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連載小説「クラリセージの調べ」5-3

※ 採卵手術シーンは一例で、実在する医療機関とは一切関係ありません。治療については、専門医にご相談下さい。  

 排卵誘発剤のせいで張ったお腹をかばいながら、ワンピース型の手術着に着替える。

 ここ数日、おへその斜め下に自分で注射をし、アラームを設定して服薬を忘れないよう心掛けてきた。様々な薬による身体への負担は小さくなかった。不調を感じるたびにネットで執拗に検索し、このままでいいのか、受診したほうが良いかと心をかき乱された。夫は私のお腹の張りや注射跡の皮下出血を気遣い、積極的に家事を手伝ってくれた。

 励みになったのは、通院のたびに、フサちゃん先生が卵たちの育ち具合を教えてくれたことだった。先生に「明後日、採卵しましょう」と言われたときは、嬉しくて、すぐに夫に知らせてしまった。

 待機していた休憩室から、看護師さんに導かれて手術室に移る。コンタクトレンズを外しているので、一人一人の顔をはっきりと認識できないのがつらい。準備に動き回ってくれているスタッフさんたちに、「宜しくお願いします」と頭を下げる。名前と生年月日を確認された後、手術台に乗り、手足を固定され、麻酔医に静脈麻酔の針を刺される。

 手術着姿のフサちゃん先生が、麻酔が効き始めた私をのぞきこみ、「たくさん取れそうなので、頑張りましょうね」と声をかけてくれる。意識が流されていくなか、どうか私の卵たちをお願いしますと祈る。薄れていく意識のなかで、フサちゃん先生の手技は素晴らしいので、安心して任せて大丈夫と看護師さんに言われる。

「市川さん、終わりましたよ」という先生の声を朦朧とする意識のなかで聞いた。ありがとうございましたと口を動かしたが、声になっていたかはわからない。

 意識がしっかりし、休憩室のベッドから起き上がれるようになった後、採卵は30分ほどで終わったと看護師さんに聞かされた。寝ている間に終わってしまい、一人一人に御礼を言えなかったのを少し残念に思った。待機していた女性が、手術室に向かう背中を視界の隅で捉え、同志のような思いで見送る。

 2時間ほど休憩室で身体を回復させてから、生理痛のような痛みと、お腹の張りを抱えたまま病院を出た。夫が車で迎えに来てくれるまで近くのカフェで待つあいだ、顔を知らない胚培養士さんたちに、卵と精子を宜しくお願いしますと心の中で祈り続ける。

 排尿痛と少量の出血は2日ほど続き、卵巣に針を刺されたことを実感する。お腹の張りがしばらく続いて心配になり、ネットで検索したが、似た経験をした人のブログを読んで安心した。

 採れた卵は15個。精子の状態に問題がなかったので体外受精ができ、13個が受精したと聞いたときは、夫と一緒に大喜びした。数日後、状態の良い胚盤胞10個を凍結できたとわかったときは、感謝と達成感しかなかった。お祝いに、プロポーズのときと同じホテルのレストランで食事をし、夫との絆が深まった気がした。

 負担を掛けた卵巣や子宮を回復させ、移植に備えようと意欲が満ちてきた。 

              ★
 ショッピングモールに入っている「無印良品」で、夏らしい香りの精油とお香を買い、駐車場に戻ったときだった。

 私の車の向かい合わせに、メタリックピンクの車が止まっているのに気づいた。その傍らで、ボリュームのあるボブヘアの女性が荷物を後部座席に入れている。

 私のバッグに入っている車のキーが反応し、ロックが外れた音で女が振り返る。

 私たちは、一瞬で互いが誰かを認識した。

「こんにちは」
 裕美ゆみは、やや鼻にかかるが、通りの良い声で言った。立ち姿を見ると、彼女が思ったより小柄だと気付く。

 マスクを掛けた裕美は目元に溌溂とした笑みを浮かべる。
「いま、お時間、大丈夫ですか。よかったら、少しお茶でもしませんか」

 彼女には、相手を自分の領域に引き寄せる力強さがあり、断ることなどできなかった。瑠璃子が、明るくて、周囲を巻きこんで引っ張っていくリーダーシップがあると彼女を形容したが、まさにその通りだった。
 
 モール内のスターバックスで、彼女はデカフェのソイラテ、私はカモミールティーをそれぞれ購入する。梅雨の谷間の晴天で、冷たいドリンクをオーダーする人が大半だったが、二人とも温かいものを選んだ。身体を冷やさず、カフェインを控えているのは同じなのだろう。

