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私の為に。誰かの為に。

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『森川亮太』

私はどこにでもいるような1人の青年です

産まれてから もう四半世紀近くになり
物心ついた時には 沢山の本に触れていました
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたが
一向に興味の種が尽きないのが最近の悩みです

私は機械類が嫌いではありません
また理系科目が数学も含めて大好きですが
それらの公式を覚えるのは苦手です

私は人の悪い面にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています
近視で乱視な眼鏡男子です
家には仏壇も神棚もありませんが
世界に繋がるPS4とMacBookがあります

私にとって睡眠は快楽の一種です
夢は見ても目覚めたときには忘れています

ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか噓くさい
別居の両親妹弟、犬と兎が1匹ずつ
夏でも襟付きのシャツをよく着ています
私の撮った写真には値段がつくことがあります
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いきなりよくわからない!と思ったそこのあなた。
その通りです、すみません笑

何か見たことあるぞ?or これの元ネタ知ってる。
と思ってくれたそこのあなた!…ぜひ固い握手を←
※答えは後ほど

まずは、このnoteを開いてくれてありがとうございます。
森川亮太と申します。
歳は今年で24。社会人二年生になりました。
現在は六本木の某民放局で、報道番組の映像編集に携わっています。

大人になると、当たり障りのない自己紹介ばかりする機会が増えますね笑
それが大人だと言ってしまえばそれまでですが、少し寂しい気もします。

仕事と家の往復で、最近新しい人との出会いがないなぁ・・・
と思っていた時に、偶然巡り合ったオンラインサロン「箕輪編集室」。
何か面白そうなことが沢山できそうだと直感し入会。
興味のあることに片っ端から手を挙げて関わっていたら、いつの間にか「あ、森川さんですか!?初めまして!」と声をかけてもらえるようにもなっていました笑。
そしてつい先日には、なんとメディアチームのサブリーダーに。

”チーフプロジェクトマネージャー”なんていう大層な肩書きをいただき、本格的にメディアチームの運営に携わることとなりました。

自分のやるべきことは、チームの雰囲気づくり。
手を挙げられる環境、チームメンバー同士の交流をどう形にするか。
そんなことを考えていた時に、まずはチームの皆に、自分のことを知ってもらわないといけないのでは…?と思いました。
そんな時、ふと #自己紹介リレーnote の存在を思い出し、
「よし!良い機会だしここでいっちょ書いてみるか!」
と完全な見切り発車でキーボードを叩いています笑

自己紹介というほどのものにはならないかもしれませんが、自分が今までやってきたこと、今やっていること、これからやってみたいことをつらつらと綴ってみようかと思います。
少し長くなるかもしれませんが、お付き合いいただければ嬉しいです。

〜義務教育から高校生〜  どこにでもいる少年R

親に言わせると子供の頃の私は、とにかくせわしなかったそうで。
色んなものに手を出す、好奇心旺盛な子どもだったようです。

小学校時代はサッカーや水泳を習ったり、
片やオーケストラでホルンという楽器を吹いたりしていました。
(↓こういう楽器なんですが、見たことありますかね?)

通っていた小学校がお抱えの管弦楽団を持っていて(ちなみに公立です笑)
しかも音楽コンクール全国大会常連という超強豪校でした。
5、6年の2年間ホルンを持って、2年とも全国最優秀賞。
小学生がコンサートでベートーベンの運命を全楽章、チャイコフスキーのくるみ割り人形を全曲演奏するような、今考えると笑ってしまう環境で音楽をやらせてもらっていました。
ウソのような、ホントの話です。


中学時代は、そんな文化系から打って変わってバスケ部へ。
スラムダンクの存在すら知らなかったのに、たまたま後ろの席のクラスメートに誘われて部活見学へ。
背が伸びるかも!と期待して始めたバスケでしたが、身長は宮城リョータより少し大きいくらいで止まってしまいました。

