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澪標 2


 私の人生で、「恋に落ちる」という言葉が、あれ以上ふさわしい瞬間は、これまでも、そしてこれからも訪れない。私はあなたと出会った瞬間、理由など考える余地もなく恋に落ちた。

 何年か前、彩子と帝国劇場でミュージカル「レ・ミゼラブル」を見た。理想に燃える青年マリウスが、コゼットに一目ぼれし、その気持ちを歌う「プリュメ街」という歌があった。あのときは、彼の高揚感に、暗い客席で苦笑いを嚙み殺した。だが、あの瞬間の私は、まさに「燃える太陽の矢が胸に飛び込んできて、人生に天使たちの音楽が鳴り、虹の空へ翔んで」いくマリウスだった。

 私は、あなたに出会う前にも、本気で恋をしたと言える経験が何度かあった。そのときはすべて、相手と関わる過程で、優しさ、男らしさ、ふと見せた弱さなどを発見し、徐々に気持ちが高まっていった。それを思い返すと、あの夜の衝撃は、夜景の美しいお洒落なバーという非日常がもたらした幻想に終わるのではという思いも湧いた。

 だが、現実のあなたがオフィスに現れ、共に仕事をするようになると、あのとき芽生えた気持ちは、水をたっぷりと注がれた植物のように逞しく育っていった。志津課長から、あなたが既婚者で、息子さんがいると小耳にはさんだときは、鋭利な刃物で胸を抉られたような痛みを覚えた。だが、あなたの年齢と、まとっている雰囲気を考えると、守るものがないほうが不自然だった。私は育っていく思いを隠すと決めたが、それをへし折ることはできなかった。

 あなたを好きな理由は、降りやまない雪のように積もっていった。能力に支えられた頑ななまでの意志の強さ、周囲に気遣いを忘れない誠実さ、気を許した人に見せる親密さ、自分に似合うものだけを身に付けるぶれない姿。そのすべてが私の胸を焦がした。あの頃の私は、行きつく先に何があるかなど考えられず、ただあなたと親しくなりたい一心だった。

 私たちは仕事を通じて良好な関係を築いたが、あなたは私と親しくなり過ぎないよう、頑なに線を引いていた。それでも、仕事中に、かなり高い頻度で視線が重なった。あなたはいつもさっと目を反らしたが、私は何かを期待せずにいられなかった。

 

 あなたとの距離が縮まったのは、2か月ほど経った頃だった。

 あなたと志津課長が率いるチームは、大学入試、単位取得試験の監督代行の資料を作成し、全国の大学・短大に発送した。資料が届いたころ、営業部総動員で入試担当者に電話で打診し、手ごたえがありそうなときは、営業部か地方事業所のスタッフが出向いて交渉した。

 あなたは、営業部と地方事業所員の教育を入念に行うとともに、自ら寝食を惜しんで現地に足を運び、契約を取り付けた。入試専門職員として経験豊富なあなたは、大学事情に明るく、担当者の心を掴むのに長けていた。

 私たちは契約数を順調に伸ばしていた。契約が増えるに従い、確保しなくてはならない登録スタッフの数も増えていった。それに伴い、試験運営部は、全国の事業所に新規スタッフの登録会の増加を要請した。ある程度契約が増えたころ、試験運営部の土屋つちや課長が、険しい顔をしてあなたのデスクを訪ねてきた。

「大学入試に派遣するスタッフは、『国家試験の試験監督の2回以上の経験者』ですよね。これ以上、契約が増えると、条件を満たすスタッフが不足し、増員が間に合わないかもしれません。このあたりで、一旦契約をストップしていただけませんか?」

 真摯な眼差しで耳を傾けていたあなたは、口調は穏やかでも、確固とした意志を込めて主張した。

「入試シーズンまでは、十分に時間があります。現時点で条件を満たしていなくても、能力のあるスタッフに、国家試験の監督員、監督補助員を経験させて、増員を加速していただけませんか」

 傍らで聞いていた志津課長が口を挟んだ。志津課長は、土屋課長と同期で、気心が知れていた。

「今年が初めてだし、無理をするより、確実に成果を出すほうがいいよ。現時点で、土屋さんたちと事業所に負担をかけているからな」

 入社から日が浅く、遠慮のあるあなたは、身内からも諫められ、口を噤むしかなかった。これまで、順調に契約を増やしてきただけに、あなたが納得していないことがひしひしと伝わってきた。

 あなたと同じ考えだった私は、衝動的に切り出してしまった。

「私は運営部に4年いました。私の経験から、ある程度経験を重ねたスタッフに監督員を任せると、たいてい上手くデビューしました。そのときは、監督補助員にベテランスタッフを配置したので、危ういときはサポートできました。これから秋まで、国家試験が多いことを考慮すれば、人材の増員は可能だと思います」

 主任の私が課長に意見することは、保守色の強い職場ではよく思われないのはわかっていたが、明らかに正しいことは主張したいと思った。

 土屋課長は眉間に微かに苛立ちを浮かべていた。「鈴木さんも覚えているよね? 新しく監督員クラスのスタッフを育てるために、ベテランを外したり、補助や誘導に回したら、むくれる人が多かったこと。へそを曲げて応募してこなくなったベテランもかなりいたよね。他社に流れたベテランも少なくない。私はあれで懲りたな」

