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連載小説「クラリセージの調べ」3-2

  風呂掃除用のゴム靴を履き、バスタブと壁をシャワーで洗いながら、瑠璃子るりこのことを考える。

 彼女とは小学校時代に通っていた体操教室で出会い、中学の体操部でも一緒になった。彼女は私と同じくらい小柄だ。それでも、気品のある顔立ちで、スリムでもバストはふっくらしていて色気があった。才色兼備の彼女は、一際目を引く存在で、皆の憧れの的だった。

 私は彼女の親友として一目置かれ、スクールカーストの上位に引き上げられた。そんな中学時代は刺激的だった。ただ、人一倍プライドの高い彼女が、それを傷つけた人を無視やいじめの対象にするのは好きになれなかった。噂話が好きな彼女が、Aさんの家は両親が別居中だが中学卒業まで苗字が変わらないように籍をぬいていない、Bさんのお姉さんが塾講師との子供をおろしたなど周囲に言いふらすのも苦手だった。幸い私は、彼女の家と同様に両親が教師だったので、親しく付き合う相手に分類されていたらしい。だが、いつ自分が攻撃対象になるかと気が気ではなかった。

 彼女が勤務するクリニックで不妊治療をすることを考えると、複雑な気分になる。医療従事者が患者の個人情報を漏らすとは考えにくいが、彼女はいつでも私のカルテにアクセスできる。

 陽の当たる道を闊歩してきた彼女が、故郷に戻って看護師をしているのは、それなりの理由があるのだろう。かつての美貌に衰えが見えた彼女を瞼の裏に浮かべる。互いに年齢を重ね、浮き沈みを味わったいま、彼女が昔のままとは思えない。


 すずくんも瑠璃子以上に日なたを歩いてきた人だ。彼は、内科・外科・小児科、整形外科を持つ私立病院の次男だ。私も含め、近所に住むほとんどの子供は、小児科のお世話になった。頭脳にも運動神経にも恵まれた彼は、責任感のある人柄で、友人にも教師にも信頼されていた。地元の進学高校から、県外の国立大学の医学部に進んだと風の便りに聞いた。

 何年か前、帰省したときに読んだ地域誌に、お兄さんとともに、実家の病院に戻って診察していると載っていた。その病院に通う母が、ハンサムな若先生兄弟が戻って来て、病院が盛況になったと教えてくれた。そんなすずくんが、実家から離れたクリニックの訪問診療をしているのは、深い理由があるに違いない。


 シャワーを止め、黒カビ防止のティーツリーのスプレーを吹きかけながら、すずくんに会ったことを瑠璃子にメールで報告しようと思った。だが、何となく彼女には言わないほうがいい気がし、会えて嬉しかったという内容に留めると決める。

 そのとき、開けた窓の面格子の隙間から、義父の顔がのぞき、悲鳴を上げそうになる。
「お、お義父さん……、何か?」
「裏庭の草むしりしてたら、水音がしたからね」
 裏庭には、私がローズマリーとペパーミントのプランターを置いているくらいで、むしるほど草は生えていない。そもそも、風呂場で水音がしたら、声をかけないのではないか。

「お風呂掃除をしていました……」

 義父は「風呂場はカビが生えやすいから念入りにね」と言い残し、悠然と去っていく。

 もし入浴しているときだったらと思うと、全身が粟立つ。風呂場の窓はすりガラスで、面格子もついている。だが、窓の鍵が開いていれば格子の隙間から手を入れて窓を開け、覗くことは可能だ。今までも覗かれていたかもしれないと思うと、粘りつくような視線がよみがえって気分が悪くなる。結翔くんに相談したいが、何かされたわけではないので説明しにくい。

 過剰反応と思われても構わない。コートを羽織ってホームセンターに車を走らせ、目隠しシートを購入する。帰宅して、早速張り付け、風呂の窓は施錠して、極力開けないと決める。

            
                 ★
「今日、花房クリニックに行ったんだろ?」
 夕食の食卓についた結翔くんは、開口一番に訊ねる。風呂上りでほてった顔は、報告を待ちわびているように見える。

「うん。一通り見てもらって大きな問題はみつからなかった。今日受けた検査の結果を見て今後のことを決めるって。結果が出るのは来週。その次に、治療計画書をつくるから夫婦で受診が必要なの。一緒に行ってくれる?」

「もちろんだよ。異常がなくて本当に良かったな。筋腫きんしゅとか嚢胞のうほうはなかったんだな?」

 私が頷くと、彼は心底安堵したように続ける。
「外来の日は、部活を休めるようにするよ。他に俺に協力できることがあれば、遠慮なく言ってほしい。その……、精子取ったりもするんだろ?」

「ありがとう。詳しいんだね」

「俺も調べたり、経験ある奴に話を聞いたりしてるんだよ」
 彼はぼそりと言って、根菜たっぷりの味噌汁の椀を取る。

 妊活に協力的ではない旦那さんの話を聞いたことがあるので、彼を心から頼もしく思う。私はご機嫌で、カレイの煮つけに箸をつける。カレイは妊活に良いたんぱく質とビタミンDが豊富だ。

