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コラボ小説「ピンポンマムの約束」13

  本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 例年より早い梅雨入りは、紫陽花あじさいの開花を早めるらしい。降ったり止んだりの雨と退院が近づく寂しさの相乗効果で、あたしの気分は晴れない。

 会議室の長方形のテーブルを挟み、 あたしを真ん中に父さんとばあちゃんが両側に座っている。反対側には、金先生を中央に、米田先生と海宝さんが左右についている。

 システムエンジニアで私服通勤の父さんは、痩せた躰に着なれないジャケットをまとってきた。いつもは威勢のいいばあちゃんは、よそ行きと決めているブラウスとスカート姿で、横に広い体を小さくしている。あたしは、メイクをし、カットソーとスリムジーンズに着替えてきた。

 久々に家族と顔を合わせられて嬉しい。けれど、あたしは、共に戦ってくれた先生方と反対側に座っていることに淋しさを感じていた。思った以上の依存心に気づかされ、戸惑いと不安をかきたてられる。

「主治医のキムです。本日は、お足元の悪い中、お越しいただき、誠にありがとうございます」
 金先生が、いつもの抑揚のない口調で話し出す。父さんは何度か話をしているらしいが、初対面のばあちゃんはロボットのような話し方に怪訝そうな視線を向ける。米田先生と海宝さんの自己紹介に、2人とも小さく頭を下げる。

 病棟のクラークさんがお茶を持ってきてくれて、米田先生と父さんが手をつける。いつも真っ先に手を伸ばすばあちゃんは、緊張のせいか出しかけた手を引っ込めてしまう。降り始めた雨の音が沈黙をうめていく。

「千秋さんは、治療の成果が出て、順調に回復に向かっています。人に世話をやかれることも、幸せになることもだいぶ恐れなくなりました。月末の退院後は、月1~2回の診察とカウンセリングで様子を見ます。退院してから、今までの治療を継続するには、ご家族の理解と協力が不可欠です。それをお願いするために、本日お越しいただきました」

「退院できるまでにしていただき、先生方にはお礼の言葉もありません。今日、久しぶりに娘の顔を見ましたが、以前とは別人のように健康そうです」
 父さんは、頭頂部の薄くなった頭を深く下げる。

「今までは、入院しても、治ったかわかんないまま出されて、結局前と同じだったからねぇ。今度は千秋がいい顔をしてるのがわかります。本当にありがとうございます」
 ばあちゃんがよそいきの声で父さんに追随する。あたしは、嬉しいような気まずいような気分で目を伏せる。メイクが顔色を良くしているだけだと腹の中で呟いてみる。

「恐れていることに挑戦する治療を頑張ったのは千秋さんで、私どもはお手伝いをしただけです」
 米田先生の言葉に、金先生と海宝さんも頷く。

「強迫症と認知行動療法のことは、お父さんにお話ししましたが、おばあちゃんも聞いていますか?」
 金先生がばあちゃんに色素の薄い瞳を向けて尋ねる。

「ああ、息子が紙に書いて長々と説明してくれました。随分、風変わりな病気で、けったいな治療をするもんだとたまげました。まあ、あたしは、みんな理解できたわけじゃないけど、千秋が手に負えなかったのは病気のせいだとわかって、安心したのと、悪かったのとでねえ……。病気を見つけて、治療していただいて、先生たちには本当に感謝してます」
 ばあちゃんの気取った声が鼻につく。けれど、病気のせいとはいえ、この数年どれだけ苦労をかけてきたかと身が縮む思いになる。


「ご家族にお願いしたいのは、退院後の千秋さんが安心して治療を継続できるよう、長い目で見守っていただくことです。エクスポージャーが上手く進まなくても、できるだけ失望を表に出さず、上手くいったときに褒めてください。今までの千秋さんの病状で、対応に困ったことはありますか?」

