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コラボ小説「ピンポンマムの約束」16

  本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 神社に行く夏至の日の朝は、昨夜の雨を含んだ地面に陽が注ぎ、まとわりつくような熱気が立ち上がっていた。

 午前中の外出許可をもらったあたしは、美生さんの紫陽花メイクを真似、髪をシニヨンに結い、海宝さんからいただいたピンポンマムの髪飾りをつける。この髪飾りには和装が合うと思い、ばあちゃんに借りた白地に紺と薄紫の紫陽花模様の浴衣を着て、紺色の帯を締める。外に出るので、紺のリストバンドを左手首にはめて傷を隠す。気合を入れすぎかもしれないが、化粧と浴衣はあたしを鼓舞してくれる。

 浴衣姿で病棟をぬけ、病院の入口で先生方と合流するまでは恥ずかしかった。けれど、事情を知る海宝さんと米田先生の反応は上々で、気負いがなくなった。金先生に、ファンデーションの色をごちゃごちゃ言われ、顔色が明るく見えるベースメイクを説かれたが、しつこいので聞き流した。

 土曜なので先生方は私服だった。あたしのために休みを返上してくれたことに、ぞわぞわ感が出たが、先生方と過ごせるのも最後だという感傷がそれを上回る。4人で病院を出て坂を下り、しばらく歩くと左側に神社が見えてくる。

「ようこそお越しくださいました」
 赤い鳥居の前で、かんむりをかぶり、濃紺のほうと浅葱色のはかまに身を包んだ川副先生が待っていてくれる。暑いのに申し訳ないなと、ぞわぞわ感に襲われる。

「ほう。これが正装ですか。時代が遡ったようにみやびですね」
 濃紺のポロシャツにスラックス姿の金先生が、好奇心をあらわにして装束の観察を始める。
 初めて見た金先生の私服は意外と普通だった。だが、肌はファンデーションをぬっているのか、いつも以上につるんとしていて、かすかに香水が香っている。

「ええ。滅多に着ないのですが、今日は特別です」
 川副先生は、あたしの反応を伺うように和やかな視線を注ぎ、浴衣に目を止める。

「浴衣と髪飾り、お似合いですね。手水舎ちょうずやの辺りは紫陽花が満開ですよ」
 先生は装束をまとっている上に、長身で気品のあるハンサムなので、どうしても人目を引く。鳥居をくぐる参拝客が、ちらちらと視線を投げ、ひそひそ囁いていく。

 川副先生は皆を見渡し、厳かな声で切り出す。
「鳥居をくぐると、神様のいるご神域です」

「千秋さん、いよいよね」
 海宝さんと米田先生が、あたしの反応を注視している。その視線を感じ、本当は緊張で足が竦んでいるが、何でもないふりをして鳥居を通過する。

 並んで歩いてくれる海宝さんは、白いカットソーに鮮やかな深緑のアンクルパンツが良く似合う。パンツと同系色のバレッタでハーフアップにした髪が湿った風になびく。

「こちらは、何をまつっているのですか?」
 金先生の問いに、川副先生が如才なく答える。
「簡単に言えば、この辺りの氏神様をまとめてお祀りしている氏神神社です。宮司の父は近隣の小さな神社も兼務しています」
「なるほど。先生もいずれ後を継ぐのですか?」
「ええ。宮司だけで食べていくのは厳しいので、心理士を続けながらですが。父も私立高校の教師をしていました」

 耳を傾けていた会話が途切れると、あたしは人を呪う考えに侵入されないよう、周囲に目を向ける。参道は舗装され、年輩者や障がいのある方が歩きやすいよう配慮されているのがわかる。参道の両脇は立派な銀杏いちょう並木で、青々とした若葉が眩しい。秋には紅葉が美しいに違いない。参道の両脇に並ぶ灯篭とうろうが灯されたら、幻想的な雰囲気になるだろう。

「参道の真ん中は神様の通り道なので、端を歩きます」
 川副先生の説明に、あたしは慌てて端に寄る。
「ですが……、紫藤さんは中央を歩いて、神のお怒りを買いましょう」
「え、無理です……」
 蒼くなるあたしを横目に、米田先生がにやにやする。
「川副先生、やるね。我々では思いつかなかったよ」
 長袖ゴルフシャツの腕をまくり、1.5リットルのペットボトルを抱え、ハーフパンツにサンダル履きの米田先生は、どう見ても心理士に見えない。

