優等生人はなぜ指導力がないのか

「名選手必ずしも名監督ならず」というけれど、優等生は子どもの指導をうまくやれるとは限らない。優等生人の中には「頭いいのは生まれつきいい、そうでないやつは生まれつき悪い」と考えることで、自分に指導力がないわけじゃない、ということにしたい人がいる。でも単に、指導力がないのだと思う。

なぜ優等生だった人の一部に指導力がないのだろう?私が観察するに、「驚けない」からではないか、という気がする。
とある京大生が子どもの指導をするにあたって、「何でわからないのかがわからない」と言っていたのを印象深く覚えている。読めばわかるはずなのにわからないことが不思議で仕方ない、と。

優等生の中で、勉強のできない子を理解できない人がいる。その人たちを「優等生人」と呼ぶことにすると、優等生人は、どうやら「これがわかって当たり前、できて当たり前」と考えてしまいがちならしい。当たり前だから、子どもが何かをできるようになっても「当たり前」、できなければ「不思議」扱い。

これは子どもの意欲をひどく阻喪(そそう)する接し方。できても喜んでもらえず、できなかったら「こんなこともできないの?」という反応をされるのだから。「つまりあんたは俺のことをバカだと思ってるんだな」と子どもは察する。見下してくる人間の指導なんか受けたくなくなってしまう。

そして、自分の能力に自信を失ってしまう。自信を失わせる勉強というものがイヤになる。これでは意欲の湧きようがない。優等生人の指導がうまくいかないのは、自分のようにできるのが当たり前で、できない人間は生まれつき頭が悪いという信念を持っていることが大きな原因のように思う。

ここで「信念」という言葉を使ったけど、オルテガというスペインの哲学者は「信じて疑わない思い込みのこと」としている。信念って、「俺の信念は!」と熱く語るときのカッコイイ言葉のように思われているけど、なるほど、思い込みの部分あるよなあ、と思う。

優等生人(優等生だった人の一部)は、自分は他人より頭がいいという体験を内面化して、「自分は生まれつき頭がいいに違いない、他の人たちは生まれつき悪いみたいだけど」という信念を持ってしまうらしい。そうすれば自分は高貴な存在でいられるから、そう信じたくなるのも無理はない。

しかしそんな信念を持ってしまうことで、ある重要な能力を失ってしまう。指導力。人の能力を引き上げ、伸ばす力を失ってしまう。自分という高貴な存在よりも愚かな人間が大半、と、見下す信念が伝わるから、その指導を受ける子どもたちは意欲を失ってしまうらしい。

ただし、優等生人のもとでも高い成績を示す例外的な存在がある。飛び抜けて勉強のできる子。こうした子を優等生人は「自分と同類」と思って接するので無害でいられる。しかし、優等生人の指導力によるものではなく、単にその子の力で伸びているだけ。優等生人の指導力を証明するものではない。

他方、優等生人とは違い、優等生だった人の中でも指導の上手な人がいる。また、自分は優等生ではなかったけど、指導が甚だうまい人がいる。こうした「指導人」は、優等生人と何が違うのだろう?私は、「驚く」と「観察力」の2つではないか、と思う。

優等生人は「こいつは頭が悪い」という「信念」を持ってしまいがちなので、観察力がない。自分の考えに都合のよい現象や結果(「やっぱこいつが頭悪いせいだ、自分の指導のせいではない」と、自分を正当化できる現象や結果)だけを取り上げて「やはり自分の信念は正しい」と、信念の強化ばかりする。このため、自分の信念を愛するばかりで、観察する力を失ってしまう。

ナイチンゲールは、「観察」について、次のような言葉を残している。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
この言葉から考えると、優等生人は観察力がないことがよく分かる。

優等生人は、自分の信念を補強する事実しか見えない。だから何十年指導体験があったとしても、自分の都合のよい現象しか目に入らない。観察できていない。
では、観察とはなんだろうか?何十年患者のそばにいても、何十年子どもを指導していても、観察できないとはどういうことだろう?