歳を超えてしまった今でも、三井寿は私のヒーロー。

同時に、本の虫が本格化したのもこの頃からで、授業中でも御構い無しに机の下で本を広げているくらいの読書少年でした。
それでも、テストの点は取っていました。(←ちゃっかりしてます)
高校受験前になってもその癖が抜けず、保護者面談で親にバレてしまい、泣く泣く小説をダンボールに封印したなんていう笑い話も…

本を封印したおかげか、無事に受かった高校でも引き続きバスケ部へ。
また、入学時に寮生活を選んだため、15歳で親元を離れました。
3年間理系コースに在学していたのですが、得意科目はまさかの現代文。
文系コースとの合同テストで偏差値70を超えることも…笑
自分でも何故理系にいるのか、よくわからない点数を叩き出していました。
この時の現代文の先生は生涯の恩師です。(当時理系ですけどね←)
この先生に出会ったことで、確実に私の人生は大きく変わりました。

そんな恩師から勧めがあって、大学受験は前代未聞の文理同時受験を敢行。
国立前期に理学部を受け、後期に教育学部国語教育科を受けるという暴挙をかました高校三年現役の冬。
当時の担任には、母校の受験史に間違いなく名が残ると言われました笑


…さて、駆足で過去を遡ったのですが、ここで見出しの回収をしましょう。
〜どこにでもいる少年R〜
どこにでもいますね!うん。全くもって普通の少年だ!

…すみません嘘です。かなりいろんなことを経験させてもらってます。
でも何故この見出しにしたかというと、当時の僕は自分のことを本当にそう思っていたからです。

「僕は、普通の、どこにでもいる男の子だ」…と。

今となっては勿体ないとも感じますが、高校生までの世界って本当に狭いですよね。
狭い世界で、誰からも嫌われたくない、”普通”の”優等生”になりたかったのが、昔の自分でした。

〜大学時代〜 "優等生"とは。

文理同時受験の結果、入学したのは教育学部国語教育専修。
理系要素が一切なくなり、文系の王道へ。
高校までの友人は私のことを理系だと思っていて、大学から知り合った人は私のことを文系だと思っている。
なんとも奇妙な人間が出来上がりました笑

でも、この選択も今となっては良かったと思っています。

理論や公式、原理原則と向き合うことで培った論理的思考と、
文章から心理や情緒、人の生き方を知ることで膨らんだ感受性。
理系と文系のそれぞれ良いところを、それぞれの世界の中で知ることができたからです。

そして月並みですが、大学に入ることで世界が圧倒的に広がりました。

大学が絡む活動としては、大学合唱団に所属し、舞台の企画や組織運営に携わったり、大学広報委員に抜擢され広報誌の編集などに関わったり。


またアルバイトでは自動車学校の営業、テレビ局のAD、塾講師を掛け持ちし、就活が始まるギリギリまで、人と関わる仕事をこなしました。

そして教育実習。
小中学校合わせて約2ヶ月、"先生"として教壇に立ち、40人のクラス運営に参加するという得難い経験をさせてもらいました。
今まで「受ける立場」としてしか認識していなかった学校に、「授ける立場」の人間として赴くことで、幾つもの気づきが生まれました。

高校までの私の世界は、クラス1つ、部活1つ、進路1つ。
選ぶ"道"の自由はあれど、選ぶ"数"の自由はなかったのだなと。

どんな生徒にも才能があり、輝く場所がある。
そこには優劣などなく、ただ純粋な可能性がありました。
”いい子”であろうとした自分の視野の、なんと狭かったことか。

人が選べる”道”の多さ、広さを、子ども達から学びました。

そこから自分の中で”脱・優等生”が密かなスローガンに←
自分のやりたいことを、やれる範囲で好きにやればいい。
その代わり、誰も、何も、否定しない生き方をしよう。
頼ったって、迷惑かけたっていいじゃないか。
助けてもらった分だけ、誰かを助けられる人間であればいい。
そう思いながら、日々を過ごすようになりました。

〜就職〜 やりたいこと。自分の価値って…?

