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連載小説「クラリセージの調べ」4-6

 私を心配した瑠璃子とすずくんが、美味しいものを食べようと誘ってくれたが、気が進まないまま時間が経ってしまった。外に出ると、幸せそうな親子が目に入ってしまうのが辛く、プチ引きこもり状態になっていた。

 二人に会う気持ちになったのは、無事に次の生理が来て、三度目の人工授精を終えてからだった。

 すずくんが予約してくれた料亭は、完全個室の店だった。廊下には、水仙や桜が飾られていて心が和む。お座敷に落ち着くと、高級旅館の夕食を待つように贅沢な気分になる。障子を通して注ぐ陽が明るくて暖かく、すっかり春になっていたことに気付いてはっとした。

「ここ、元旦那がうちに結婚の挨拶に来たとき、食べに来たの。葉瑠のお宮参りの後もここで会食した。もう随分前だけど」

 美しく化粧し、春らしい薄桜色のカーディガンに白いプリーツスカートを合わせた瑠璃子は、いつも以上の存在感を放っている。私も、久々のお洒落なお店なので、会社員時代に購入したノエラのボタニカル柄のスカートに白い薄手のセーターを合わせてきた。

「そうなんだ。私のときは、コロナ禍だったから、顔合わせも式の後も、会食しなかったんだよね」
 もうすぐ、結翔くんと結婚して一年経つことに気付き、目まぐるしい時の流れに驚かされる。
 
 すずくんは、ガールズトークを始めた私たちを目元をほころばせて見ている。夕方から医師会の会合と飲み会があるという彼はめずらしくスーツ姿だ。童顔の彼は、大きなスクエアフレームの眼鏡と地味なスーツをまとうことで、若造だと舐められないよう武装しているように見える。

「失礼します。鈴木先生、お世話になっております」
 小綺麗な身なりの中年男性が入ってきたので、私と瑠璃子は会話を中断する。

「ああ、金子さん。無理に部屋を取ってもらって悪かったですね。いつも、助かってます」

「いえいえ、長いあいだ、ご贔屓にしていただいているのですから」

「お父さん、どうですか?」

「ええ、あれから手術して、すっかり元気になりましてね。いい先生を紹介していただいて、本当に御礼の言葉もありません。お席が必要なときは、いつでも申し付けてください」

 男性は極上の笑顔を浮かべ、私たちに「ごゆっくりお寛ぎください」と言い残して出ていった。私と瑠璃子が、すずくんの如才ない対応に肘を突つきあって笑いを堪えていると、彼が口を開く。

「ここの店長さん。祖父の代から、家族ぐるみで、うちの病院をかかりつけにしてくれてた。その関係で、優先的に席を取ってくれるんだ。たぶん、今日も何かサービスしてくれるよ」
 掛け軸を背に座敷で胡坐をかいている彼は、少しふっくらしたことも手伝い、地元の名士の貫禄をまとい始めている。

「すずが実家の病院を離れてからも、変わらずに付き合ってくれるんだ」
 瑠璃子が嫌味とも賞賛ともとれる口調で言う。

「金子さんのお父さんの主治医は、俺が勤めてるクリニックの間宮まみや院長。間宮先生がうちを辞めて開業したとき、お父さんもついてきてくれた。彼に手術が必要になったとき、専門医を紹介したのが俺」

 さらりと語るすずくんを見て、彼が実家の病院の名前を背負い、医師として地域に根を張っていることに感慨を覚える。他方で、彼が地元の濃厚な人間関係の海を噂に怯えながら泳いでいると思うと胸が痛む。びんのあたりに混じり始めた白髪が、彼の苦悩を形にしたように見えてしまう。自分が彼なら、窮屈な地元を迷いなく離れるだろう。そうしないことに、彼の実家への思い入れが垣間見えて苦しくなる。