私の考えでは、観察とは「自分の知らないこと、気づいていなかったことを探し求めること」。ところが優等生人は自分の知ってること、都合のよいことしか見ない。だから観察できないのだろう。
かたや指導人は。

この子は何で引っかかっているんだろう?これができない原因はなんだろう?この子に何が付け加わるとこれが理解できるようになるんだろう?と、自分の知らないこと、気づかなかったことを探そうとする。これが観察。そして「もしかしたらこれなのでは?」と仮説を立て、それを試す。

でもあくまで仮説だから、本当にそうなのか確信が持てない。どうかこれでうまくいってほしい、と祈りながら、手探りすることになる。そしてそうした試行錯誤の一つがうまくハマったとき、「やった!」と驚くことになる。祈るような気持ちのとき、「驚く」という反応は生まれる。

すると、指導されていた子どもも嬉しい。自分でもできるとは思えなかったことができて驚くし、指導してくれてる先生も驚いてる。驚きを他者と共有できたことが嬉しいし、できない原因を突き止めて手当すれば自分にもできるんだ、という発見の喜びもある。

じゃあ、他のできないことも、できない原因を突き止めて手当すればできるようになるんじゃないか、という気がしてくる。すると、学習が楽しくなってくる。能動的に変わる。ゲームでますます強い敵を倒したくなるのと同じ感じで、学習が楽しくなり、能動的に取り組むようになる。こうなると。

高校生になっても分数がわからなくて諦めていた子どもも、「粘り強く、わからない原因を突き止めればできるようになる」と思えるようになって、前向きに取り組むようになる。能動的、自発的学習ができるようになっていく。ここまでいけば、以後は指導人が少しアシストするだけで伸びていく。

指導人には、自分の知らないこと、気づかなかったことに気づこうとする「観察力」がある。でも観察でわかることは「もしかしたらこうかも?」という、確信の持てない仮説でしかない。だから試行錯誤するときでも「どうかこれでうまくいきますように」と祈る気持ちになる。祈る気持ちだからこそ。

うまくいったときに「驚く」ことになる。子どもは自分の成長で大人を驚かすのが大好き。自分がこれまでできなかったこと、知らなかったことを「できる」「知る」に変えることができた時に、一緒に驚いてくれる大人がいることは、とても誇らしく、嬉しく、自信になる。大の大人が驚いてくれるのだから。

でも、優等生人はこれができない。「あ、それできたの?まあできて当然だからね。じゃ、次」とそっけない。できるようになっても驚かない。頭の悪いやつができてもそれはたまたまだろうと見下してるから驚けない。そんな態度をとる人に指導されてる子どもはたまったものじゃない。

何が一つ出来るようになっても驚くどころか、見下す契機にされてしまうのだから。これでは気持ちがくさってしまう。その様子を見た優等生人は、「やはり頭の悪いやつはこんなもの」と、自分の信念を強化・正当化し、自分の観察力のなさ、驚けないという自分の欠点に目を向ける事ができない。

これらが、優等生人の指導力のなさの原因だと思う。
・自分は頭がよく、他は悪いという信念をもつ。
・信念を補強する事実しか見てない観察力のなさ。
・できて当然と思うから、できても驚かない。
・驚かないし見下しがちだから子どもの意欲を阻喪する。

他方、指導人は次のような特徴を持つように思う。
・できない原因が何かあるはず。それを突き止めて手当すれば解決すると考える。
・原因を突き止めるために観察する。
・観察の結果、こうではないかと仮説を立てる。
・仮説がうまくいくように祈る。
・うまくいくと驚く。

すると子どもは、指導してくれた大の大人を驚かすことができたのが嬉しくなる。原因さえ突き止めて手当てすれば自分にもできるんだ、という意欲が湧く。楽しくなってくるから学習に能動的になる。だから成績が伸びていく。

人を指導する際にとても重要なことは、自分は優秀で他は愚か、と考える「信念」を抱かないことだろう。そして子供が何かで躓いているときは、それに原因があると考え、それを観察によって突き止めようとすることだろう。でも観察で気づけるのは仮説まで。仮説どおりにやってもうまくいくとは限らない。

だから祈るしかない。その祈りが通じ、うまくいった時に素直に驚く。それが子どもの意欲となり、学習の前向きさにつながる。元優等生だった人は、優等生人になることなく、指導人になって頂きたいもの。

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