 怖気づいたあたしを見て、金先生が無機質な声で言い放つ。
「全員で真ん中を歩けばいいでしょう。紫藤さんに協力したせいで皆に天罰が当たります」

 金先生がすたすたと中央を歩き出すと、皆がそれに続く。あたしも仕方なく、すごすご従う。

「紫藤さん、心のなかで神様に謝ったり、祈ったりしてませんか? それは儀式なので禁止です。そのままにすると、どんどん儀式が増えていくのは経験済でしょう。誰かを呪う考えが浮かばないようにするのもいけません」

 米田先生に核心をつかれてしまう。あたしは強迫観念が浮かんだときは、本当にならないよう心の中で祈る。観念の怖さに応じ、祈る長さや回数が違い、それが苦痛でもやめるのは怖かった。外から見えないために指摘されず、生き延びてしまった儀式だ。今日、克服しなければならない。

 海宝さんが、すかさず提案する。
「千秋さん、私を呪う話を作ったわね。あれを流してみたら?」

「勘弁してください」

「どんな話ですか?」
 川副先生が好奇心をあらわにする。

「千秋さん、再生してごらんなさい」 

紫藤千秋さんは、人の気持ちを考えられない看護師の海宝澪が大嫌いです。彼女は丑の刻に、白装束で頭にろうそくをつけて、海宝の名前を書いた藁人形を五寸釘で打ち、不幸のどん底に落ちるよう呪っています。簡単に殺すのでは面白くないので、できるだけ苦しませて殺したいと思っています。なぜそこまで憎むかというと、海宝はとんでもないあばずれ女だからです。若いとき、東京の会社に勤めていた海宝は社内不倫していたのです。海宝は不倫相手の奥さんが、千秋さんと同じ強迫症で苦しんでいるのを知りながら関係を続けていました。その30年後、相手の奥さんが亡くなりました。海宝はすぐに妻の座に座り、幸せに暮らしています。人の死の上に成り立つ幸せを満喫しているのです。奥さんと同じ病気で苦しんでいる千秋さんは絶対に許せず、海宝が離婚されるよう呪い続けます。満願の日、望み通り海宝が離婚されると、千秋さんはさらに不幸になるよう呪い続けます。容赦ない呪いのせいで、海宝は末期の乳がんになってしまいます。抗がん剤の副作用で苦しんでも効果はなく、骨に転移して激痛にもだえ苦しみます。痛み止めの医療麻薬で意識が朦朧としているとき、亡くなった奥さんの幽霊に呪い殺される悪夢に苦しみます。見舞いに来てくれる人など誰もいないなか、海宝は寂しく死んでいきます。身寄りのない海宝の遺体は、病院が手配した葬儀会社の社員に見送られて、荼毘に付されます。遺骨は無縁仏にされます。海宝がこんなことになったのは、全部千秋さんの呪いのせいです

「ピンポンマムの約束」3より

「何と言っていいか……。かなり詳細ですね。拝殿の左にある御神木に、紫藤さんが五寸釘を打ちこんだ藁人形がついていそうですね」
 川副先生があたしを見て、露骨に眉間に皺を寄せてみせる。

「やめてください……」

「怖がらすに、どんどん怖い考えを浮かべてください」
 米田先生が背後からあたしを煽る。

 録音を何度か流しているうち、もう何でも浮かべと開き直ってくる。あたしを虐めた奴の顔を思い浮かべ、「死ね」と唱える。あたしの認知が歪んでいたことはわかったが、神社という神聖な場所だと本当になりそうで怖い。けれど、今後も寺社仏閣を避け続けるわけにいかない。嫌な奴の顔を片っ端から思い浮かべ、どいつもこいつも死ね、死ねと呪ってやる。そのうちに、何人呪ったかわからなくなる。


 手水舎ちょうずやの周囲には、色とりどりの紫陽花が咲き誇っていて、海宝さんとあたしは歓声を上げる。
 紫陽花の精霊 紫陽しようが、紫陽花ブルーのワンピース姿で、銀色の長い髪をなびかせて現れても、何の不思議もない。人間の夏越なごしと幸せな時間を共にする紫陽の姿を心に描く。神社の敷地にいると、人間として生まれ変わり、夏越と生きる決断をした紫陽の思いが強く胸に迫る。

