「教えない」…子どもの手柄を奪わない

この内容がずいぶんバズったけれど、「教えない」教え方にたどり着いたのも、この学生の指導から。 それまでは、知識のない学生や子どもは当然教えなければならない、教えなければ伸びるはずがない、という「呪い」に私も囚われていた。
https://note.com/shinshinohara/n/n58737391137b

何しろこの学生は当時無気力で、何を話しても「はあ」と生返事でもあればいい方。何を教えても何もひっかからず、何も学ばないことがはっきりしていた。だから私は「教える」ことをこの学生に対しては放棄することにした。教えても仕方ないから。

で、やったのが、冒頭の記事に書いたように、問いかけ。問いかけると、何かしら考えて答えることになる。問いかけられることは受動的かもしれないけれど、考えることも答えることも能動的な行為。そして、能動的に考え、答えてくれたという能動性が出現した「奇跡」に驚くようにした。

答えを面白がり、「なるほど、それを聞いて思い出したんだけど、こういうことがあるらしい。それと組み合わせて考えたらどうなるだろう?」と、私の考えを加えながら問いかけると、新しい情報と組み合わせながら考え、答えてくれる。すると面白いことに。

考え、答える、という能動的な行動をするためか、こちらの提供した情報も理解しながら、ついでに記憶もしてしまいながら、思考を組み立てるようになる。こうして問いかけ、答えてもらうということを繰り返していくうちに、「何をしたらよいか、出尽くしたみたいだね、じゃあ、それやってみてくれる?」

そういうと、自分で考え、自分の口にしたアイディアだからか、「試してみたい」という気持ちになっている。だから仕事に取り掛かるにも、前向きで能動的になっている。しかも、問いかけのやり取りの中で出てきた情報を主体的に考えて取り込んでいるので、理解が深い。

このため、教えなくても深く理解し、問題点も把握できていた。「なんだ、教えなくても問いかけることで深く考え、理解し、記憶もしてしまうのか」と気が付いた。それ以来、私はこの「教えない」教え方を、学生や子どもたちに適用するようになった。

「教えない」と言っても、問いかけの際に「そういえば」と、こちらの知っている情報を加味しながら問いかけるので、情報提供は行っている。でもいわゆる「教える」という感じではない。「教える」という行為はどうも、「こちらの教えた通りに理解し覚えろ」というプレッシャーが伴う形態。

しかし問いかけの際に提供する情報は、相手がどう理解し、利用するか、あるいは記憶するかどうかも相手任せ。ただ情報を提供するだけだから。でも、情報提供のすぐ後に「それを踏まえた上だとどう考えたらよいだろう?」と問いかけるものだから、その情報を材料に、主体的に考えざるを得なくなる。

こうして、能動的主体的に情報を料理する過程で、深く理解し、記憶もしてしまうらしい。だとしたら、「教える」という形態にこだわるのではなく、時折情報を提供しながら問いかけ、相手に考えてもらい、答えてもらう方がいいじゃないか、ということに気がついた。

この方法はソクラテスの「産婆術」を参考にしている。ソクラテスは若者に大変人気な老人だったらしい。普通の老人は昔も今も説教臭く、若者に教えようとする人が多いもの。ところがソクラテスは若者から話を聞きたがった。若者からいろんなことを教えてもらおうとした。

若者が語った言葉を聞き逃さず、「え?それどういうこと?教えてほしい」と言い、答えてもらうと驚き、感心するとともに、「君の話でこういうのを思い出したのだが、組み合わせて考えるとどういうことが言えるだろうか?」と再び若者に問いかけ、考えてもらう。すると若者は。

ソクラテスの情報を取り入れたうえでウンウン答えを考えることになる。するとソクラテスはまた驚き、面白がり、さらに情報を加味して問いかける。これを繰り返すと、若者は、それまで自分だけでは考えたこともなかったような発想、アイディアが自分の口からあふれ出すので驚いてしまう。

ソクラテスの問いかけに答えているうち、若者は自分が知者、賢者になったかのように様々な知恵が自分の頭脳から生まれていくのを感じて、嬉しくなったらしい。だからソクラテスのそばを離れたがらず、ソクラテスと話をしたがったらしい。

ソクラテスは問いかけによって相手の思考を促し、新たな発想を生み出すこの手法を「産婆術」と呼んだ。産婆術の威力がわかるエピソードはプラトンの著作「メノン」で登場する。数学の素養がないソクラテスと友人宅の召使が、図形を前にして問いかけを繰り返しているうち、新しい公理を発見してしまう。