 平日の昼下がりなので、いていて、向かい合わせの席を確保できた。彼女は白地に紺のボーダーシャツに、ベージュのゆったりとしたパンツ姿で、化粧はしていない。私はオフホワイトのシャツに、オリーブ色のロングスカート、フルメイクという比較的かっちりした格好だ。だが、彼女の全身から発せられるエネルギーに圧されてしまう。

 この女は何が目的で私をお茶に誘ったのか。もし、私と仲良くなりたいなどと言われたら断固拒否だ。夫とも二度と関わってほしくない。問題のある発言が出たときのために、そっとスマホの録音機能をオンにする。

 裕美はマスクを外し、ドリンクをすすってから切り出す。
「先日は失礼しました。あのとき、私がお話したことがすべてですが、奥様に内緒で会っていたことは申し訳なく思います。あのときも話したように、私達は『最愛』の梨央と加瀬さんのような関係ですから、心配なさることはありません」

「その例えは、『最愛』に対する冒涜で不愉快です。
 今後は、夫と会うのも連絡を取るのも、一切止めて下さい。夫にも同じことを言ってあるので、もし夫が連絡してきても拒否してください」

 裕美は頬をかすかに緩めて微笑む。
「申し訳ありませんが、それはできません」

「どうしてですか?」

 裕美は艶然と微笑んでから、思索するような表情を浮かべる。
「あのとき申し上げた通り、私たちは互いが幸せかどうかが気になってしまうのです。家族が大変なときには当然助け合いますよね? それと同じです。私は結翔が頼ってきたときは、迷わず手を差しのべます。ですから、お約束はできません」

 理知的な話し方をする彼女が、悪びれずにこうした発言をするのは不可解を通り越して不気味だ。

「では、あなたも結翔さんも、別の人と結婚しているのに、これからも堂々と会い続けるとおっしゃるのですか? 世間一般の常識では、結婚してからも元恋人と会うのは、相手に失礼だと思いますが」

 裕美はそれに答えず、淀みなく話し続ける。
「私たちは、恋人としては終わった後も、家族のように助け合ってきました。結翔と別れた後、私は市川のお母さんから受けた仕打ちで精神を病み、二か月ほど休職していました。その間も、その後も、結翔は夜中に電話で何時間も話を聞いてくれて、メンタルクリニックに付き添ってくれて、美味しいものを食べに連れていってくれました。家族のように親身になって気遣い、根気強く支えてくれたのです。今の夫とのスタートも応援してくれました。
 だから、私は結翔が結婚すると聞いたとき、全面的に奥様の味方になって、あのお母さんから守れと助言しました。お母さんが新居に勝手に入らないように鍵を取り上げて、結婚式は奥様の意向を優先して、市川のご両親と奥様がトラブルになったときは必ず奥様の側につくように、強く言いわたしてやりました。結翔はファザコン、マザコンだけではなく、ファミリーコンプレックス、略してファミコン男なので、そこまで言わないと、結婚生活は成り立たないとわかっていたからです。結翔には、幸せであってほしいから」

 結婚式の準備から、結婚生活まで、私を守ってくれた夫の言動の一つ一つが、裕美の色に塗り替えられていく感覚に気分が悪くなる。夫への愛情と信頼の根幹になっていたものが、壁のように剥がれ落ちていく。

 裕美はスマホで時間を確認し、ドリンクの残りを飲み干す。
「そろそろ、失礼します。私、子供ができたんです。筋腫の治療と手術、長い不妊治療を乗り切って、やっとここまできたので大事にしたいのです」

「おめでとうございます。お身体を大切にしてください……」

「あなたと結翔にも、コウノトリが訪れることをお祈りします」

 裕美の身体を気遣い、「今日の会話を録音しました。今後、夫に接触したら、あなたのご主人、市川の義父母と私の両親にこの録音を聞かせます」という言葉を飲み込む。

 裕美が去ると、身体が重力に引かれるようにシートに沈んでいく。

 結ばれなかった最愛の恋人は、心の中で燦然さんぜんと輝き続ける。そのことは、私が深く知っている。結翔の心から、裕美を追い出すことなどできず、これからも彼女の影がつきまとう結婚生活が続く。

 そのことが重くのしかかり、移植に向けての気持ちが、水を失った植物のように枯れ落ちていく。