蝶の羽に字を書く調査は虐待か?

蝶の写真を撮ってる人が、蝶の羽にラクガキするのは虐待だ!と言い、それをしてる人を注意して回っているという書き込みをFBで見つけた。
きれいな写真が撮れると思ったら羽に字が書いてあるのを見て、残念に思うのだろうけど、致し方ない面があるように思う。

その人は、今はAIがあるんだから羽に字を書かなくても個体判別できるじゃないか、技術があるのに羽に字を書くのは虐待だ、と説く。リクツとしてはその通りなのだけど、それを実施できるかというと、話は簡単ではない。
まずAIを稼働させる予算を確保できるのか。

個体判別できるほどにAIを鍛えるには、かなりの写真データを覚え込ませねばならない。その手間と費用を誰が負担するのか。また、維持管理するにもお金がかかる。
技術的にできるということと、予算的に実施可能かどうかという問題は別。

AIへの置き換えが予算的に難しい場合、羽に発見した場所などの情報を書くことは、昔ながらの手法として確立しており、お金もいらず、低コストで調査することが可能。どこに生息するのか把握することで、生息地と生息地を結ぶ線の形で保護を訴えることができる。

AIへの置き換えが難しいのであれば、羽への書き込みが生態調査が最も確実に行える方法となる。これを「虐待」と強い言葉でその人は非難してるけど、かえってその人の言うように書き込みなくしたら、生態がわからなくなり、政治家に開発を諦めさせるためのデータを示せなくなる。むしろ絶滅を促す。

昆虫の保護は、たまたま発見されたその場所だけを保護すればよいのではなく、移動する途中も保護する必要がある。そのためにはどこからどこへ移動しているのかを把握する必要がある。また、こうした移動は年々変わることがあるらしい。変化を押さえていないと、やはり保護はできない。

またその人は、「研究者がやるのはまだよいが、素人が遊び半分でやるのは許せない」という。それもまた、昆虫研究者の予算の少なさ、人数の少なさをわかっておられない発言だと思う。昆虫の研究は、一般市民の協力なしにはできない状態。予算は少ないし、研究者はずっと少ない。

市民ボランティアが協力してくれるから調査が成り立っている。そのことへの理解が乏しい様子。
きれいな羽の写真を撮れないのが残念なのはわかるけど、自分の欲求を押し通すために、他人にすべての責任を押しつける主張はいかがなものかと思う。

仮に研究者が「羽に字を書くのは写真愛好家から批判されるのでAIの予算つけて下さい」と依頼して通るかというと、難しい。「そんな趣味の蝶のことにかまけてるなら、害虫の研究をやれ」と、実利的なことを言われかねない。予算が通ると思えない。

字を書く、それを読む、という、研究者も手弁当デできるような調査法だからなんとかなる。けど、AIみたいな技術は、どうしてもお金がかかる。その点、研究者にはどうしようもない面がある。

一つ方法があるとすれば、写真愛好家たちが、自分たちで政治家に「羽を識別するAIの予算を確保してほしい」と願うこと。政治家は票になると思うと動く。研究者の訴えは票にならないから動かないけど、市民が動くと話が違ってくる。

蝶の写真愛好家が、少なくない人数で政治家に訴えるなら、予算が通るようになるかも知れない。「インスタ映えの経済効果」なんかをうたって、政治家に訴えてみてはいかがだろう。研究者だけだと「趣味だろ」と言われるけど、市民が動くと「大切な文化だ」と政治家は動く。

でも、やはりAIでの個体識別は難しいかもしれない、という点も注意が必要。羽を広げた瞬間をうまく撮影できたらいいけど、そんなチャンスはなかなか来ないことはみなさんご存知だと思う。ピントがズレたり、遠すぎたり、羽を閉じていたり。うまくいかない恐れがある。

その点、蝶を捕まえて羽に字を書くというのは、蝶へのダメージを少なくして、しかも確実に生態調査できるメリットがある。冒頭の人物が言うようには、AIをうまく活用することは、そう簡単ではないと思う。
だから、安易に虐待などと言わないほうがよいように思う。

総合的に考えると、羽に字を書く方法が、蝶の保護にもつながり、絶滅から免れる比較的マシな方法のように思われる。冒頭の人物は、羽に字を書くのを虐待だとし、やめろと言うけれど、かえってやめることのほうが虐待どころか、虐殺につながってしまうかもしれない。

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