私はこの「産婆術」を、冒頭の学生で試してみよう、と考えた。問いかけの際、こちらが提供する情報をどう理解するかは相手任せ。その上で、学生がどう考え、どう答えをひねり出すかも相手任せ。こちらはともかく情報を加味しながら問いかけ、出てくる答えに驚き、面白がるようにした。

頓珍漢な答えが出てくるのも多い。しかしそれも「ははあ、この情報をそうやってとるとそうなるのか」と、思ってもみなかった理路で考えるその面白さに驚かされる。精確に理解したら、それはそれで「スゲエな、君!」と驚かされる。面白がりながら、また問いかける。

こうして問いかけ、答えてもらうというやり方だと、実に理解が深く、自分事として課題をとらえ、早く自分が思いついたやり方を試してみたいと意欲も湧いているし、実際試してみることで記憶が刻まれ、忘れなくなる。「なんだ、教えるよりはるかに効果的じゃないか」となった。

この学生の指導を終えたころ、多動症(今でいうADHD)の中学生の指導を頼まれた。その子は実にそそっかしく、説明をしても「わかったわかった!もうできるよ!」と安請け合いをすぐする割に、理解はできていないし記憶もしていなかった。この子も「教える」ではどうにもならなかった。

数学の課題を与え、「分からなかったら教科書を見てごらん」といって、横で新聞を読んでいた。「先生、わかんない。教えて!」私は新聞を置き、その子をまっすぐ見つめて「教科書にやり方が書いてあるよ。わからなかったら読んでごらん」と伝えた後、また新聞を。

「ヒントくらいちょうだい!ねえ、お願い!」と言われたけど、また新聞を置いて「大丈夫、教科書にやり方が書いてあるから、読んでごらん」と伝えた。その子は渋々教科書を広げ、パラパラめくりながら「この辺かなあ」と私の目を窺った。私は「そう思うならそのあたりを読んでごらん」

やった、アタリがついたと喜んで読んでみたら、まるで見当違いの場所。「ねえ、先生!いじわるしないで教えてよ!」と、ちょっと怒り始めて。私は新聞を置き、まっすぐその子を見つめながら「大丈夫。君なら理解できる。教科書を読んでごらん。やり方が書いてあるから」と伝えた。

「わ・か・ら・な・い、って言っているのに!」とキレてしまい、突っ伏して泣き出した。私は「大丈夫、君なら必ずわかる。落ち着いて教科書を読んでごらん。やり方が書いてあるから」と言い、しばらく見つめていた後、再び横で新聞を読み始めた。その子は泣き続けていた。

やがて少し感情が収まったのか、でも「この人は本当に教えてくれないんだ」ということを痛感したのか、これ見よがしのため息を「はあ~!」として、仕方なく教科書を最初からめくり始めた。すると最初の方に、課題と似たような記載があるのを見つけた(そりゃそうだ、中1の最初の課題だから)。

「先生、ここ、似てる」私は「よく気がついたね。落ち着いて例題をよく読んで、やり方を見てごらん」というと、何しろ教科書を読んだことのない子だったから時間はかかったけれど、例題を読み終え、そのやり方をマネして課題を解き始めた。「先生、やってみた」私は新聞を置き、どれどれ、と拝見。

「正解!」と大きな花丸を書くと、すごくうれしそう。「教えられずに、よく自分の力だけで解けたな」と声をかけると、「いやあ、ここ、似てると思ったんだよね!」と大興奮。「その調子で教科書を読んでは解いてごらん」というと、「うん!」と元気な返事。勇んで取り組み始めた。

教科書の例題を落ち着いて読み、そのやり方をマネして解けば理解もでき、解くこともできると気がついたその子は、どんどん読み進んで学習するようになった。それが軌道に乗り始めた時、私はわざと「あ、それのやり方教えてやろうか」というと「教えないで!自分の力で解くから!」と拒否。

自分の力で教科書を読み解き、解決の方法を発見するという、能動的に主体的に解決することの快感、自己効力感ともいわれる達成感が強く、その快感を「教える」という行為で汚されたくない、損なわれたくない、という意識に変わったらしい。

「教える」と、子どもは受動的にならざるを得ない。何かを理解したとしても、それは自分の功績ではなく、教えた人の手柄に。手柄の横取り。けれど教えられず、自分の力で読み解き、解決方法をマスターした場合は、手柄は自分のものに。そっちのほうが楽しいことに気がつくと、学習意欲に火がつく。

