強制される勉強より、能動的につかみ取る学び

「学習には強制が必要」という話を見かけた。そういえばEテレの番組で、子どもが楽しそうに学んでいると勉強しているように見えない、つらそうに取り組んでないと勉強しているとは思えない、という母親が登場していて、ははあ、そういう感覚もあるのだなあ、と驚いたことがある。

しかし、五十歳を超えた今になっても、強制はキライ。強制されたことは記憶から拭い去りたくなる。なんなら別のアプローチで学び直して、強制された記憶を上書きしたくなるくらい。私が指導してきた子どもたちも、強制は大嫌い。

「泣いて馬謖を斬る」という故事がある。孔明が「山の上に陣を築いてはならない」と口酸っぱく注意したのに馬謖は山の上に陣を築いてしまい、大敗の原因となり、その罪で馬謖を切らざるを得なかった故事から来ている。
ではなぜ馬謖は言うことを聞かなかったのか。
孔明から強制されたから。

孔明から注意を受けたことで、馬謖はアマノジャクな気持ちが動いたのだろう。孔明から強制された指示に従うのではなく、山の上に陣を築いても勝てるところを見せて孔明の鼻を明かしたかったのだろう。しかし孔明の読み通り、負けることになった。こういえば、馬謖が愚か者に思えてしまう。しかし。

私には、孔明が指導者として未熟だったのが原因なのでは、と見えてしまう。もし孔明が「山の上に陣を張るな!」と強制するのではなく、馬謖に「もし山の上に陣を築いたら、どうなると思う?」と問いかけていたらどうだったろう。馬謖は優れた人物だから、ふもとにしか水源がないことに気づいたろう。

そうすれば、山の上に陣を築くことの愚かさを悟り、別の場所に陣を張ろうとするだろう。問いかけられたとはいえ、自分で気がつき、自分で策を立てたのだという誇らしさがあるから、きっとその通りにしたに違いない。能動的に見つけた答えには素直に従えるが、強制された答えには逆らいたくなる。

このように、人間は強制されることが大嫌い。強制されて与えられたものは、「どうだ、おかげでよくわかっただろう」と声をかけられても、その恩着せがましさにも腹が立って、記憶から消そうとしてしまう。強制すると勉強嫌いになるばかりか、教わったことも忘れようとしてしまう。

ならば、強制するより、自ら能動的にそれをつかみ取ったのだ、という気持ちになるような学び方の方がよいように思う。
参考になるのは、ソクラテスの産婆術かな、と思う。

ソクラテスは若者に人気があったという。年寄りは若者に説教することが多い中、ソクラテスは逆に若者に問い、答えを面白がる人だった。若者の言葉に「ほう、それはどういうことかね?」と問い、その答えに驚きの声を上げ、「これと組み合わせて考えたらどうなるかね?」とさらに問う。

すると、若者はソクラテスの問いかけに対して必死に考え、「こうではないですかね?」と答える。それにソクラテスは面白がり、さらに問いかける。この繰り返しで、若者は自分の脳みそがいつになく活性化し、自分の口から驚きのアイディアがどんどん飛び出すことに驚いてしまう。

ソクラテスは、問いかけることで相手の思考を刺激し、新たな知が誕生するのを手助けするこの技術を「産婆術」と呼んだ。問いかけると、若者は能動的に考える。その考えにこちらが驚きの声を上げ、さらに問うと、若者は楽しくなり、もっと能動的に考えるようになる。人間は人を驚かすのが大好きだから。

ソクラテスは問いかけの名人であり、驚くことの名人だった。若者は、ソクラテスのそばにいれば知恵の泉がコンコンと湧き、自分がどんどん賢くなるのが分かるので、離れたがらなかった。若者に人気だったのはソクラテスが教えを強制したからではない。能動性を驚きと問いかけで刺激したから。

能動的に、自分で答えを見つける作業は実に楽しい。自分で見つけた答えは決して忘れない。「自分で、自分が見つけたのだ!」という誇らしさがあるから。ならば、指導者は、いかに子ども(若者)が、自ら能動的にその答えに達したと感じさせるかが、腕の見せ所なのだと思う。

強制ではなく、子どもが、若者が、自発的に、能動的に学び取ったと感じられる学びの構造。それをいかにしてデザインするかが、指導者の腕の見せ所だと思うと、育てるって、実に楽しくて面白い作業になるのではないかと思う。
強制はつまらない。学びはやはり能動的にいきたいものだ。

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