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連載小説「クラリセージの調べ」5-12 最終話

 房総の海は、初春のを照り返して輝いている。規則正しく打ち寄せる波の音、頭上を旋回するウミネコの声、潮の匂い、髪を乱す潮風、砂浜に沈みこむ足の感覚。山を眺めながらの暮らしに慣れた身体には、すべてが刺激的で、体中の細胞が騒いでいる。

 私たちを乗せてきたすずくんのハイエースは、長距離を走った熱気がようやく収まり、春眠を貪るように佇んでいる。

 砂浜に広げたレジャーシートの上で、早起きして作った弁当を広げる。

「このサンドイッチ、マリネが入ってる? 凝ってるな」
 豪快にバゲットサンドにかぶりついたすずくんが、ミネラルウォーターの蓋を開けながら尋ねる。

「それ美味しいよね。今日のお弁当は全部すーちゃんの作品。私は材料費出しただけ。姉に預ける娘が持っていくお弁当まで作ってもらっちゃった」

「昨夜は瑠璃子の部屋に泊めてもらったから、ゆっくり作れたよ。おかずとおにぎりも食べてね」

「すーちゃん、今日の弁当、栄養バランス完璧。食物繊維もたんぱく質も炭水化物も程よく摂れる上に、糖質、脂質、塩分控えめ。おにぎりは玄米でパンは全粒粉のフランスパンだろ? どれもすごい旨いよ」

「栄養バランス考えるようになったからね。この年になると、量よりも質が大事だし」

「結翔バカだよね。こんないい奥さんと別れちゃって」

「本当だよ。俺がノンケだったら、即プロポーズするぜ」

「本当? 偽装結婚でも、すずくんの奥さんになれたら、自慢して連れ歩いちゃう」

「確かに。すず、見栄えいいから、パーティーでエスコートしてもらえれば商談うまくいきそう。葉瑠の授業参観でもママ友に自慢できる。レンタルで来てほしいな。中年太りしないで、今の体型保っててね」

「レンタル料一万円」

「秒で却下!」

 潮風と春の陽が食欲を刺激したのか、二人は気持ち良い勢いで食べてくれる。

「この一年半くらいで、三人とも、囚われてたものから脱却できたね。30代半ばの方向転換だったね」

 瑠璃子とすずくんに再会できなければ、いまの解放感はないと思うと、不思議なめぐりあわせだったとつくづく思う。

「うん。二人と会うようにならなければ、俺はいつまでも実家と地元にこだわってて、新天地でスタートする決断ができなかった。背中を押してもらえたよ」

「私も、思い通りにならないことを葉瑠のせいにし続けていた。抱えていたものは違うけど、二人から客観的なアドバイスがもらえて良かった」

「私たち、他人へのアドバイスは的確なのに、自分のこととなるとなかなか前に進まなかったね。自分のことは難しいと実感」

「確かに。でも、だからこそ、互いに助け合えて良かったんじゃない?」

「そうだね。私は助けてもらってばかりだった。二人のおかげで、結婚して子供を作って、実家の親や祖父母を喜ばせることに拘っていた自分から卒業できた。自分が満たされることが、家族を喜ばせることにもつながると気付けなかった。本当にありがとう」

 私はバッグから、プレゼントしようと持ってきたネブライザー式のアロマディフューザーの箱を2つ取り出す。

「これ、二人への御礼。忙しいと思うけど、寝る前や運転中、隙間時間にアロマを楽しんで。メンテナンスが楽で、車内でも室内でも使える型を選んだから」

「え、もらっていいの? 病棟のナースがアロマやってて、休憩室にいい匂いがして癒されてたんだ。この瓶、なんの匂い? クラリセージ?」

「うん。クラリセージは私の好きな香りだけど、夫も親も苦手で、妊活にも良くないから我慢してた。でも、二人のおかげでいろいろなものから解放されて、好きに楽しめるようになった。私にとって、解放の象徴みたいな香りだから、二人に贈りたかったの」

「え、そうなの? 私、このグリーンな匂い好きかも。ありがとう」

「よかった。瑠璃子にはもう一つ、グレープフルーツ。きりっとしてるけど、爽やかな甘さもあって、瑠璃子にぴったり」

「わー、これも好き。ていうか、嫌いな人は少なそう」

「俺のネロリっていうのは? 結構甘い香りだな。オレンジ系?」

「すずくんには、黒猫くんの名前に因んだ香り。黒はイタリア語でネロだから、それをいただいて、ネロリと名付けたの。たまにこれを焚いてネロリを思い出して」

 ネロリの花言葉には、結婚の喜びという意味も含まれている。すずくんの口から新しいパートナーの話は出ないが、いつか幸せを掴んでほしい。

「そうだったんだ。ありがとう、小山に帰省するときは必ずネロリに会いに行くよ」

「うん、ネロリもすずくんに再会できたら嬉しいと思う。ネロリ、大分リラックスしてくれるようになったよ。写真見る?」

 迎えてしばらくは、私をシャーシャー威嚇して猫パンチを炸裂させるので、心が折れそうになった。だが、最近では私の傍らでへそ天の寝姿を見せるまでに懐いてくれた。

 すずくんと瑠璃子は、私のスマホをスクロールしてネロリの写真に目を細める。

「アロマは猫に良くないから、私はお風呂でしか楽しめないけど、二人が私の分まで楽しんで」

 二つのディフューザーから、クラリセージの芳香が立ち昇り、調べを奏でるように海風に解き放たれる。


                ★

 桜が咲きかけた頃、夫と市役所で待ち合わせ、一緒に離婚届けを提出した。

 駐車場まで一緒に戻り、それぞれの車に乗り込もうとしたとき、元夫がためらいがちに尋ねる。
「……うちに寄っていかないか?」

「そうだね。ご両親にご挨拶して、おじいちゃんにお線香をあげたい」

 久々の市川家は、純粋な懐かしさと、もう戻らなくてよい解放感を引き起こす。

 母屋はおじいちゃんがいなくなったことで、気が抜けたような空気が漂っている。お線香をあげ、おりんを二度鳴らす。おりんのは、おじいちゃんに似つかわしい深味のある残響を残していく。優しく微笑むおじいちゃんの遺影にゆっくりと手を合わせ、感謝とお詫びを胸の内で伝える。