「手水舎は参拝の前に身と心を浄める場所です」
 川副先生に促され、ハンカチを手にして足を進める。

「ほう、これは粋な……」
 金先生が、AIのような声で感嘆をもらしたのも無理はない。
 手水には色とりどりの紫陽花が浮かんでいて、柄杓ひしゃくを入れるときに傷つけないか心配になってしまう。

「毎年、この時期には、母と姉が花手水はなちょうずにします」
 川副先生は、右手で優雅に柄杓を取り、左手を浄める。次に左手で柄杓を持って水をかけ、右手を清潔にする。右手に柄杓を持ち換え、左の掌を皿にして水を受け、口をすすぐ。最後にもう一度、左手に水をかけてすすぐ。装束を濡らさないのは流石だ。

 先生に倣って柄杓を持つとき、あたしの穢れた手が神様を汚してしまわないか躊躇った。だが、勇気を出して柄杓を握り、リストバンドが濡れないように注意して手を浄める。神様が怒りませんようにと唱えようとして、米田先生の言葉を思い出してとどまる。今日は息つく間もないほどエクスポ―ジャーの連続だ。

「紫藤さん、あの狛犬こまいぬを触ってみましょう」
 川副先生はアイドルのような笑みを浮かべて、怖いことを提案してくる。あたしは、げんなりして溜息を吐く。そんな神聖なものに触れているとき、良からぬ考えが浮かんだら怖い。

「しっかり、両手で触ってください。触りながら、誰かを呪ってください」
 川副先生は、意外と大きくたくましい手で狛犬に触れて目を閉じる。

 先生方もそれに続いたので、あたしも恐る恐る石づくりの狛犬に手を伸ばす。積年の風雨に曝された狛犬に触れると、掌がひんやりとする。

「千秋さん、さっきの話を思い浮かべて」
 海宝さんを呪う話を思い出すと、全身にぞわっと悪寒が走る。でも、もう、どれだけ人を呪ったかわからない。もはや、何を恐れているのかもわからなくなる。どれが現実になるか知らないけど確かめるのは無理だ。

「狛犬は神域に邪気が入らないように守っています」
 川副先生の聞き心地の良い声が、頭一つ上から降ってくる。

「狛犬じゃなくて、狐とか牛の神社もあるよね?」
 米田先生がペットボトルの蓋を閉めながら尋ねる。

「稲荷神社は狐、天満宮は牛です。牛は菅原道真公のお使いです」

 
 そのまま歩みを進めると、賽銭箱さいせんばこと麻縄で吊るされた鈴のある拝殿はいでんが正面に迫り、にわかに心拍が増す。

「正式な参拝方法はあるのですか? 賽銭はどのタイミングで?」
 金先生が眼鏡を押し上げながら尋ねる。

「お賽銭を入れた後、二拝二拍手一拝にれいにはくしゅいっぱいです。僕が一度やってみせます」

 川副先生は背筋を伸ばして神前に進む。お賽銭を入れ、麻縄を振って鈴を鳴らす。一歩下がって、90度の角度で二回お辞儀をする。胸の高さで手を二回打ち、最後にもう一度お辞儀をする。

 あたしは、参拝中に変な考えが浮かばないか身構えるよりも、映画のように流れる美しい所作に目を奪われていた。容姿に恵まれた人は何をしてもさまになる。

「形式よりも、心をこめて参拝して下さることが大切です。順番にどうぞ」
 川副先生に促され、海宝さん、米田先生、金先生と参拝が続く。あたしは最後になったので、手順を頭に叩き込めた。

 ロボットのようにがちがちになって手順を踏みながら、見守ってくれる先生方の視線を感じた。最後の一拝をした後、何もお願いをしなかったと気づいたが、もう遅い。

 とにかく終わったと大きく息をついたとき、川副先生に声を掛けられる。
「紫藤さん、あれが御神木ごしんぼくの杉です。あなたが海宝さんの藁人形を五寸釘で打ちつけている木です」