「すずくん、こんな素敵な部屋を取ってくれてありがとう。前から誘ってもらっていたのに、なかなかその気になれなくてごめんね」

「全然気にしなくていいよ。少しは落ち着いた?」

 やわらかい眼差しを向けられ、やはり素敵だと思ってしまう自分を叱咤して答える。
「うん。くよくよしても仕方ないから、前を向いてるよ」

「それを聞いて安心した。旨いものを食べて、少しでも幸せな気分になれば何よりだ。ところで、あのお義母さんからのストレスは大丈夫?」

「今度ばかりは、夫がかなり釘を刺してくれたようで、あのお義母さんが子供のことで嫌味を言わなくなったんだよね。私も、最近は、お義母さんやお義父さんが外出するときは、甥っ子とおじいちゃんの世話を積極的に引き受けるようにしてる。あまり気を遣われるのも疲れるし」

 先附が運ばれてきて、三人ともマスクを外す。今月半ばに、マスク着用は個人の判断に委ねられたが、私も医療従事者の二人も着用を続けている。

「すーちゃん、いい嫁100%だね……。結翔はどうしてる?」
 瑠璃子が、菜の花と若竹がメインの先附に箸をつけながら尋ねる。

「何か腫れ物に触るような態度……。喧嘩したわけではなくて、むしろ絆を深めたと思うのに、気まずくなっちゃった。もともと、不器用な人だから、私とどう接していいかわからないのかもしれない」
 やるせない思いを飲み込むように口に入れた若竹はやわらかく、良くしみた出汁だしの味が優しい。

「ふーん……。夫婦生活のほうは?」

「岩崎」
 すずくんが、ちょうどお皿を下げにきた仲居さんを見て、瑠璃子をたしなめる。

「いいじゃない。私たちはすーちゃんの友達であると同時に、ドクターとナースなんだから」

「仕事柄、デリカシーがなくなってしまうのはわかるけど、少しは気を遣えよ」

 きつく眉根を寄せるすずくんに構わず、瑠璃子は運ばれてきた前菜盛り合わせに箸をつける。

 私は、前菜を運んできた仲居さんが下がるのを待ってから口を開く。
「二人だから話すけど、今月はなかったの……。今までずっとタイミングをとってきたけど、私の身体を気遣ってか、誘ってもはぐらかされちゃって……。いつも通り採精してくれたから、人工授精には支障なかったけど」

 夫婦の秘密を話してしまった罪悪感を覚えながら、蓮根れんこんをかみ砕く。飲み込んだ蓮根は、そんな自分をとがめるように酢がつんときいていた。

 お造りについてきた本わさびをすり下ろしながら、結婚してから抱えてきたやるせない思いがこぼれてしまう。 
「何だか、自分が情けなくなるよ。私に子供ができないことで、いろいろな人の歯車を狂わせてる……。何で私は、多くの人が普通にできることができないんだろう……。卵管造影検査後6ヶ月のゴールデン期間も、もうすぐ終わっちゃうんだよ」

 瑠璃子が音を立てて、茶碗蒸し用の木製スプーンを置く。
「すーちゃん、子供にこだわりすぎ。本当に子供が欲しいの? 周囲に気を遣いすぎてるんじゃない?」

「岩崎、急にどうしたんだよ」
 すずくんが、本わさびを擦る手を止める。

「すずは黙ってて!」
 瑠璃子は彼をきっと睨んで黙らせ、私に視線を据える。くっきり引かれたアイラインと桜色のアイシャドウが、目元に浮かぶ激しい感情を際立たせる。

 なぜ、瑠璃子がこれほど感情的になるのか不可解なまま、彼女と視線を合わせる。 
「もちろん、期待してくれる周囲のためでもあるけど、私自身が子供を望んでいるの」

「子供が欲しいのはわかる。でも、産んだ先のことをちゃんと考えてる? すーちゃん、あの家で子育てすることを真剣に考えたことある? 長男はこうあるべきという考えから脱却できない夫、うるさいお義母さん、いつ手を出してくるかわからないお義父さん、嫌味な小姑からも逃れられないんだよ!」

