見出し画像

天命反転

 南アフリカで、最古の現生人類遺跡クラシーズ河口洞窟を訪れて帰国したあと、僕は途方にくれていた。クラシーズ河口洞窟がハダカ化しても夜露をしのげる場所であること、つまり、クラシーズ洞窟で「重複する突然変異」が起きえたことを確かめたのだが、ハダカ化と言語獲得がどのように「重複」したのかについては、まだ何ひとつ説明できなかった。

 島泰三は「はだかの起原」(2004)のなかで、ハダカ化と言語の「重複する突然変異」が7万5千年前に起きたと論じた。ハダカになったから言語が生まれたのだろうか。逆に、言語を獲得したから、ハダカになったのか。さっぱりアイデアがわいてこない。研究の進め方が思い浮かばないのだ。 

 最初に考えついたのは、かなり怪しい説だ。暖かく安全な洞窟のなかで、男女が向かい合って性交するようになり、相手にメッセージを伝えたいという要求が高まったことで、言語が生まれたとする説だ。ユネスコアジア文化センターに勤務していた大学の後輩に、「人類の最初の言葉は、アイラブユーだったかも」とまことしやかに話したところ、興味を示してくれた。しかしこの説は、オヤジの与太話でしかなかった。

 「はだかの起原」のなかに、珍しいハダカの哺乳類として、東アフリカのサバンナの地下トンネルに暮らすハダカデバネズミが登場する。僕は、上野動物園のハダカデバネズミを見学にいき、飼育係の話も聞かせてもらった。ハダカデバネズミの群れには一匹の女王がいて、群れの成員はその女王の糞を食べることで群れに固有の匂いを共有する。同じ匂いが仲間であることの証明なのだ。そういうことだから、しばらく群れから離れてたために別の匂いになってしまった個体が、敵とみなされて殺された事件も発生したという。興味深い話だが、この話が言語に結びつくのか、皆目わからなかった。

 どうしていいかわからないながらも、僕は洞窟が最も重要なポイントだと考えていた。そこで、床が斜めでデコボコがたくさんある「三鷹天命反転住宅」を訪れた。ここは、現代芸術家の荒川修作(1936-2010)が、2005年に東京の三鷹に建てたものである。ここを洞窟に見立てて泊まったら、身体の記憶がよみがえってこないかと考えた。幸いなことに202号室を借りていた縄文心導の創始者である倉富和子さんが、夏に北欧出張するので、留守番役で部屋を使うことを許してくれた。夜間に照明やエアコンを使わず、洞窟に泊まるつもりで滞在することで何か見えてこないかと期待して、3週間ほど滞在した。

 この家には使用法があった。

● 床を構成するパネルの一つひとつを、ピアノの鍵盤、オルガンの鍵盤、木琴、あるいは小さな太鼓とみなしましょう。
● 少なくとも1日1回は、真っ暗にした住戸のなかをぶらぶらと歩いてみましょう。
● 太陽の光を産出するために、床とは相互に影響しあうようにしましょう。 (以下続く)
● 月ごとにいろいろな動物(たとえば、ヘビ、シカ、カメ、ゾウ、キリン、ペンギンなど)のふりをして、住戸内を動き回りましょう。
(などなど)

 上記の事細かな使用法は、一見するとナンセンスなため無視している人も多いのだが。僕はそれにしたがって生活してみた。僕は毎日のように、床に寝転がって胸をドラミングしたり、手や足で床のでこぼこを打ち鳴らしたりしていた。ある朝、球形の書斎のなかで、突然舌打ちが始まり、それが雄叫びに発展した。もしかしたら、これがクリックかもしれない。
 クリックは、肺からの呼気を使わずに、舌打ち音を口腔内で反射させる子音である。クリック子音を使うのは、世界でも南部アフリカに住むコイサン人(通称ブッシュマン)が用いるコイサン語しかない。そして、ディーコン博士が紹介してくれた言語学者キャヴァリスフォルザによれば、コイサン語は世界でもっとも古い言語である。
 すると、言語進化は、始めにクリック子音が生まれ、その後で母音アクセントを伴う音節が生まれたのではないかとひらめいた。
 音素に「クリック子音」と「音節」の2種類があることは、ちょっと勉強すれば誰でも理解できる。しかしこの2つがどのような関係にあるかは、誰も論じていない。この2つは時系列的につながっているのではないか。
 
 荒川が設計した建築環境のなかで、僕の身体を構成する細胞が刺激され、母音が生まれたときの記憶がよみがえってきたと思われる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?