 金先生の問いに、ばあちゃんが唾を飛ばす勢いで話し出す。
「千秋が血相を変えて親戚のことをあたしたちに聞くんですよ」

 どんなことかと尋ねられ、ばあちゃんは堰を切ったように話し始める。
「そうだねえ。あたしの姉、千秋にとっては大叔母が高血圧なんです。一年前に姉がうちに来たとき千秋が作った料理がしょっぱかったせいで、体が悪くならなかったか電話で聞いてくれと急に言い出したね。似たようなことは毎日のようにありましたよ。何年も前に死んだ人のこととか、随分会ってない親戚のことを脈絡なく言い出して、あれもこれも自分のせいだと取り乱すから、何かに憑かれたのかと思ってねぇ。ああ、そうそう、どっかで飛行機が墜落したニュースを見て、あたしがそう思ったせいかもしれないと真っ青になったこともあったねえ。こっちまで怖くなって、お祓いを頼もうかと思いましたよ」
 恥ずかしさで俯くあたしに肘を突かれ、ばあちゃんは身体をすぼめる。

「千秋さん、家では案外巻き込みが多かったのですね。入院中は上手く隠していましたね。まあ、電話が禁止されていたせいもありますが」
 米田先生はあたしに鋭い視線を送ってから、ばあちゃんに語り掛ける。
「おばあちゃんも本当に大変でしたね。そんなとき、どう対応しましたか?」
 座高の高い先生は、ばあちゃんをのぞき込むようにして目線を合わせる。

「あたしもわけがわからなかったから、知らないよとあしらうんですが、千秋があんまり取り乱すので、電話で確かめてやったこともあります。それで、一旦は落ち着いても、やっぱり心配だから自分で確認すると言い出すんです。親戚に何度も電話がいってしまうと、千秋の頭がおかしいのかと思われるから、必死に止めて喧嘩になってね……」

 声が涸れ、お茶を口に含むばあちゃんに代わり、父さんが続ける。
「千秋は不安がおさまらないと、こんなあたしは生きている資格はないと大声を上げて取り乱し、部屋に閉じこもってしまうんです。いつ手首を切るかと思うと、何をしていても生きた心地がしませんでした。前の病院でも刃物を近くに置くなと言われていたので、家中のを集めて、台所の包丁と一緒にしまい、鍵をかけていました。それでも千秋がカッターやナイフを買ってきてしまうから、お手上げでした。もう、そういうことはないでしょうか?」

 父さんの問いに金先生が冷静に応じる。
「今のところ、強い希死念慮は出ていませんが、このさき絶対に出ないとは言えません。この病気は本当にしつこいことをご理解ください。強迫観念と呼ばれる嫌な考えは、これからも侵入してきます。エクスポージャーが思った通りに進まず、千秋さんが思い詰めてしまうことは十分に考えられます。寛解しても、ちょっとしたトリガーで再発するリスクがあります。刃物の管理は今まで通り厳重にお願いします。心配なときは、すぐに受診してください」 

 父さんは、一瞬落胆したように見えたが、すぐに毅然として答える。
「かしこまりました。引き続き、宜しくお願いします」 

「千秋が変なことを言い出したときは、どうしたらいいかねえ?」
 ばあちゃんが、先生方の顔をかわるがわる見ながら、すがるように尋ねる。

「そういうときは、『さあね』と相手にしなければいいんです。おばあちゃんが大丈夫か確認してやると、千秋さんはそうしないと安心できなくなりますよ。それが千秋さんの回復を妨げてしまうんです。おばあちゃんも、毎回毎回で大変だろうけど、心を鬼にして、巻き込まれないようにしてくださいね」
 米田先生が、おどけた口調でも一語一語をはっきりと発音して念を押す。

「それで、千秋の頭がおかしくなったりしないかねえ?」

「大丈夫ですよ、おばあちゃん。千秋さんは、そういうときに自分で対応できる方法を身に付けました。私が病室で毎日見ていました」
 海宝さんが、ばあちゃんと目を合わせて優しく言い継ぐ。
「千秋さんはお化粧をしたり、五感を開いていま起っていることを感じたりして、嫌な考えと距離をとります。時間はかかるかもしれませんが、おばあちゃんもお父さんも、焦らずに見守ってください」 