「そうだ。今日行ったクリニックの看護師さんが中学時代の親友だったの。東京でセレブ婚したのに、地元にいたからびっくりしちゃった」

 結翔くんの眉がかすかに上がり、視線が彷徨さまよう。何かひっかかったのかと思ったが、尋ねる前にいつもの快活な表情が顔を見せる。

「俺も、あちこちで同級生に会うよ。もう少ししたら、俺が先輩や同級生の子供を教えることになるかもな」

「あはは。家庭訪問したら、親と話が盛り上がりそうだね」

「子供は相当迷惑だろうな」

「言えてる。あと、おじいちゃんのところに来てる訪問診療の先生も中学の同級生だった」

「へえ、俺は顔合わせたことないけど、宜しく伝えといて」

「うん。来週は私が対応を頼まれてるから」

 結翔くんは、カレイの骨を取りながら尋ねる。
「そういえば、風呂の窓に何か貼ったのか?」

「うん。今日、お風呂掃除してるとき、急にお義父さんが窓からのぞいたからびっくりして。お風呂場は外から見えるから、向こうも気まずいだろうし、念のために」

「おやじがのぞくって言うのか?」
 結翔くんの声はかすかな苛立ちを含み、空気がぴりっと張りつめる。

「そうは言ってないよ……」
 お父さんを尊敬する彼の地雷を踏んでしまったと気付き、これ以上刺激しないほうがいいと判断する。

「澪、クリニック行って、神経質になってるんじゃないか?」

「そうかもしれない。ごめんね、おかしなこと言って」

 重くなった空気を一新しようとテレビをつけると、メジャーリーグで活躍する日本人選手が報じられていて、彼の関心をそちらに向けてくれる。 


                ★

※ 診察の描写は一例です。治療については専門医にご相談ください。

 花房医師はディスプレイに表示された検査結果を目にして告げる。
「血液検査と尿検査を見た限りでは、大きな異常は見当たりません。年齢相応の数値ですね。他の検査は、生理周期に合わせて行いましょう」

 安堵すると同時に、授かれない原因が明らかにならなかったことで、迷宮に迷い込んだ気分になる。

「次回、ご主人と一緒に来院していただいて、計画書をつくりましょう。ご主人の都合はつくでしょうか?」

「大丈夫だと思います。私の場合、どんな計画になりそうですか?」

「そうですね……。排卵誘発剤を使用して、タイミング法を試していただくこともできます。排卵できているようですが、薬を使うと、ホルモンレベルが改善されたり、卵の質が向上して、より授かりやすくなりますが……」

 医師は、ファイルに挟まれた基礎体温表の束に目を遣る。授かりたいという気迫が形になったようで、気恥ずかしくなる。

「できるだけ早く妊娠したいのですよね?」

「はい……。家族に早く子供ができたと報告したくて」

「でしたら、人工授精にステップアップするのもいいと思います。ご存じかと思いますが、排卵期に、濃縮洗浄したご主人の精子を子宮内に注入する自然妊娠に近い方法です。その前に、ヒューナーテストを受けることをお勧めします。排卵期に性交をして、10時間以内に来院していただき、頚管粘液を採取して、その中に動いている精子がどれぐらいいるかを調べる検査です」

「わかりました。あの、人工授精は何度くらいトライすれば、授かれるでしょうか?」

「何とも申し上げられません。あくまでもデータですが、市川さんの年齢だと、1回あたりの妊娠率は10から15%くらいです」

「わかりました。費用はどれくらいかかりますか?」

「保険で8000円程度です。年齢や回数の制限はなく、何度でも保険が使えます。ですが、私は5‐6回試して妊娠しなかったら、体外受精や顕微授精にステップアップすることをお勧めしています。市川さんの年齢では、受精卵1個当たりの確率は、60から75%に上がります」

「わかりました。あの……、最初から、確率の高い顕微授精にトライすることはできませんか?」
 不躾な質問だとわかっていたが、結翔くんのためにも早く結果を出したい思いが先行してしまう。

 花房医師は、気を悪くした様子を見せず、穏やかに応じてくれる。
「もちろん、患者さんがご希望ならば。ただ、このクリニックでは人工授精までしかできないので、他院に紹介状を書きます。私が勤務する大学病院に来ていただければ、私が診ることもできます」

「こちらでは、できないのですか……」
 考える時間を取るために、言われたことを無意味に繰り返してみる。流れているオルゴールサウンドのラブソングが、別世界からの音楽のように耳を素通りしていく。

「ご不便をおかけして申し訳ございません」
 医師は心底申し訳なさそうに言う。 

「いえ。夫とも相談しますが、私自身は人工授精をしてみたいです」

「わかりました。それでは、今日は検査に備え、エコーで卵胞の状態を確認しておきましょう。そこから排卵日を特定します」

「わかりました」
 検査のために抱き合うことを想像すると、結翔くんへの申し訳なさと、惨めさに飲み込まれそうになる。だが、ここで思いに耽っているわけにはいかない。

 隣室に案内する看護師の声を合図に、気持ちをしゃきりと立て直す。カーテンの背後で手早くデニムパンツとショーツを脱ぎ、脱衣かごに入れる。寒くなってきたが、脱いだり履いたりに手間がががるストッキングやブーツは履いてこないと決めていた。