その子で「教えない」教え方の方が、はるかに子どもが学習に能動的主体的になり、達成感が強まり、学習意欲に火がつくことを確認できた。それ以来、私は子どもにも、学生にも、スタッフにも「教えない」教え方をするようになった。するとみんな、主体的能動的に学び、楽しそうに取り組むように。

どうしたわけか私たちは、知識に乏しい人間を指導するには「教えなければならない」と考える「呪い」にかかっている。しかしその呪いは本当にその通りなのだろうか?「教える」という行為は、もしかしたら教える側の自己満足のためのものになっていないだろうか。

「俺が教えたからお前は理解できたのだ」「お前が成績を伸ばしたのは私のおかげ」と、子どもの頑張りを自分の手柄にしてしまう現象は実によく見る。まだ子どもが小学生の間は問題にはなりにくいが、反抗期を迎える中学生になると、親が手柄を横取りするのに我慢ならなくなる。

教える人に反発を覚えやすくなる。「教える」という行為は、実践する人の手柄を横取りする行為になることも多い。だから、「教える」人の下には、指示待ち人間になってしまう人が多くなる。頑張っても自分の手柄にすることができず、その状況に諦めてしまって、言われた通りに動くだけの指示待ち人間。

自分が頑張ってもみんな教える人の手柄にされてしまうものだから、面白くない。面白くないけど立場的に逆らえないので、仕方なく指示待ち人間となって、消極的反抗をすることで、報復する。教える人はその無気力さを見て、「俺が教えなきゃこいつはダメだ」と思い込み、自画像をより膨らませてしまう。

けれど、指示待ち人間、無気力人間を生み出しているのは、実は「教える」ことに原因があるのではないか。教えなければ子供や若者は成長することがない、というのは果たして本当なのだろうか。むしろ教えることで子供や若者の成長する力を削ぎ落しているのではないだろうか。

子どもや若者の指導で大切なことは、教える側が手柄を立てることではない。「自分が教えたおかげだ」という自己満足を得ることでもない。子どもや若者が成長すること。学ぶことを楽しみ、楽しんで学ぶからどんどん成長する。その状態を作ることが指導者の役目。だとすると。

「教える」ことの弊害をよく観察し、従来の「教える」とは違う、別のやり方を工夫してみることが大切かもしれない。重要なのは、子どもたちが、若者たちが、意欲的に学び、様々なことを習得していくこと。そのためには、子どもや若者の能動性が高まることが大切。能動性が高まるには。

学ぶことそのものが楽しくなるような構造、デザインが大切。だとしたら、指導者が「教える」ことで、子どもの学ぶ楽しみを損ねたり、達成感を奪ったりすることは、よくないことだろう。それよりは、子どもが「自分の力で解いた!理解した!」という達成感を味わえる構造を作ったほうがよいだろう。

それには、「教えない」こと。教えないことにより、子どもや若者が自ら考え、理解しようとする構造を用意すること。そして見事、自分の力でそれを達成できた時、「よくやり遂げた!」とハイタッチし、驚く人がそばにいるようにすること。その構造があると、子どもは、若者は、意欲的に学ぶようになる。

どうしてもわからなさそうなときは、情報を加味しながら問いかける。「ここ、こうなっているね。だとすれば?」と、情報をヒントとして提供することで、足踏みしていた引っ掛かりは取りつつも、あくまで子ども自身に考えてもらい、答えてもらう。すると、子どもの能動感を損なうことはない。

指導者の力を借りるのは最小限にとどめ、ほとんどを自分の力で克服した、と思える構造を用意する。克服した時、横でその様子を見て驚き、一緒に喜ぶ人がいる、という構造を用意する。すると、子どもは、若者は、能動的に楽しく学ぶようになるように思う。

これは子どもや若者だけでなく、職場のスタッフでも同様に接している。すると、自分の力で答えを導き出す快感を味わうためか、自分で考えるようになり、自分で解決したがるようになる。私は最小限のヒントと問いかけをするだけで、みんなが自発的に動いてくれるので、とても助かる。

「教える」という呪いから離れ、いかに子どもや若者、スタッフが学ぶことを楽しみ、課題を解決することを楽しめるようにするか、そのデザインを心がけたら、事態は変わるように思う。「教えない」教え方、みなさんもぜひ工夫をしてみて頂きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?