そんなこんなで大学も無事に卒業し、ずっと憧れていたマスメディアの世界へ足を踏み入れることになります。
実は就活初期はアナウンサーを目指したりもしていたんです…!

当時エントリーシートに使っていた写真です笑
(Z○P!のスタジオで、カメラテスト受ける所までは残ったりもしました)
同世代によくいたテレビっ子で、華やかな世界に憧れていたというのが多分一番の動機であったと思います。人前で喋ったりするのも好きでした。

ただ、就活を進めていくにつれ、本当に私は”アナウンサー”になりたいのかと、疑問を感じるように。
(以下長くなるので割愛。聞きたい人がいましたらぜひ会った時にでも笑)
紆余曲折あり、現在は報道番組の映像編集という制作側の人間として、テレビというコンテンツに携わっています。

入社してから一年と少し経ちましたが、毎日が刺激の連続でした。

自分の作った映像が見ているテレビに流れた時の感動。

オリンピックやW杯といった祭典を、メディアの内側から見る興奮。

災害などの緊急事態が起こった時の、使命感。

不規則な生活を友人に心配されることは多々ありましたが、そんなことは瑣末なことだと思えるくらい、充実した気持ちで仕事をしていました。

ですが、2年目に突入したある日、気づいてしまったのです。

「あれ…?私最近、仕事を楽しめていないのでは…?」と。

去年オンエアデビューしてから、全国ニュースに自分の映像が流れるたびに親に連絡していた自分。
いつの間にか家族への「録画しといてね!」LINEはなくなっていました。

ニュースを担当するたびに、どんな映像なのかドキドキしていた自分。
気づけば、定石通りに当たり障りなければ良いと思ってしまうように。

良くも悪くも、慣れてきてしまっていたのです。
自ら望んで飛び込んだ世界。やりたかった仕事のはずなのに。
いつしかそれがルーティンワーク…”当たり前”へと変わっていました。

〜箕輪編集室との出会い〜 原点回帰。

職場と家を往復し、徹夜明けをなんとも感じなくなった2年目のある日。
箕輪編集室との出会いがありました。

入ろうとした経緯、入ってから感じたことはこのnoteに。

みの編は、私がこの1年で忘れかけていた「やりたいことを全力で楽しむ!」
という純粋な気持ちを、思い出させてくれた場所。
徹夜明けだって、やりたいことをやればいいじゃないか!
夜勤明けは寝るなんて誰が決めたんだ!(とても暴論ですね…笑)
下の記事は、仕事の徹夜明けでZOZOの記者会見にカメラマンとして参加した時のことをまとめたレポートです。

日を跨いで、活動時間は連続35時間。
徹夜明けで体は疲れ切っているはずなのに、ワクワクした気持ちが止まりませんでした。

「やります!」と言える場があって、支えてくれる仲間がいて、成果を披露できる環境がある。
箕輪編集室という世界は、”当たり前の日常”に染まりつつあった私の生活に、沢山の彩りや刺激を運んできてくれました。

〜ここから〜 これが私の、目指す道。

さて、筆を置く前に冒頭の挨拶を回収しないといけませんね笑
このnoteの始めに書いた詩は、私が敬愛してやまない詩人 谷川俊太郎さんの一篇「自己紹介」をオマージュしたものです。
元ネタが気になる方はぜひ、「谷川俊太郎 自己紹介」でGoogle検索してみてください笑。
谷川さんは21歳で初めての詩集を出し、今もなお現役で詩を書き続ける、現代を代表する詩人の1人。その詩人人生は50年を超えています。
その谷川さんは、自己を紹介する手段として”詩(言葉)”を選びました。

今の私はまだ、誰かが表現してきたものの上でしか自分を語れません。
それでもいつか、”森川亮太”という人間を、自分だけの方法で表現できるような人になりたいと、今はそう思っています。

言葉と遊び、音を選び、刹那を捉え、映像を紡ぐ。
そんな”自分”という価値を持ったクリエイターに。
他の誰でもない、私の為に。

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