驚くことができない3つの原因

(子どもや部下の様子に驚いた方がよいとわかっていても驚けない、というご意見に対し)

驚くことができない原因として、3つ考えられます。
①期待・当然視
②教える
③観察不足
まず、①について。
これぐらいのことはできて当然と当然視したり、「これくらいのことはしてほしい」と期待してると、その通りのことが起きても驚けなくなります。期待した通りのことが起きただけだから。

②について。教えてしまうと、教えた結果としてできてほしいと思ってしまうから、①の状態になってしまいます。すると、驚けなくなってしまいます。
③について。そもそも、その子が今何ができていて、何ができないのか、観察できてないことが原因のことが多いです。

観察できてないのに、根拠なしに「できるはず」と思い、できても当然だと考えて驚かず、できなければ「なぜできない?」と苛立ったり。期待や当然視は、よく観察できてないことから発生していると思います。
観察と、期待・当然視との関係は、「庖丁」というエピソードが教えてくれています。

庖丁(ほうてい)は、包丁の語源ともなった伝説的料理人です。王様の前で牛を一頭さばく様子は、まるでダンスを踊るかのよう。瞬く間にきれいにさばかれました。王様は「さぞかしよく切れる包丁なのだろうな」とお尋ねに。それに対して庖丁は次のように答えました。

「普通の料理人は切ろうとします。頭の中の牛のイメージ通りに切ろうとして刃が骨や筋に当たり、欠けてしまいます。私は今までの経験をいったん忘れ、心の目で牛をよく観察します。すると骨と筋がどう流れてるのかが見えてきます。私は筋と筋のスキマに刃を差し入れるだけ。ハラリと身が離れます。

切らずにスキマに刃を入れるだけですから刃は欠けるどころかますます研ぎ澄まされ、もう何年も研いでいませんが、ますます切れ味が増しています。」
この庖丁の言葉は、観察不足だからこそ期待や当然視が起こり、だからこそ現実との不整合が起きることをよく表しています。

子どもを普段からよく観察していると、何ができて何ができないのかがわかります。教えなければ、たやすくは解決方法に気づけず、できるようにならないこと、その困難さが実感できます。すると、当然視したり期待することがいかに無茶なことかがわかります。

ですから、私は子どもに変な期待や当然視をせず、ありのまま観察し、何ができて何ができないのかを把握します。そして教えないところを設けます。教えないから解決法に気づくことの困難さがわかり、期待や当然視はしなくなります。すると、「できない」が「できる」に変化したその奇跡に驚かずにいられなくなります。

なぜ料理の達人である庖丁は観察したのでしょう?何百頭もさばいてきた経験があったのでしょうに。でもおそらくは、だからこそ観察したのでしょう。

何百頭さばこうと、一頭として同じ筋の流れ、骨の形をしている牛はいないことを、経験から学び、経験から学ぶから、経験に囚われずに虚心坦懐に目の前の牛を観察することの大切さを思い知っていたのでしょう。

驚けないのは、ご自身のお子さんを十分に観察せず、「常識」という名のフィルター通して見るために、できて当然、と考えてしまうのではないでしょうか。過去の常識に囚われず、目の前のお子さんや部下の様子をよく観察してみて下さい。1人として同じ人間はいません。同じ人間がいないということは。

人によってできること、できないことが実に様々だということがわかります。苦手としてたことができた、知らなかったことを答えられるようになった、できなかったことができた。そうした奇跡に驚かずにはいられなくなるはずです。

期待や当然視をせず、教えすぎないようにし、よく観察してみて下さい。すると、驚かずにいられなくなるように思います。

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