観察は遊びと学びの境界線を消す

昔オリンピック出場も確実視されていたスピードスケート女子の選手が、転倒を繰り返し成績を出せなくなっていたという報道があった。その報道によると、スピードスケートで最も重要な筋肉を集中的に強化した結果、他の筋肉とのバランスが悪くなり、転倒を繰り返すようになったという。

その後、スポーツ選手は「余計な練習」をするようになり始めた。それ何の役に立つの?と思えるような練習を積極的に意識的に取り入れるようになった。その理由は、様々な筋肉を鍛えることでバランスの良い体力強化を目指すとともに、体の動かし方を体に覚えこませることが目的なのだと言う。

これはいわゆるお勉強にも通じる話だと思う。子どもが勉強嫌いでなんとか勉強させようと焦る親は、ついつい図鑑や本を読むというスタイル、あるいは机に向かって勉強するというスタイルを子供に取らせようとしてしまう。手っ取り早く最も効率よく成績をあげようという気持ちが前のめりになっている。

しかしこうした学習法はバランスが悪いし、冒頭のスピードスケートの選手のように、学習内容に偏りができてしまう。何よりもその学習法は面白くない。つまらない。だから続けるのがとても苦痛になり、余計に勉強嫌いを助長してしまう。

私はアホなことをしながら、面白がりながら学ぶのが一番だと思う。いわゆるお勉強のスタイル、本を読んだり図鑑を見たり机の前に座る、そんなスタイルは忘れてしまって、ありとあらゆる遊びから学び、楽しめばいいと思う。

娘(笑1)はことのほかすみっコぐらしが大好きで、レゴを組んでもすみっコたちのお家を作ってばかり。でも見ていて面白いなあ、と思うのは、人形がぴったり収まる寸法に作ること。空間認識がしっかりしていないとできない。好きだからどんどんうまくなったのだろう。

息子(小四)はビー玉転がし系のおもちゃが大好き。クボロをはじめとして、ドラえもんのコロガスイッチとかを組み合わせていつも何かしら作っている。こういうのをやっていると、当然ながら重力のことも頭に入るし、あまりに急激なカーブだとブレーキがかかったりなども分かるようになる。

大工仕事でクギを打つの、子どもは大好き。ずっとやっている。これなんか、中学で習うベクトルとそっくり。クギの向きとトンカチの軌道が一致していないとまっすぐに入っていかない。トンカチの重心の真下にクギがないとゆがむ。重心というのもやっている中で感得する。

キャッチボールをやっていれば、やがて、腕を振るときの軌道が円で、その円から伸びた接線がボールの軌道になることに気がつく。そうした体験は、中学数学の基礎にもなる。接線がキャッチャーに向かうには、円ではなく運動場のような楕円に近い方がやりやすいことにも気がつく。

ペットボトルで水遊びしていたら、満杯のペットボトルを逆さにして、口を風呂の水面にくっつけると水が出ていかない不思議な現象にぶちあたる。やがてどこかで気圧の説明に出会うと、「それでか!」と気がつく。

ホースを水に沈め、片方の口を親指でとじながら風呂の水面より低くすると、口を離したら水がどんどん流れ出ていく。サイホンの原理というやつ。ここでなぜ水が流れるのか、一緒に不思議がると、いろんなことに気がつく。

風呂にある鏡は曇る。その曇りをよく観察すると、小さな小さな水滴がビッシリ並んでいることに気がつく。ここで子どもと一緒に不思議がる。「なぜ隣と水滴とくっつかずに、ドーム型に離れているのか?しかもすごく均一に離れているのはなぜなのか?」

こうした観察と不思議な思いは、いずれ水の表面張力とか、ガラスと水の濡れやすさの力のせめぎ合いなのだろうとか、さまざまな気づきの基礎になる。
息子は赤ちゃんの頃、蛇口から出る水の糸をつかもうとしてもつかめないのを不思議がっていた。これも考えてみたら不思議。

水の糸を観察してみると、糸状に伸びていたのが球状にちぎれて落ちていくようになる。なぜ途中までは糸状でいられるのか?なぜある程度下にまで落ちると、水玉に分離して落ちていくのか?それらを不思議がることは、将来、重力加速度と水の粘性、表面張力とかの気づきになるだろう。

