「自分を信じる」のは無理がある

寝てると、子どもの見てるアニメから「自分を信じて」という言葉が聞こえてきた。流行歌にも同じようなフレーズ聞くなあ、と思いながら。きっと、カッコいい言葉として認識されてるから出てくるんだと思う。私も自分を信じられたらどれだけいいか。でも私は自分を信じられない。「信」って名前なのに。

自分っていい加減だなあ、怠け者だなあ、やる気ない奴だなあ、と思う。こんな自分を信じろって、ちと無茶だなあ、と思う。信じて期待しても逃げ出すよ、こりゃ、と思う。だから「自分を信じろ」と言われても「いやいや無茶言わんといてください」と言い返したくなる。

ただ、そんな情けない自分を「おもろいやっちゃな」と考えるようにしている。情けないところも、容易に信じられない自分も、全部ひっくるめて「そんな生き物なのか、面白い生態してるなあ」と楽しんでいる。せっかく自分という生き物に生まれついたんだから、この興味深い生き物の生態を楽しんでる。

で、全く期待してないで観察してると、時折「え?」と思う一面を見せてくれる。「アレ?やる気ないと思ってたけど、やるの?へ?」という感じで驚かされる。「ふーん、気まぐれかもしれんけど、こういう一面もあるんだね。オモロイなあ」と自分を観察している。

絶対これだけは守りたい、と思っていたことさえ守れない情けない結果になることもしばしば。そんなとき、私は「情けないやっちゃなあ」と思いつつ、「まあ、それがお前というやっちゃから、しゃーないな」と思う。「ま、次から気ぃつけてな」と声をかけ、一応応援する。

昔は自分を信じ、期待し、それだけに何かしでかしたときは自分を許せず、自分を罵り、傷つけた。しかし長年自分と付き合う中で、自分を責めてもろくなことがないことに気がついた。ふてくされ、イジイジするだけ。うっかりすると自分の失敗を正当化し始める。こりゃアカン、とわかってきた。

ならば、変な価値規準持ち込んで自分を断罪するよりは、価値規準を脇に置き、虚心坦懐に自分を観察し、自分のしたこと、環境を観察したほうがよほどよい、と思うようになった。自分を責めず、よく観察する。すると、次に打つべき手が見えてくる。

信じると言えば、私は自分の「意識」は信じていないけど、「無意識」は信じても構わないかも、と思っている。意識はすぐに価値規準を持ち込み、観察を歪め、自分を正当化したりして逃げをすぐに考える。しかし価値規準で縛りを与えないときの無意識は思いのほか妥当な解決策を思い浮かべてくれる。

私のやることは「はいはい意識さん、あんたはどうせろくなことせんのだから黙っといて」とほうきで掃き出す。そしてなるべく価値規準で汚れていない観察事実を積み上げ、それを無意識に委ねる。すると次にどうしたらよいか、妥当な対策を思い浮かべてくれる。

自分の中には意識と無意識がある。意識はだいたいろくでもないことをしでかすから、信じられない。だから「自分を信じる」なんてできやしない。でも、自分の無意識は、意識に変な動きをさせない限り、意外と妥当な答えを提案してくれる。だから無意識ならそこそこ信用置けると思っている。

ソクラテスはこれをダイモニオーンと呼んでいたらしい。内心の声、とでも言えばよかろうか。この心の声は、「意識」がやかましいと聞こえなくなる。「ちとあんたは静かにしてなさい」と意識をたしなめ、静かに心の声に耳を傾けるようにしている。

山本周五郎作品に「笄堀(こうがいぼり)」というのがある。城兵が全部出払っているときに敵軍が攻めてきた。残っているのは老人と女性、子どもたちだけ。絶望的な状況の中で留守を守る城主の妻は。

まずは情けない自分、うろたえる自分、不安でたまらない自分を見つめた。自分をよくよく観察し、自分の「底」を見極めようとした。しばし時間をかけ「ああ、これが私の限界だ」と、弱い自分を見極め切った。そこから、弱い自分でもできることを探していった。強がるのではなく、弱い自分にできること。

城に残る老人や女子供をうまく動かす自信もない。どうすればよいのかもわからない情けない自分であることも認めた上で、できることを考える。「できなきゃできないでしょうがない、できることをやるだけだ」と腹をくくれた。そこから獅子奮迅の闘いが始まる。

私は、この「笄堀」の主人公が自分を掘り下げていく様子を参考にし、自分の弱さを受けとめ、そこからものごとを組み立てていくようにしている。強がると、途中でビビる自分の情けなさを知っているから、強がりもしない。ビビリな自分、弱い自分でもできることは何か、を探すことにしている。

そうして、自分の弱さも醜さもみんな受容して、「そんな情けない自分でもできることは何か?」と問いを立てると、無意識は不思議と妥当な提案をしてくれる。無理のない、実践可能な方法を。

これを普段から実践できるようにするには、自分を大きく見せよう、立派に見せようという見栄を捨て、情けない自分、醜い自分を受け容れる必要があるとわかってきた。それが「お前、オモロイやっちゃな」。自分の生態を面白がると、虚心坦懐に観察できることに気がついた。醜さも弱さも丸ごと。

醜さも弱さも全部自分。そんな自分の「特徴」を知ると、妥当な対策が見えてくる。道具が手に馴染んでくると、大した道具でなくても色々応用きかせて小技を駆使できるようになるように。自分という不具合の多い自分も、扱い方が見えてくる。

山本周五郎作品に「青べか物語」というのがある。青いペンキで不格好に塗りたくられたその不格好な小舟は、普通の舟ならこう操作すればこう進むだろう、という常識が通じず、まっすぐ進めようと操作すれば曲がり、曲がろうとすればまっすぐに進む。どうにもいうことをきかない。

主人公は何日か格闘したが、どうにもこの舟はおかしい。ついに「お前は青べかなんだ」と諦めたとたん、自在に動かせるようになったという。
「ふつう小舟はこう動く」という「空想」に従わせようとしてる間は、青べかは逆らった。現実の自分はそんなものじゃない、と。

でも、主人公が、青べかは青べかなんだ、こいつの現実に合わせるより仕方ないのだ、ということを認めたとたん、「空想」の舟と比較するのをやめたとたん、青べかは素直に進むようになった。青べかなりの法則に従えば、青べかはその通りに動く。

私は、自分を「青べか」だと考えている。「立派な人間ならこういう場面ではこう思い、こう行動するものだろ」という「空想」上の立派な自分等を想定しない。私はクセの強い青べかなんだ、と考えている。そんな青べかのクセを見抜き、そのクセに応じた接し方をするよりほかない、と考えている。

もしあえて「自分を信じる」という言葉を使おうとするなら、「うん、お前(自分)はクセの強い青べかだな」と認めることにほかならない。「信じる」という立派な言葉に似つかわしくない、現実の醜さを受容する行為となる。だからやっぱり「自分を信じる」というフレーズに無理を感じる。

なんてことを、アニメのセリフを聞いて思った。アニメや歌で、「自分を信じて」という言葉に、多くの人が無理を感じる時代が来るのは、いつのことだろうか。

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