「気づき」考

同じものを見ても「気づき」が得られない人がいる。気づいていることはあるのだけど、それがことごとく以前から知ってるもの、エビデンスがとっくに得られているものだったりする。そういう人は「自分の知っているもの」を探しているだけだったりする。

ナイチンゲールに次のような言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
何十年同じものを見ていても、観察ができているとは限らない、という。なぜだろう?

たぶんそれは、「知っているもの探し」しているからだ。目の前に未知のことが起きていてもそれは目に入らず、既知のことだけを探し、それを見つめ、知っているものだったと確認し、満足する。自分の知るエビデンスそっくりのエビデンスを見出して、それで満足してしまう。しかしそれは気づきではない。

ドラえもんが宝探しの箱を出した。のび太はママのネックレスを入れ、よりスリリングに。しかし地図の場所に行くと、埋蔵金探しをしている人がすでに掘り始めていた。ママのネックレスの危機!のび太はジャイアンやスネ夫にも手伝ってもらって掘り始める。

ジャイアンが何か古い木箱を掘り出した。しかしのび太は「これじゃない!」と言って捨ててしまう。
さらに掘り進めて、お目当ての宝箱が。無事ママのネックレスを回収。ジャイアンやスネ夫にはプラスチックのお宝を山分け。そしてさっき放りだした木箱を別の人が開けて大判小判がザックザク。

「自分の知ってるもの探し」をすると、視野が狭くなる。もしかしたらお宝かもしれないものまで「違う」と言って、ゴミ扱いする。そして自分のすでに知っている、十分エビデンスの積み重なったものだけを探し、それを見つけると安心する。でもそれは、すべて既知のもの。

ナイチンゲールの言った「観察」とは、自分の知らなかったもの、気づいていないことを探すことのように思う。既知の中では見たことのないものを探す行為、それが観察なのだと思う。そしてそれを見出したとき、「なぜそんな奇異なことが起きたのか?」、その仮説を紡ぐためにさらに観察する。

そして「もしかしたらこういうことが起きてるからこんなことになるのでは?」と仮説を紡ぎ出す。まだ証拠は揃っていないけど、検証可能な仮説を紡ぎ出す。これが「気づき」だと思う。気づきとは、知らないもの探しによって紡ぎ出された仮説のことのように思う。

そうした気づきを得るには、知識があったほうがよいように思われるが、どうも必ずしもそうではないらしい。iPS細胞を生み出した山中氏は「知らなかったからできた」と話している。それまでの研究の失敗の数々を知りすぎていたら、最初から諦めていたかも、と。

うっかり知識を持ってしまっている場合は、「知ってるもの探し」に陥りやすい自分を抑え、「知らないもの探し」を意識的に実行する必要がある。新しいもの、目にしたことのないものを探す意図がないと、「気づき」を見つけるのは難しい。

見たことのない、事前には想定していない、未知な「宝箱」に気づくにはどうしたらよいか?少なくとも「知ってるもの探し」をしている中でも、「あれ?これ何?」と留保する、「知らないもの探し」の感覚を失わないようにしておきたい。そして未知のことを見つけたとき、

これは何でしょう?と、自分の仮説を添えつつ、いろんな意見を聞く姿勢を保ちたい。これまでのエビデンスと一致しないことこそ、喜びたいと思う。それこそが気づきなのだから。そしてその気づきが新発見につながり、エビデンスを新たに蓄積することで新理論に育てることができるのだから。

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