 土屋課長の言うことには覚えがあり、私は反論の言葉を失った。

「それなら、ベテランで見込みのありそうなスタッフに、リーダー研修を受けさせて、リーダーに昇格させたらどうかな? どちらにしろ、試験が増えたら、会場リーダーと副リーダーも足りなくなるだろ? 昇進の機会が少ないと、スタッフのモチベーションが落ちるし、いつまでも人材が育たないと思わないか?」

 志津課長の援護射撃に、あなたが間髪入れずに言い添えた。

「事情に暗い私が、運営部の皆様に多大なご負担をおかけしてしまい申し訳ございません。ですが、増員の加速はどうかお願いします。もし、私でもお手伝いできることがあれば、何なりとお申し付けください。今後とも、ご指導の程、宜しくお願いいたします」

「あ、いえ、ご丁寧に……。こちらこそ、守りに入ってしまってすみません……。大学入試参入は、社運をかけた大型プロジェクトですからね。こちらも気合入れますよ」

 私は、あなたが低姿勢に出たことで、土屋課長のプライドを傷つけずに済んだことに胸を撫でおろした。

「今まで、限られたパイの奪い合いというか、分け合いが続いてきたからな。思い切って新しいパイを作らないと、会社も成長できないもんな。新しいパイのために、協力しようや!」

 志津課長が肉厚の手で、土屋課長の肩を豪快に叩き、握手を求めた。


 その日の帰り道、交差点で信号待ちをしているあなたの背中を見つけた。

 人混みをかき分けた私が「お疲れ様です」と横に並ぶと、あなたは端正な目元をほころばせ、「今日は本当にありがとうございました」とオフィスで何度も聞いた言葉を繰り返した。

「鈴木さんが突破口を開いてくれなければ、引き下がるしかありませんでした。本当にお世話になってばかりです」

「いえ、お2人が助けてくれなかったら、どうなっていたことか……」

 信号が変わり、あなたと私は、滞留していた人の流れに押し出されるように交差点をわたった。会社の外で、あなたと一緒に歩くのは初めてで、雲の上を歩いているようなふわふわした気分だった。駅に続く道には、街路樹に茂る若葉の香りがほのかに漂い、上向いた気持ちに拍車をかけた。おり始めた夜の帳と街のネオンが、上気した頬を隠してくれた。

「鈴木さんには借りを作ってばかりですね。いつかお返しできればいいのですが……。有給休暇など、ご希望がありましたら遠慮せずに申請してください。僕のできる範囲で配慮します」

「それも魅力的ですが……」

 私は一生分の勇気を振り絞って切り出した。「これから、一杯だけご馳走していただくというのは、いかがでしょうか?」

 あなたの眉間にさっと戸惑いが走った。それを見るのが耐えられなかった私は、目を伏せ、息を詰めて歩きながら答えを待った。大型電気店から大音量で流れるCMソングが、追いかけてくるように耳にまとわりついてきた。

 あなたは腕時計に目を遣った後、「では、一杯だけ行きましょうか」と右折し、にわかに歩調を速めて歩きだした。私は慌ててあなたの背中を追った。

「すみません、今日はあまり時間を取れないので、ここでいいですか?」

 あなたは、店員が割引券を配りながら、大声で客引きをしていた串カツ専門の居酒屋を指した。店内はできあがったサラリーマンやOLでいっぱいで、髪や服に油の匂いがつきそうな濃厚な空気が漂っていた。少しだけがっかりしたが、席に通されて考えが変わった。狭い店内に小さなテーブルが所狭しと押し込めてあり、テーブルに向かい合わせに座ると、あなたと膝がぶつかりそうだった。店内が騒がしいので、少し身体を乗り出さないと互いの声が聞き取りにくく、思った以上にあなたを近くに感じられた。心臓は早鐘を打つのをやめてくれなかった。

 2人でメニューを開くと、思った以上に互いの顔が近づき、頬の熱は収まらなかった。店員を呼んだあなたに、先に注文するよう促され、私は梅干しサワーをオーダーした。学生の頃から好きで、メニューにあると必ず頼むと決めていた。

「僕もそれで」あなたは、少し上ずった声で言った。時間を惜しむあなたが、考えもなく同じものをオーダーしたのかと思った。

 店員が席を離れた後、あなたは、心なしかトーンの高い声で言った。「2度も注文するものが同じになるとは驚きました。あなたとは共通点が多いし、様々な面で共鳴できる気がします」

