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濁浪清風 第41回「場について」⑪

 釈迦如来が五濁(ごじょく)の世に生きる凡夫のために、「本願」の因果というかたちの教説を開示された。一切の衆生(しゅじょう)に呼びかけて苦悩の人生を超えていく智慧を、本願の因果を聞思(もんし)するなかに獲得できる方法を開いたのである。親鸞はその教えの中心を、「本願の成就(じょうじゅ)」にあると感受し、なかでも「本願成就の文(もん)」に現れていると見た。「釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文(もん)のこころは、『それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定(しょうじょう)の聚(じゅ)に住す』」(『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』『真宗聖典』536頁、東本願寺出版部)と、その中心の言葉を釈している。願生(がんしょう)するなら、みな正定聚に住するのだ、と。

 浄土に往生することを得るならば、「正定聚」(不退転)の位(くらい)を与えようという本願の言葉を、「本願成就」に立って信受するなら、「願生」の位にすでに正定聚の利益(りやく)を獲得できるのだ、といただいたのである。これは果の位に語られる如来の慈悲の利益を、本願を信ずるなら、すでに因の位に獲得するのだ、ということである。常識的にみるなら、因果を混乱したとしか言えないような解釈である。なぜ親鸞はそこまで主張しようとしたのであろうか。

 この主張の根拠は、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』にあるとされている。すなわち、龍樹菩薩が菩薩十地の問題を論ずるに当たって、初地(しょじ)において菩薩は「不退転地」を獲得できるのだと言い、さらには、どのような発心(ほっしん)の因縁の菩薩(たとい軟心〈なんしん〉の菩薩)であろうとも、この初地の利益が得られることを保証するために、「易行不退(いぎょうふたい)」を表しているからである。易行不退とは「聞名(もんみょう)不退」である。仏の名を憶念(おくねん)するところに与えられる「不退転」の信念である。つまり、初地という菩薩の座が、かならず「無上菩提を得られることを必然とする」ということなのである。仏果を表す仏の名には、因の菩提心に果への必然性を付与する力があるということである。

 必定(ひつじょう)とか正定という信念が人間に開かれるなら、不動の信念(不退転の信念)に立ってこの苦悩の人生を歩むことができる。そのことこそが、因位(いんに)の信心に「不退転」を獲得できると主張する親鸞の意図であろう。そしてそう読むことができる原理を、「如来の回向に値遇(ちぐう)する」ところに見いだしたのが、親鸞の回向(えこう)の教学の意味なのだと思うのである。

(2006年10月)