「自分に厳しく」ではなく「自分に優しく」

子どもに怒ってしまって反省、もう怒らないでいようと心に決めたのにまた怒ってしまった。そういって自分を責めている親御さんが多い。「叱らない子育て」という本がたくさんあるのを見て、「ああ、私は叱ってばかり、怒ってばかりだ」とさらに自分を責める親御さんが増えているように思う。

私は思う。まずはご自身に優しくしてほしい、と。私はこれまで、自分を責めてろくなことが起きたことがない。自分を責めると不思議なもので、無意識のどこかで「いやだって、あいつがあの時あんなことしたから」「こんなひどいこと言われて怒らないほうがおかしい」という言い訳が湧いて出る。

無意識の中で自分の正当性を訴える声がこだましているのに、問答無用に黙らせ、従わせようとする。すると、また似たような場面に出会ったとき、意思で抑え込んでいた無意識が破裂する。「リクツなんか知るか!腹立つもんは腹立つんじゃ!」よけいに怒り方が爆発的になり、後でひどく後悔することに。

日本の火山が爆発的になってしまうのは、溶岩に粘りがあって「フタ」をしてしまうからだという。中で圧力が高まり、抑えきれなくなって爆発的噴火をしてしまう。そう、フタをするから爆発的になってしまう。

自分を責め、「もう決してこんなことはしない」と心に決めることは、本音にフタをし、むしろ内部にマグマを貯めてしまう。怒るにはそれなりの理由があるのに、それを認めてもらえない不満がたまり、かえって本番で爆発してしまう。また強く反省する。爆発する。その繰り返し。

私はそれで何度も失敗していると気がつき、「自分に優しくする」ことにしてみた。なぜ私はあのとき、そんなことをしてしまったのだろう?そうか、そういう理由があったのか。あの時怒ってしまったのは、仕方ないね、と、自分の心の奥底の心にも耳を傾け、それを受け入れるように。

「過去はもう起きてしまったことだから仕方ない、では次からどうすればいいだろう?」と問いかけた場合、ついつい「強い決意で次からは同じことをしないようにする」という答えが出てくるのだけれど、私はここで「自分に優しくする」。いやいや、君はそんなに強くない。弱いことを認めたうえで。

弱い私でもできることは何か、考えようじゃないか、と自分に声をかける。私という存在は、すぐサボろうとするし、ズルをしたくなるし、逃げ出そうとする弱い人間。そんな弱い人間でも同じことを繰り返さずに済む方法はないか、徹底して「優しく」考える。

疲れていると我慢が利かないな、というのが体験的に見えていたら、いかに疲れないようにするかを考える。「いや、でもあれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」という声が心の中にこだまする。なるほど、それもしなくちゃ、という気持ちはわかる、と、自分の気持ちを否定しない。その上で。

「しなくちゃ」を全部していると、疲れちゃうよね。疲れると、これはやらないようにしよう、と心に決めていたことも守るのが難しくなるよね。なぜなら、私は疲れると心をまともに保てない弱い人間。そんな弱い人間でもできる方法はないだろうか?と自分に問いかける。

人間というのは、働きづめで動ける強い存在ではない。休まなきゃいけないし、気晴らしも必要だし、時には理由もなしにグータラする時間もないと、笑顔を失ってしまう生き物。笑顔を失い、余裕を失うと、いろんなことができなくなってしまう弱い生き物。私もそのご多分に漏れない生き物。

ならば、私というか弱き生き物が、弱いなりに笑顔で楽しく最大のパフォーマンスを発揮できるようにするにはどうしたらよいか。常にゆとりを確保し、無理をさせず、8割くらいの運転を続けるのが最大のパフォーマンスを比較的持続させることができるのではないか。

でも私たちは、ついつい自分に厳しくすることが大事だと思い込んでいる。頑張れないのは自分が弱いからだ、強くなればいいのだ、と、自分にさらに厳しくしてしまう。厳しくすればするほど余裕を失い、弱ってしまうにもかかわらず。

「フランダースの犬」で登場するパトラッシュという犬は、前の飼い主にひどく鞭打たれていた。荷物を運ぼうにもパトラッシュは疲れ切っていた。なのに鞭打たれ、怠け者呼ばわりされ、ついにパトラッシュは心が折れ、死にかけてしまった。そこを主人公のネロが介抱して、何とか命を取り留めた。

ネロはパトラッシュをいたわり、仕事をさせようとしなかった。しかしパトラッシュはネロの役に立ちたいと、自らミルク壺を運ぶ荷車を引こうとした。パトラッシュは見違えるように強くなり、かつては引けなかったような重い荷車も引けるようになった。

これは小説の中の出来事だけれど、とても象徴的な話のように思う。荷物を運べと鞭打ち、怠け者と罵られては、心は挫けるし、気力は失われる。でもネロのようにこちらを労り、疲れないようにと気を配ってくれる人のためなら意欲は増し、もっとこの人のために動きたい、と願うもののように思う。

私たちの心も、ネロがパトラッシュに見せたような接し方が大切なのだと思う。自分の心に鞭打ち、厳しく叱咤し、罵ることは、前の飼い主がパトラッシュの心を殺したのと同じことになるのではないか。むしろネロのように、心を温め、心の地力が湧いてくるように接することが大切ではないか。

自分を責めないように。自分を罵らないように。自分を罰しても、自分に厳しくしても、事態は案外改善しない。せいぜい、他者に「自分で自分をこれだけ厳しく罰しているから、それに免じて許してね」という言い訳をする効果があるくらい。でも世慣れしている人は、これはむしろ有害なことを知っている。

それよりは、自分の弱さを認め、本音が語る言葉にも耳を傾け、それを否定せず、認めたうえで「では、弱い自分でもできる方法は何なのか、無理のないやり方を考えよう」と、ゆとりをもった接し方をしたほうがよいように思う。

「自分に厳しく」なんて、他者への言い訳、ポーズでしかない。自分は反省している、だからそれ以上責めないで、という。でも、そういう反省のポーズは、むしろ同じことを繰り返す原因になってしまう。それよりは、自分に優しくしたほうがよいように思う。それが、同じ失敗を繰り返さないコツだと思う。

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