 あなたの言葉に、骨の髄まで響くような衝撃が走った。あなたも、あのときから、私に特別なものを感じてくれているという期待を抑えられなかった。

「本当に。何だか不思議ですね」私は熱のこもった視線であなたを正面から見つめた。だが、あなたは雰囲気に飲まれるのを拒むように続けた。

「すみません、こんな騒がしい店で」

「いえ、私、こういうお店、活気があって好きです。志津課長や同期と飲むときは、いつもこういうお店です」

「次は、もっと静かで、落ち着いて話せる店に行きましょう」

「次もあるんですか、楽しみです」

 そのタイミングで、梅干しサワーが運ばれてきた。私は次の話がうやむやになってしまったのを惜しみながら、あなたとグラスを合わせた。

「無理にお願いしてしまってすみません。これが空になるまでで、十分です」私はグラスを指さして言った。

「すみません。今日は息子の誕生日で……」あなたが、父親の顔になったのを見て、私はじわじわと全身に広がっていくような痛みを感じた。

「そんな大切な日だったんですか!? すみません、急いで空けます」私は、グラスの底の梅をマドラーでやや乱暴に砕いた。

「いえ、もう15で、父親を心待ちにする年齢じゃありませんから」

「でも、ご家庭でパーティーをするんじゃないですか? プレゼントは選びましたか?」

「8時からパーティーの予定ですから、7時に乗れば間に合います。息子は、ここ数年は、プレゼントより、現金がいいと言います」

 腕時計を見ると18時26分を指していた。15歳になる息子の誕生会のために、遅れずに帰る意志を崩さないあなたは、根を張った大木のように映った。

 あなたが今ここに座っているのは、仕事で世話になった負い目で、今後の仕事が円滑に進むための配慮だとわかっていた。悲しかったが、あなたを引き留めようという気持ちは萎えていった。意志に反した道を行くあなたは、私の好きなあなたではなくなってしまう気がした。やりきれない思いを抱えてグラスを傾けると、喉の奥でほぐれた梅干しの酸味が、あなたを引き留めたい衝動とともに、食道を滑り落ちていった。

 あなたは、お通しの枝豆を忙しなくつまみながら言った。「ところで、僕は、運営部に配慮が足りませんでしたね。もっと周囲のことを考えないといけませんね」

「いえ、課長は十分すぎるくらい周囲に配慮してくださっています。事業所の担当者を集めた説明会でも、北関東の担当者が、課長が一人一人に話しかけて、労っていたことに感動していました。その後も、契約が取れるたびにお礼の電話を入れてくれて、困ったときは親身になって相談に乗ってくれると喜んでいました」

「北関東……。水沢みずさわさんですか? ショートカットで、背の高い方ですよね。先日も大きな契約をとってくれたので、お礼の電話を入れました。仕事が確実で、信頼できる方ですね。宜しくお伝えください」

「ええ、伝えておきます。水沢彩子さいこは私の同期で親友です。そうそう、このあいだ、うちの部で新規のクライアントと行き違いが生じて、𠮟責の電話を受けて、フォローに四苦八苦していたとき、課長は全員に温かい珈琲とマフィンを買ってきてくださいましたよね。当事者の笠原かさはらさんだけではなく、私も心が折れそうになっていたので、どれだけ救われたかわかりません。それ以外にも、課長のお心遣いには、何度助けられたか」

「いつも以上の負担をお願いしているのですから、当然です。僕がもっと詳しいマニュアルを作っていれば、皆さんに嫌な思いをさせることもなく、先方の機嫌を損ねることもなかったんです」

「お気づきと思いますが、笠原さんに限らず、うちの営業部は、決まったクライアントを相手にしていればよかったので、新たなクライアントを開拓する仕事に慣れていないんです……。志津課長も言っていましたが、業界自体が、限られた数のパイを分け合う状態でしたから。大口の契約を獲得しても、何年も独占できないので、業界内で仕事をローテーションしているようなところもあります」

「今回、パイを増やすために、僕が採用されたわけですね」

「ええ。うちの会社は、安定している分、社員も保守的になっているので、課長はやりにくいことが多いでしょう。ルーティン作業に安住していた社員を動かすのは、いろいろご苦労がおありだとお察しいたします」

「あなたにも負担になっていますか?」

「とんでもないです。新しい仕事に、毎日わくわくしています。こんなにやりがいを感じているのは、入社して初めてです」

 あなたの瞳に安堵の光が瞬時に広がった。「そう言っていただいて、本当に嬉しいです。実は、僕も、新しいことを始めるのは、航海に出るようで胸が高鳴るんです」

「航海……。海がお好きなんですね。そういえば、香水もサムライ アクアクルーズでしたね」

「ええ。父が商船に乗っていたので、子供の頃から海は身近でした。アクアクルーズは、日常は巡洋航海のようだと思っている僕に似つかわしい気がします」

 あなたがちらりと腕時計を見たタイミングで、私はグラスの残りを飲み干し、帰り支度を促した。

「慌ただしくて、本当にすみません。部下にあなたがいてくださることで、毎日救われています」

 私に「こちらこそ、課長の下で働けてこの上なく幸せです」という余地を与えず、あなたは大股でレジに向かい、慌ただしく会計を済ませた。

 18時56分に、駅に向かって全力疾走するあなたの背中を見送りながら、航路を外れたあなたは、輪郭がぼやけたように精彩を欠いてしまう気がした。そんな姿が浮かんでしまうことが、無性に悲しかった。