 感情が昂った瑠璃子の目元がうっすらと赤らむ。瑠璃子は小学生の頃から、他人に挑発的な物言いをして言い争いを招き、追い詰められると泣いて周囲の同情を引いていた。わざと他人の嫌がることを言う瑠璃子に怒りを感じていた私は、しくしく泣く彼女を冷ややかな目で見ていた。

 彼女はあの時と変わっていないと気づき、感情を封じ込めて答える。
「授かることに優先順位を置きすぎていることは確か。でも、あの家に嫁いだ以上、苦労は覚悟してる」

 ひやひやしているすずくんを無視し、私たちは互いから視線をそらさない。

「すーちゃんは簡単に言うけど、子供を持つことで諦めることは数えきれないほどあるんだよ。私なんか、葉瑠のために、努力でつかみ取った商社での地位も、東京の刺激的な生活も諦めた。ぎゃーぎゃー泣いて、寝て、飲んで、食べて、出すだけで、全然可愛いと思えないもののためにね。大きくなってコミュニケーションがとれるようになっても、うるさい、可愛くない、どっかに行ってほしいと思うこともしょっちゅう」

「岩崎、苦労してきたことはわかるけど、これから子供を持とうという人に言うことじゃないだろ」
 腕組みをしたすずくんが、鋭い口調で諭す。

「子供ができる前だから言ってるの! 私だって、娘に愛情がある。自立できるまで、できるだけのことをするのは親の義務だと思ってる。愛情を注いで、自己肯定感の持てる子に育てたいと思う。
 だけど、娘がいなかったらという感情があるのも事実。今だって、葉瑠がいなければ東京に戻って仕事を探して、婚活もできる。葉瑠との相性が良いふさちゃんのことで、こんなに悩まないで済む。ふさちゃんが、私が医学部に編入して産婦人科医になるのを応援すると言ってくれたのは嬉しいよ。でも、現実的に考えて、小学三年の葉瑠を抱えては無理なんだよ。県内に編入試験をしている医学部はない。運よく他の都道府県の医学部に編入できても、娘を連れていったら勉強に支障が出る。超人的な処理能力と体力がある人なら、一人で全部できるかもしれないけど、私は自信ない。葉瑠に寂しい思いをさせるのは目に見えてる。60代半ばで、腰が痛いと年中言っている母に、家事育児のために一緒に来てもらうのも気が引ける。今だって、『老後を返してよ』と嫌味を言われてるんだから」

 瑠璃子はお茶を一口飲んでから続ける。
「病院の小児科で働いてるとき、離婚して生活保護で暮らしてるお母さんが、『産めばどうにかなると思ったけど、甘かった。産まなきゃよかった』とこぼすのを聞いたことがある。私は彼女を無責任だと責められない。産む前は先のことを真剣に考えられないんだよね」

 瑠璃子はすんと鼻をすすり、目元ににじんだ涙を拭おうとバッグに手を伸ばす。すずくんがジャケットのポケットからポケットティッシュをさっと取り出し、瑠璃子に渡す。

 焼物を持ってきた仲居さんが、尋常ならぬ空気を察し、手早く配膳を終えて出ていく。

 瑠璃子が秘めてきた激しい感情にひるむ思いをはねのけ、昂然と頭を上げる。
「瑠璃子の言いたいことは良くわかった。私も甘いところがあったのは事実。気づかせてくれてありがとう。でも、私には実の母親と言い争っても私を守ってくれる夫がいる。だから、お義母さんやお義姉さんにとげを刺されても、どうにかやっていけると思う」

 瑠璃子は赤らんだ目のまま、感情を押し込めた口調で告げる。
「その夫が、妻が大変なときに、こそこそ元カノと会っていても、同じ思いでいられる?」