃんに頻りに話しかけている。そのとき、さっき呪いをかけたデブの看護師が、昼食の時間だとおばあちゃんを呼びに来た。おばあちゃんは、デブに手を引かれて歩いていく。あたしは、覚束ない足取りで歩くおばあちゃんの背中を見ながら、転べと呪いをかけるが、足取りは変わらない。

 照り付ける日差しに煽られ、焦燥感が募る。目につく限りのおじいちゃんやおばあちゃんに、転べと呪いをかけ続けるが、前のめりになる人は一人もいない。

 大股で院内に戻り、目に入る高齢者に「転べ」と念じていくが、さっきのおじいちゃんの姿は鮮烈に焼き付いたままだ。階段をのぼり、老年精神科病棟に足を向けるが、昼食時間が近いので廊下にいるお年寄りはまばらだ。看護師さんや看護助手さんがきびきびと往来している。もう嫌だと泣き叫びたくなる。病室に戻らなければならないが、このまま戻っても、あのおじいちゃんが気になっておかしくなってしまう。病室を端から覗いてあのおじいちゃんを探し、大丈夫だったか確認するか、看護師さんに聞いてみるしかない。

「紫藤さん?」
 背後から声を掛けられ、跳びあがりそうになる。振り返ると、米田心理士と紺スーツを着た若い男性が立っている。

「どうしました?」

「あ、あの、さっき、エクスポージャーをしていて……」
 あたしが早口の小声で状況を説明すると、米田先生は顎に手を当てて頷く。

「強迫症の患者さんは、その状況に陥る方が多いんです。気になることを増やしているうちに、どこまで増やせばいいのかわからなくなって、止められなくなってしまうんです」

「目につく限りのおじいちゃん、おばあちゃんに転べと呪ってみても、さっきのおじいちゃんと同じことは起こらなくて……。あのおじいちゃんのことが、喉に刺さった小骨みたいに、頭から離れないんです」

「他の人に転べと呪いをかけても転ばなかったのなら、そのおじいちゃんが前のめりになったのは、たまたまだと思いませんか」

「でも、あたしが呪ったせいで」

「それなら、あなたがこれまでに呪いをかけた人は、これからみなその通りになるでしょうね。あなたがこれから毎日、おじいちゃんやおばあちゃんに転べと呪いをかけていたら、近い将来、この病棟の患者さんは全員寝たきりになりますよ」

 米田先生は、一緒にいる若い男性を少し離れたところに呼び、早口で何か耳打ちする。男性は心得たと言いたげに、頻りに肯いている。

「紫藤さん、彼は実習に来ている心理士の川副かわぞえです。彼がお送りするので、病室に戻って昼食をとってください」

 若い心理士は、よろしくと会釈する。米田先生も背が高いが、この男性はそれ以上に高く、思わず二度見してしまうイケメンだ。

「大丈夫です。一人で戻れます」

「お送りしますよ」
 涼し気な目元を緩めた笑みに、心臓がびくんと跳ねあがる。切れ長の目と凛々しい眉はきつい印象を与えるが、笑うとそれが緩み、母性本能をくすぐる表情になる。

「彼はスクールカウンセラーもしているので、午後から小学校に行かなくてはならないんです。でも、気が動転している患者さんを病棟まで送り届けるのは、大切な仕事ですからね」
 米田先生が恩着せがましく言い添える。

「行きましょうか」
 イケメンに促され、あたしは彼と並んで歩きだす。

「あの、忙しいんじゃないですか……?」
 足の長いイケメンが、あたしの歩幅に合わせて歩いてくれることにぞわぞわしながら尋ねる。

「ええ、実は病院を出なくてはいけない時間が迫っているんです。でも、大切な患者さんを送り届けなくてはなりませんから」
 意味深な笑みを見ると、彼に米田先生の息がかかっていることを意識させられ、小さくため息をつく。

 渡り廊下をぬけ、沈黙が重くなった頃、イケメンが思い出したように切り出す。
「僕の実家は、病院を出て、坂を下った先にある神社なんですよ。下にある神社、ご存じですか?」

「いえ……」

「退院したら、散歩がてらにのぞいてください。縁日には屋台もでます」

「あ、はい……」
 神社と聞き、思わず身震いする。

「どうしました?」

「いえ……、何でもありません」
 強迫観念が浮かぶようになってから、神社やお寺、教会など神聖な場所を避けてきた。神様の力が働き、頭に浮かんだことが現実になりそうで恐ろしいからだ。イケメンが神社の関係者と聞き、余計なことが頭に浮かばないように、頭のなかで1,2,3……と数を数える。

「神社は怖いですか?」
 イケメンは階段をのぼりながら、探るような視線を向ける。彼が口を開くと、歯列矯正とホワイトニングをしたような美しい歯がのぞく。

「いえ、そ、そんなことないです。しばらく行ってないから、どんな感じなのかなって」
 彼が米田先生からあたしの症状を聞いているかもしれないと思い、咄嗟に口を噤む。エクスポージャーの材料にされたらたまらない。

 イケメンは挙動不審のあたしを見て、形のいい唇の端を微かに上げる。彼はあたしを部屋に送り届けると、アイドルのように爽やかな笑みを見せて去っていった。


 あまりにも多くの刺激を受け、回路がショートしそうな脳を持て余しながら、冷めた昼食を義務的に口に運ぶ。

 食器を下げ、ベッドの上でぼうっとしているとき、米田先生に言われたことが脳裏をかすめる。他のおじいちゃん、おばあちゃんに転べと念じても転ばなかったのなら、あのおじいちゃんが前のめりになったのは偶然かもしれない。あのときはパニックになっていて頭に入らなかったけれど、時間が経つと、そうかもしれないと思えてくる。海宝さんの言ったように、このあたしが超能力者のわけはない。おじいちゃんが転倒する姿がふっと浮かんで、ぞわっとするが、強迫観念の相手をしてはいけないと自分を叱咤する。

 午後も外に出て、たくさんの人を呪ってみよう。その前に、下のコンビニで日焼け止めと簡単なメイク用品を買おう。病院にいる限り、そう気にならないけど、治りかけた左手首の傷をコンシーラーで隠したい。それから、看護師さんに許可をとって父さんに電話して、私服を持ってきてもらおう。