 視線の先には、二本の木が途中でつながっているように見える御神木がそびえている。神垂しでのついたしめ縄で飾られている。

「見事だ。樹齢何年くらいですか?」
 金先生が眼鏡の奥の切れ長の目を細め、御神木を見上げる。

「四百年と伝え聞いています」

 悠久の時の流れを背負う巨木を前に、自然と身が引き締まる。「紫陽花の季節」を思い出し、二本の木の精霊たちはどんな姿だろうかと思い描く。

「これ、どうなってるのかしら?」
 海宝さんが額に手をかざし、巨木を見上げながら尋ねる。

「別々の木だった二本の杉が途中で一緒になっています。『連理の杉』と呼ばれています。あまりにも縁が強いので一本になったのでしょう。これに因み、うちは縁結び神社で通っています」
 川副先生が付近に立てられた説明板を指す。

「触ってみてもいいですか? 御利益がありそうね」
 海宝さんが厳かな声で尋ねる。

「もちろんです」

「紫藤さんは、この御神木に五寸釘を打ち付けているんだなあ……」

「やめてください!」
 あたしは米田先生を睨む。

「千秋さん、あの録音を流しながら触ってみるといいわ」

「今日のエクスポージャーのメインディッシュだな」
 米田先生と金先生が意味深な視線を交わす。

 あたしは仕方なく、スマホで録音を流しながら、目を閉じて御神木に触れる。御神木の前で罰当たりなことをしているとぞわっとする。エクスポージャーとは言え、どうかお許しくださいと拝みたいが、歯を食いしばって思いとどまる。縁結びをお願いする暇もない!

「よく頑張りましたね」
 米田先生が親指を立てて突き出す。
「上出来です。ところで、今のは嘘ですと、打消しの祈りなどしていませんね?」
「してません。それじゃ、意味ないじゃないですか!」
 金先生の問いにふくれっ面で答える。

 そのとき、20代後半くらいの小柄で筋肉質の男性が走ってきて、川副先生に話しかける。
そう、準備できてるよ!」

「悪いな、みなと。助かるよ」

「おまえのそういう格好初めてみたな。サッカーしてるイメージしかないからな」
 男性は装束を着た川副先生に、胡散臭そうな視線を走らせる。

「じろじろ見るなよ」

 川副先生は、あたしたちに向き直る。
「今日は家族が留守で、お茶も差し上げられないので、裏の空き地にバーベキューの用意をしてあります。ささやかですが、紫藤さんの退院祝いです」

「神社でバーベキューとは背徳的ですが、紫藤さんのためにはいいですね」
 金先生が尖った顎に手を当て、あたしを窺う。
「本当ですね。川副先生、エクスポージャーを考える天才だよ」
 米田先生が川副先生の肩を叩いて称賛する。

「神様は、さぞやお怒りでしょう。紫藤さんのせいですよ」

「もう、いい加減にしてください。息つく暇もありません」

「嘘ですよ。うちは、何度もそこでバーベキューをしていますが、何も起こりませんでした。まあ、今回はわかりませんが……」
 川副先生は腕組みをして考え込む素振りを見せる。

「奏、俺引き上げていいか? 道具は後で取りに来るよ」
 さっきの男性が、所在なさそうに口を挟む。
「頼むから最後までいてくれよ。俺じゃ、手に負えないの知ってるだろ。それに、今日はこの格好だし」

 川副先生は皆に男性を紹介する。
「友人の湊です。遺品整理やゴミ屋敷片付け中心の何でも屋をやっていて、今日はバーベキューの手配をしてくれました。調理から後片付けまでやってくれるので、皆さんは食べるだけです!」

「わあ、ありがとうございます。まるでグランピングですね」
 海宝さんに続き、皆も「お世話になります」と続く。

 鎮守の森を抜け、空き地に案内されると、既に道具が設置されている。あたしたちが疲れないよう、人数分の椅子も用意されている。履きなれない下駄で足が疲れたあたしは、ようやく座れると安堵した。鎮守の森を吹き抜ける風が、背中の汗を乾かしてくれる。

