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連載小説「クラリセージの調べ」5-6

 梅雨明けの猛暑日に、臨月のきぬさんが皇太郎くんを連れて母屋に帰ってきた。すずくんの予測通り、夫は入れちがいで戻ってきた。

「ただいま」の一言とともに、夫はリビングのソファにどかりと腰を下ろす。夫には「問題が生じたときは、互いに歩み寄るために、二人で話し合いたい」という趣旨のLINEを送信しておいた。既読無視だったので身構えている私とは対照的に、夫はいつもと変わらない口調で話し出す。

「おふくろが、弟が生まれたら親は皇太郎を今と同じに構ってやれないだろうから、母親と離れても楽しめる時間を今からつくったほうがいいと言ってるんだ」

「うん。弟が生まれたら我慢することも増えるだろうね。絹さんも、ずっと仕事と育児、家事に奔走していたから、体調が許すなら、今のうちに自分時間を楽しむのもいいと思う」 

「それでさ、おふくろが、絹姉ちゃんは皇太郎を俺達に預けて、たまに外出したり、身体を休めたらどうかと言ってるんだ。姉ちゃんが出産で入院するあいだ、夜はうちで預かるから、今からこの家に慣れさせたほうがいいって。澪はどう思う?」

「私の意見を聞いてくれてありがとう。毎日でなければ、私も協力するよ。おやつや食事の準備があるから、預けるときは事前に連絡下さいと絹さんに伝えて」

 夫の顔に柑橘系の果汁が弾けるような笑みが浮かぶ。
「ありがとう。これからは、澪に何でも相談するから、一緒に考えような。俺もできるだけ手伝う。また三人でショッピングモールに出かけるのもいいな。あのときは楽しかったよな」

「本当に楽しかったね。そうだ、お昼に素麺そうめんゆでるけど食べる? 紫蘇が育ってるから、薬味に使えるよ」

「食べる!」
 夫は稚気を含んだ声で即答する。

 生来の明るさと育ちの良さで、屈託のない空気を作れるのは夫の美点だ。他方で、彼がこの家にいるのが当前の空気を瞬時に創り出せるのは、ここで一緒に暮らした時間があるからだろう。生活を共にすることで生まれる絆を改めて実感させられる。かつての私は、そうした領域に土足で侵入していたことに気付き、遅れてやってきた罪の意識に胸が痛む。


              ★
 絹さんが皇太郎くんを預ける日は、思った以上に増えていく。彼女は、皇太郎くんを幼稚園に迎えに行くと、私に預けて女子会に行ったり、母屋で一人時間を満喫している。お義母さんと絹さんが連れ立って買い物に出ることもある。

 絹さんを慮り、最初の一週間こそ預かりを快諾した。だが、皇太郎くんには思った以上に生活をかき乱されている。家中をばたばたと走り回って物を倒す、入らないでと言っておいた寝室や夫の書斎に入る、冷蔵庫を勝手に開けてヨーグルトやアイスクリームを食べてしまうのはまだ許せる。事前に倒されそうなものを隔離し、触られたくないものを隠さなかった私の責任でもある。

 だが、私の大切にしていたお香立てをわざと落として割ったり、叱ると手が付けられないほどの癇癪を起こすことには閉口させられる。このままでは私も限界がきてしまう。

 ソファで晩酌中の夫の隣に座り、意を決して相談する。
「ねえ、皇太郎くんのことなんだけど、わざと私の嫌がることをしたり、困らせたりすることが多いの。今日はトイレットペーパーを1ロール全部引きだして廊下に広げたり身体に巻き付けたり、入ってはダメと言った寝室の引き出しを開けて中身を全部出しちゃった。こういういたずらは、私も子供のときにやったし、たまにはいいと思うよ。でも、さすがに何度もやられるときつい。叱ると、癇癪を起して泣いて、宥めるのが大変。ちょっと、これ、見て」