 義父母に向き直り、正座したままゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お義父さん、お義母さん。いろいろ経験させていただき、本当にありがとうございました。いろいろ至らない点があり、大変申し訳ございません。どうか、お元気でお過ごしください」

 伝えたいことはそこに凝縮されているので、それ以上は言葉を連ねないでおく。いただいた慰謝料を使って、必ず看護師になり、いつか力になれればと願う。

 冷淡に対応されると思ったが、時間という緩衝材のせいか、二人は穏やかに言う。
「澪さんには本当にお世話になったわね。身体を大切にして、幸せになるのよ」
「わざわざ来てくれてありがとう。いろいろ悪かったね。お父さんとお母さんにも宜しくお伝えください」

 もう顔も見たくないと思ったこともあったが、最後に挨拶できて良かった。紬さんと絹さんには、LINEで御礼とお別れのメッセージを送った。

 玄関の外まで送ってきた元夫は、離れで少し話さないかともちかける。
「うん。もう一度、見ておきたい」

 寝室、書斎、リビングまで、心の中で別れを告げながら見て回った。元夫は珈琲を淹れ、ダイニングテーブルに出して待っていてくれた。

 向かい合わせに座ると、緊張をはらんだ空気が流れる。これが最後だとわかっているので、互いに最も伝えておきたい言葉を探しているからだろう。

「澪、誤解されたままでは嫌だから、しつこいけど、もう一度伝えておく。俺は裕美に恋愛感情を残していないし、澪を本当に愛していた。そのことだけは信じてほしい」

 彼が最後にそう言ったことで、以前は言い訳めいてしか聞こえなかった言葉だが、別の意味を与えるべきかもしれないと思った。私を真直ぐに見据える瞳の奥を覗いても、取り繕おうとする狡猾さは読み取れない。

 もしかしたら、私は自分の心のなかに結ばれなかった宝物のような存在がいるために、彼も同じだとしか考えられなかったのかもしれない。私には、結翔と裕美は、互いへの未練を友情と言い換え、関係を正当化してるようにしか映らなかったのだ。

 それに気づき、脳に高圧電流を流されたような衝撃が走る。

 それでも、切望した子供を授かれなかったこと、私がお義父さんの愛した人と似ていたことなど、様々な面で歯車がかみ合わなかったのは間違いない。

「うん。信じようとしなかった私が悪かったと思う。ごめんなさい」

 夫は小さく首を左右に振る。やり直そうと切り出されないことに、安堵とほんの少しの淋しさを覚える。

「俺は、あの医者に嫉妬してたんだ……」

「そうなの? すずくんが小山を離れた今だから言うけど、彼はゲイだよ」

「嘘だろ!? 何で言わなかったんだよ」

「彼自身がクローズドにしていたし、偏見の目を注がれたら仕事がやりにくくなるでしょう」

 夫は溜息を吐いた後、仕切り直すように切り出す。

「澪を守れなかったことで、俺は決めたんだ」

「何を?」

「ここを出て、一人暮らしをしようと思う。誰かと御縁があれば、実家と裕美たちと距離を置いて家庭を築く」

「え!? ご両親は許さないんじゃない?」

「だろうな。だから、今年はもう無理だけど、来年はここから通えない学校に異動希望を出す。それなら、親も文句言えないだろ。通える学校に異動になったとしても、何か理由をつけてここを出る。それから、裕美一家とはもう会わない」

「結翔くん……」

 その機会になったなら、彼にとっても結婚生活は無駄ではなかったのだろう。彼も、あの房総の砂浜にいれば良かったのにと思う。

「結翔くんは、明るくて優しい人だから、きっといい人とめぐり逢えるよ」

「澪も魅力的な女性だから、絶対に幸せになれる」

 二年という短い結婚生活だったが、知らなかった感情を数えきれないほど知り、意外な自分を発見し、濃密でかけがえのない日々だった。そして、新たな人生につながる道を切り開くことができた。

 元夫に見送られ、車で市川家の敷地を出ると、鼻がつんとし、視界が歪む。そんな感情が出たことに少しほっとする。アロマディフューザーから流れるクラリセージが、鼓舞するような調べを奏でながら、春風に流されていく。

(完)


主要参考文献
辰巳賢一『名医がやさしく教える 最新 不妊治療のすべて』(河出書房新社、2022年)

主婦の友社編集『赤ちゃんがほしい 妊活パーフェクトガイド(主婦の友生活シリーズ)ムック』(主婦の友社、2022年)

 その他、複数の医療機関のホームページ、不妊治療経験者のブログを参考にさせていただきました。心より御礼申し上げます。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。皆様のスキやコメントが大きな支えになりました🙇‍♀️。

さくらゆきさん、素敵なイラストをありがとうございました🙇。