 デニムのエプロンをかけ、首にタオルをかけた湊さんが、クーラーボックスからソフトドリンクと紙コップを取り出し、皆に注いでくれる。海宝さんは早速虫よけスプレーを取り出し、皆の手足に吹きつけてくれる。
 先生方があたしの退院に乾杯してくれるが、あたしは一人で働いている湊さんが気になってしまう。彼はあたしたちが座って喉を潤しているあいだも、後は焼くだけの肉、海産物、野菜をクーラーボックスから取り出し、コンロや鉄板に火を入れていく。暑いのに、申し訳ないなと心苦しくなる。

「あの、手伝いましょうか?」
 座っていられない性分のあたしは、衝動的に声を掛けてしまう。もう長い間、医療関係者や家族以外と話していないので、緊張で声が上ずった。
「座っててください。浴衣が汚れますよ」
 湊さんは、お祭りでもないのに浴衣を着ているあたしに何も尋ねず、汚れる心配だけしてくれる。そのことが嬉しかった。
「いいんです。どうせ、古い浴衣だし。座っていると落ち着かないんです」
 湊さんは口角をぐっと上げて微笑む。
「はは、僕もそうなんです。じゃあ、人数分の紙皿と割り箸を出していただけますか?」
「はい!」
 湊さんの飾らない笑顔があたしの緊張をほぐしてくれる。

 言われたことを終えてしまうと、手持無沙汰になる。湊さんは、手際よく鉄板に油を広げ、ホタテやイカを焼いている。
 あたしは、湊さんに許可を取ってから、既にコンロに並べてある肉や野菜を裏返す。ばあちゃんに厳しく教えられたおかげで、裏返すタイミングと焼き加減はわかる。
「川副先生とは古いお友達ですか?」
 あたしは肉を裏返しながら湊さんに尋ねる。
「中高のサッカー部で一緒でした。あいつ、いい奴なのに、こういうことは全くダメなんです。今だって、手伝おうともしないで、おしゃべりに夢中ですよ」
 友人の悪口を言っているのに、嫌な感じはまったくなく、気持ちのいい人だなと思った。
「あの装束では仕方ないですよ。暑そうで気の毒です」
「でも、手伝う素振りくらい見せてもいいじゃないですか。まあ、あいつが手を出しても、混乱するだけですが……」
 湊さんは、眉が濃くて目が大きい。鼻は丸めで唇が厚く、濃い顔立ちだが、小柄で筋肉質の体と均衡が取れている。繊細な顔立ちで、スリム体型の金先生や川副先生とは対照的だ。 
「そろそろ、皆さんに焼けたものを取りに来るように言っていただけますか? 俺は焼きそばを作ります」
 観察していた湊さんと目が合ってしまい、あたしはびくりと目を反らす。

「私が取り分けるから、千秋さんは一緒に焼きそばを作って」
 海宝さんはあたしを押しのけるようにトングを持ち、先生方に声をかける。
「先生方、焼きたてですよ。早く取りに来てください!」

 金先生は、湊さんが出すのを忘れたバーベキューソースを出し、皆が使えるようにしてくれる。鉄板で追加のホタテやイカを焼く手さばきには無駄がなく、改めて女子力の高さに驚かされる。
 食べる専門の川副先生と米田先生は、「金先生を嫁にほしいです」と感嘆する。
「私でよろしければ、喜んで主夫になります」
 機械音声のような口調で答える金先生に、川副先生は「いいんですか?」と目を輝かせる。
 この先の展開が予想できず、あたしは焼きそばの具を炒める手元に集中する。


 手早く野菜と肉を炒め、麺を入れて馴染ませていると、湊さんがタイミングよく水を注いでくれる。
「手慣れてますね」
「湊さんには敵いません。片付けをお仕事にできるのはすごいです」
「父子家庭の上に、男三人兄弟の長男だったので、片付けを中心に家事をさせられていたからです。高校のサッカー部のとき、マネージャーの女子が奏の彼女だったんですけど、別れたときに辞めちゃったので、俺が部員兼マネージャーでしたよ」
「すごいですね。ところで、起業したきっかけは何ですか?」
「大学時代に、何でも屋でバイトしたとき、自分の片付けスキルを生かせることに気づいたんです。片付けは好きなので、面白い仕事です」
「好きなことを仕事にできるっていいですね」
「ええ。好きなことをして感謝されるのは、照れくさいけど嬉しいです」
 湊さんの屈託のない笑顔が眩しく、焼きそばにソースを馴染ませながら頬がじんわりと熱を帯びてくるのがわかる。鉄板の前にいるのが幸いだった。
「全然召し上がってないですよね? それが終わったら、食べてください。食いっぱぐれますよ」