自転車はなぜ歩くより早く進むのか?ギア比とか、てこの原理とか、さまざまなことに気がつく基礎になるだろう。日常の中にいくらでも学びがある。というか、日常こそ学びの宝庫。本や図鑑に書いてあるのはその一部でしかない。

豊饒な体験、観察した経験を持っている子どもだと、本や図鑑の説明をみて「そういうことだったのか!」と気がつく。乱雑に見えた世界が、法則で整然と整理できるということに気がついて驚く。そのギャップがあるから、本や図鑑も楽しめる。しかし。

日常にあふれ返っている現象をバカにし、遊びを見下し、本や図鑑を読みなさい、では、体験経験が不足しているため、「そうだったのか!」感がまるでない。ただ訳の分からないことが書いていて、それを覚えなさいと命じられているようで、つらくなる。

火おこしは大人でも熱中してしまう遊び。非常に難しい。これができるようになると、燃焼という複雑怪奇な現象について、体験経験が蓄積する。そうした体験経験の蓄積があった上で、「燃焼とは、燃料と酸素が結合しながら高熱を発する現象」と聞いて、「だからか!」と腑に落ちる。

火おこしを経験すると、熱い灰がたまらないとなかなか燃焼が安定しないことに気がつく。熱い灰が「活性化エネルギー」を乗り越える条件を用意してくれるのだと気がついて、「だからか!」となる。遊んでいるから本や図鑑の記述に驚くことができる。面白い!と思える。

もっともっと日常の中で遊び、遊びの中で観察し、観察して気がついた不思議を親子で共有し、「あれはなんでなんだろうね?」と寝かしておき、子どもがテレビや漫画や本や図鑑を眺めて「あの不思議の理由が分かった!」と言ってきたら、フンフン、ホホウ、へええ!と驚けばいい。

親が教えもしないのに、自分でメカニズムを理解しようとし、それを親に説明できるという「奇跡」に驚き、面白がればよいのだと思う。すると、子どもは得意満面、再び日常の中に不思議を見つけ、そのメカニズムを解明しようとのめりこむ。

私もYouMeさんも子どもと日常で遊び、遊ぶ中で観察し、不思議を見つけ、互いに仮説を出し合い、その秘密を寝かしておく。やがて子どもがどこかでヒントとなるものを見つけ、親に教えてくれる。親として、「よくもまあ、自分で見つけたな」と驚いていれば、また子どもは驚かそうと企む。その繰り返し。

遊びの中に学びはあり、学びはそのまま遊びであり、日常の中に学びはあり、その学びは遊びであり、本や図鑑は日常体験を知識に結晶化させる触媒として働くが、それは日常体験がないとそんな反応は起きない。遊びの中で学ぶから本も図鑑も活きる。

子どもと日常の不思議に気がついた時、私もYouMeさんも、まともに推論したり仮説を立てるとは限らない。「小さなおっさんが夜中にコッソリやっているんじゃないか」というべらぼうな仮説を言ったりして、子どもに「そんなことないよ!」と突っ込まれたりしている。でもそれでいい。

不思議に思ったことがあり、そのとき親子で楽しく遊びながら冗談を言い合いながら、そんなことがあった、ということが大切。それが記憶のフックになり、やがて「そうだったのか!」という理解と気づきにつながる。それまでは本人の中で寝かすだけ寝かしておけばよい。

アホなやりとりを膨大に蓄えると、アホなやりとりと別のアホなやりとりが結びついて、「そうだったのか!」になることが多い。私もYouMeさんも、できるだけ豊饒なアホなやりとりが増えるように心がけている。それが学校で学んだ時に結晶化するのを知っているから。

遊びの中に観察を。日常の中に観察を。「観察」は、遊びと学びの境界線をなくしてしまう、重要な媒介者。観察すればどんなことも学びになる。そして、どんなことも遊びになる。観察し、不思議を見つけるという遊び。本や図鑑はそうした遊びの中では、副次的なものでしかない。

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