「毎日見ててくれたあなた様がそういうのなら、そうなのかねぇ」
 ばあちゃんは神妙な顔で頷く。

 米田先生が力強く言い足す。
「お父さんもおばあちゃんも、千秋さんが確認を求めていないときは、今は落ち着いているねとほめてください。取り乱してしまったときも、怒ったり、落胆したりせず、次に頑張ればいいと温かく見守ってください。千秋さんは、意志に関係なく脳に侵入してくる嫌な考えと年中対峙しています。その戦いは、我々が想像できないくらい過酷なものです」

 父さんは米田先生とタブレットに交互に目を移しながら、メモを取っている。

「他に何を気をつけたらいいかね? あたしはよくわからないから、どうにも心配でね……。この子は高校も辞めちゃって、仕事もしてないから、一刻も早く病気を治して、まっとうな道を進んでほしいんですよ」

 ばあちゃんの言葉に、金先生の右眉がぴくりと上がる。
「ご家族が千秋さんの将来を心配するお気持ちは理解できます。ですが、どうか彼女にプレッシャーをかけたり、ご家族の希望を押し付けるのは控えてください。ありのままの千秋さんを受け入れ、安心して治療に専念できる環境をつくってください。彼女は将来の希望をしっかり持っています。心身が回復したら、そこに向かって歩き出すので、全力で支えてください」

 金先生の言葉は丁寧で、よどみなく平坦に流れていった。けれど、医師としての威厳は、父さんとばあちゃんを圧倒するに十分だった。
 海宝さんから、金先生は冷淡でアクが強いので好き嫌いが別れるドクターだけど、彼を信頼している患者さんは結構多いと聞いた。その言葉がいまほど腑に落ちたことはなく、彼が主治医で本当に良かったと思った。

「金先生のおっしゃる通りです。私どもは、母親がいないこともあり、千秋を十分に理解してやれなかったと思います。まっとうな道に進ませることを優先して、千秋が安心できる場所を与えてやれなかった。これからは、病気からの快復を全力で支えるのは勿論ですが、千秋の自己肯定感を高め、幸せに向かう道を歩めるようにしてやります」

 ばあちゃんは口を尖らせて何か言いかけたが、居心地悪そうに目を伏せる。

「千秋さん、素敵なご家族でよかったわね」
 海宝さんの澄んだ声が重くなりかけた空気を和ませる。

「千秋さんのお母様も素敵な方だったのでしょうね。千秋さんは、真っ直ぐで頑張り屋の魅力的なお嬢さんです。担当させていただいて、心からそう思いました」
 あたしは、海宝さんとやりあった日々を思い出し、反射的に首を竦める。

「親ばかで恥ずかしい限りですが、千秋は死んだ女房に似て、辛抱強い子です。女房も私も、一日千秋の思いでこの子が生まれるのを待っていたんですよ。秋生まれだし、名前は千秋しかないと二人で決めていました」

 目を輝かせる海宝さんを横目に、耳にたこができるほど聞かされた話に溜息をつく。生まれてこなければよかったと思っていたあたしは、誕生日が嬉しいと思えなかった。それを聞いた元婚約者が、あたしの誕生日に結婚式を挙げ、人生で一番幸せな日にしようと言ってくれた。そんなことを言ってくれる人が、このさき現れるだろうか……。

「この子の母親の美晴みはるちゃんは、あたしの遠縁の娘で、子供のときからよくうちに遊びに来ていてね。とってもいい子で、自分の娘のように可愛がってたんですよ。だから、お願いして息子のところにきてもらったんです。美晴ちゃんの忘れ形見だからしっかり育てなくてはと思って、千秋に無理をさせてしまったかもしれないねえ」

 あたしは、父さんとばあちゃんの言葉をどこか突き放して聞いていた。いまのあたしには、家族と暮らせる安堵よりも、先生方との関係が薄くなってしまう淋しさのほうが強いと実感させられた。