 スマホで撮影しておいた写真を見せると、夫は頓狂な声を出す。
「うわ、何だこれ」
 自分と私の下着やソックスが床やベッドに散乱しているのを見て、夫は顔をしかめる。

「これ以外にも、私のお香立てをわざと落として壊したり、看護学校の過去問集に落書きをした。そういうものを隔離しておかなかった私も悪いんだけどね。あと、食べたいと言ったから作ったお好み焼きをやっぱりいらないと言われて、コンビニのチキンが食べたいとせがまれた。絹さんは添加物の多いものを食べさせないから、一緒に買いに行くわけにいかないでしょう。そしたら、だだをこねて泣いちゃって」

「大変だったな。毎日ありがとう。週末は俺がどこかに連れていくから、澪は休むといい」

「ありがとう。でも、そういう一時的な解決策じゃなくて、絹さんに相談してみてほしいの。皇太郎くん、預けられるのが寂しいんじゃないかな」

「そうか? 皇太郎は澪に懐いてるじゃないか。わがままを言えるのも、澪だからだろう」

「どんなに仲良くなっても、一番はお母さんだよ。時計を見て、『おかあさん、もうかえってくる?』と何度も尋ねるのがいたたまれない。この家でのやりたい放題も、不満と淋しさの裏返しのように見えるの。私は、もう少し、お母さんと過ごす時間を増やしたほうがいいと思う。一度相談してみてくれる?」

「わかった。明日の夜、俺が絹姉ちゃんに話してみるよ。澪が告げ口したと思わせないように上手くやる」

「ありがとう。こうして、二人で話し合えるのっていいね」

「そうだな」
 夫は自分の持っている缶ビールを上げて尋ねる。
「今夜は澪もどうだ?」

「うん、いいね」

 にっと笑った夫は、冷蔵庫からきんきんに冷えた缶ビールを出してくる。一口飲むと、苦みのある泡が舌の上でしゅっと弾け、喉と食道を刺激しながら滑り落ちていく。
「そういえば、一緒にお酒を飲むの初めてだね」

「考えてみればそうだな」

 二人とも、私が飲酒しなかった理由を言葉にせず、生暖かい夜風に揺れる風鈴の音に預ける。アルコールがもたらす酩酊が、わだかまりを溶かしていく。

               ★
 夫が上手く話してくれたのか、絹さんが皇太郎くんと過ごす時間が増えた。私に預けるときは、迎えにくるときに、御礼のお菓子を持参するようになった。100円ショップのお菓子なのがひっかかったが、ありがたくいただいている。

 絹さんが産気づいたのは予定日を一日過ぎてからだった。お義母さんが私にも病院への同行を求めたので、新しい命が生み出される過程を間近で見られた。

 産みの苦しみに耐える姿は、絹さんに対する悪感情を一時忘れさせた。長時間の陣痛と戦う彼女を義母と共に励まし、無事に生まれることをひたすら祈った。分娩室のドア越しに力強い産声を聞いたときは、言葉にできない感慨に包まれた。助産師さんに抱かれた息子を見た倭さんの顔には、新たな命の父親になった歓喜が溢れていた。

 駆けつけた夫は、新生児室のガラス越しに、呆けたように新しい命を見つめる。マスクの下の口元は見えないが、ほころんでいるに違いない。自分の子供の誕生を見たら、彼はどんな表情をするだろうかと想像してしまう。

「出産って、いいものでしょう」
 廊下のソファにへたりこんでいた私に、お義母さんが給水機で汲んできた水のコップを渡して問いかける。
「はい。人生の原点を見たようで、自然と謙虚な気持ちになりました」
「何度見ても、これ以上の喜びはないわね」
 お義母さんは、私に含みのある視線を投げ、紬さん夫妻のところに去っていく。
 義母の背中を見ながら、彼女は私に出産を見せることで、移植への気持ちを引き出そうとしたのかもしれないと気づいた。その狡猾さに嫌悪を覚える一方で、私への態度を軟化させてまで移植に向かわせようとしている必死さに、罪悪感をかきたてられる。何よりも、夫を父親にしてやれないことに申し訳ない気持ちが湧いてくる。