 いつの間にか、米田先生と川副先生が調理にまわり、今まで立っていた湊さんとあたし、金先生、海宝さんが食べる番になった。もっとも、ほとんどの食材は焼いてしまったので、米田先生と川副先生はコンロを囲んで談笑している。金先生と湊さんは、川副先生のサッカー部時代の話で盛り上がっている。

 湊さんが焼いた肉は、絶妙の焼き加減で、ぺろりと平らげてしまう。金先生の焼いてくれたホタテはやわらかく、塩とバターがほどよく効いていて美味しい。鎮守の森をわたってくる生温かい風を頬に感じながら、こんなに食べ物が美味しいと感じたのは久しぶりだと思った。それだけのことなのに、無性に嬉しく、体内の細胞の一つ一つが喜んでいるのがわかる。
 
 良く焼けたピーマンをかじっていると、海宝さんがお皿を持って隣に座わる。
「千秋さん、退院おめでとう。本当によく頑張ったわね」
「いえ。海宝さんがあたしの強迫症に気づいてくれなかったら、今も何も変わっていなかったと思うし、死んでたかもしれません。本当にありがとうございました」
「頑張ったのはあなたと先生方よ。回復する姿を見せていただいて、お礼を言うのは私のほうよ」
 美味しそうにトウモロコシを頬張る海宝さんを見ながら、格好いい女性だと改めて思った。死にたいと叫んでいたあたしは、年齢を重ねることを想像したことなどないが、彼女のようになりたいと強く思う。
「退院してからも、病棟に遊びに行っていいですか?」
 海宝さんはかすかに目を泳がせたが、諭すように続ける。
「入院中のことなんか、忘れてしまいなさい。あなたは、幸せになるために退院するのよ。その髪飾り、似合ってるわよ」
 強烈な淋しさに胸を締め付けられたが、歯を食いしばって答える。
「はい。頑張ります」
 絞り出した声は、金先生のように機械的だった。
 金先生と湊さんは、グリルにこびりついたこげをはがし、片付けを始めている。

 
 川副先生と湊さんが、鳥居の前まであたしたちを送ってくれる。

「紫藤さん、今日、これだけエクスポージャーしたから、もう神社は怖くないでしょう?」
 米田先生に尋ねられ、あたしは自信を持って答える。
「ええ、もう何が何だかわからないくらい人を呪ったので、どうにでもなれと思いました」
「これからも、神社やお寺を定期的に訪れてエクスポージャーしてくださいね。時間が経つと、またできなくなる方が多いんです」
「わかりました……」
「また来てくださいね。夏越の祓、夏祭り、初詣もお待ちしています」
 川副先生が木漏れ日のような笑みを浮かべる。湊さんは、会話についていけないのに詮索せず、黙って微笑んでくれる。

 あたしは、参道を振り返り、今日のエクスポージャー、楽しかったバーベキューを思い返す。降り注ぐ午後の陽は、あたしを物悲しい気分にする。

「紫藤さん、退院おめでとうございます」
「え?」
 振り返ると、金先生が紫陽花の花束を抱えて立っている。違和感がないのが不思議だ。
「チームを代表して、お祝い申し上げます」
「あ、ありがとうございます」
 先生たちの顔を見ると泣いてしまいそうなので、花束を受け取って深く頭を下げる。

「千秋さん、幸せに向けたスタートね!」
 海宝さんが微かに潤んだ瞳であたしの背中を押す。

 八幡宮の敷地内でしか存在できない紫陽しようは、人間に生まれ変わるために、夏至の日に精霊として亡くなった。幸せを掴むための命がけの決断だ。

 紫陽の決断が、あたしに力をくれる。あたしは、強迫観念に苦しめられていた自分にも、先生方に依存していた自分にも別れを告げ、幸せになるために踏み出すのだ。

 鎮守の森から吹いてくる風が、あたしを祝福するように背中を押してくれる。

 あたしは、昂然と頭を上げて背筋を伸ばし、一歩一歩、大地を踏みしめて鳥居をくぐる。

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