 その思いは、夫が絹さんの入院中に、かいがいしく皇太郎くんの世話をする姿によっても強まっていく。夜は私たちが預かっていたので、夫はできるだけ早く帰ってくる。母屋から皇太郎くんを連れてきて、一緒にお風呂に入るのを楽しみにしているので、毎晩風呂場から二人の楽しそうな声が響く。裸で風呂場から飛び出してくる皇太郎くんをパンツ一丁で追いかけてつかまえ、バスタオルで身体をわしゃわしゃと拭いてやり、パジャマを着せてやる。歯を磨かせ、トイレに連れていき、ダブルベッドに添い寝して寝かしつけてから、ようやく授業の準備にかかる。作業をしながらも、皇太郎くんが布団をはいでいないか、よく眠れているかと何度も覗きにいっている。仕事が片付くと、夫は皇太郎くんの隣に横になり、川の字になって眠りにつく。その姿を見ると、この人は父親になるべきだという思いが募っていく。

 絹さんは、凛太郎りんたろうと名付けられた次男とともに退院してきた。新生児が来たことで、母屋は4歳の皇太郎くんがいるときとは違う空間に塗り替えられていく。首も座らない凛太郎くんの覚束なさと愛らしさは、家族の保護欲をかきたて、彼を中心に家が回り始める。日々力強くなっていく泣き声、絹さんが寝かしつけに歌う子守唄、ベビーベッドに吊るされた電動式ベッドメリーから流れる音楽が空間を満たし、聴覚に新鮮な刺激を与える。ミルクや新生児から放たれる匂いも、母屋を活気づける。認知機能が落ちているおじいちゃんの表情もいきいきし、夫に支えられながら曾孫を抱くと、しばらく見なかった笑顔が顔いっぱいに広がった。
            
 お義母さんが私を凛太郎くんに関わらせようとするので、絹さんの母親としての力強さを日々目の当たりにしている。睡眠不足でクマができているにも関わらず、授乳やミルク、おむつ替え、だっこや寝かしつけに奔走しつつ、皇太郎くんに寂しい思いをさせまいと気にかけている。皇太郎くんに、紙おむつの替えを持ってこさせたり、ミルクを飲ませる際に手を添えさせたりして育児に関わらせ、お兄ちゃんとしての意識を育もうと心掛けている。凛太郎くんが眠っている間は、自分も眠りたいに違いないのに、皇太郎くんとスキンシップしながら幼稚園であったことを尋ね、持ち物の準備をしてやる。皇太郎くんが弟に嫉妬して「赤ちゃん返り」をしないのも、絹さんの尽力あってのことだろう。奮闘する姿は、出産のとき以上に、彼女の母性と体力への敬意を感じさせる。

 それ以上に驚かされたのが、夫が育児に手慣れていることだ。私が危うい手つきで、お義母さんや絹さんに教えられながらミルクを作ったり、哺乳瓶を消毒するのに対し、夫は皇太郎くんのときに覚えたのか、難なくこなしている。ミルクを飲ませるのも、げっぷをさせるのも上手だ。絹さんを休ませるために、凛太郎くんのだっこやおむつ替え、皇太郎くんの遊び相手を積極的に務める姿を目の当たりにすると、夫が子供を迎える準備ができていることに気付かされる。

 お盆に紬さん一家と倭さんが泊まりに来ると、夫は私と一緒に皇太郎くんと悠くんを遊びに連れ出す。二人には、叔父叔母と一緒にプールで遊び、ショッピングモールのフードコートでたこ焼きをつまみ、お寺の裏庭で蝉とりをし、家の庭で花火をした思い出が刻まれるに違いない。

 夫の背中を追いながら、彼が安定した家庭で大切に育てられ、幸福な少年時代の思い出を積み重ねてきたことを意識させられる。彼がそれを基盤に、子供を育てられる家庭をつくれるかが自分にかかっている。気が付くと、久しぶりに下腹部に手をあてていた。