「あの子たちはサボってばかり」という不満への対処法

不登校や引きこもりの子どもたちを支援する活動をしている学生さんたちと話す機会が。実によく子どもを観察しているし、普段から接している様子がよくわかった。楽しかった。
こうしたお兄ちゃんお姉ちゃんと出会える場があるって素晴らしいな。そういう場が全国で増えたらいいな、と心から思う。

マジメに動物の世話をする子もいる一方、しなければならないことから逃げまくり、遊んでばかりの子がいる、と。マジメな子は「どうして私たちばかり」と不満に思うのだけれど、どうしたらいいだろう?という質問が。あ、面白い問いかけ。

ムラっ気のある子は、「ねばならない」と言われるととりあえず逃げる、という習性を持っている。大人の思枠通りに動くのが大嫌い。自分の能動性を何より大切にし、受動的に何かやらされるというのがたまらなくイヤ。そういう子に、「ねばならない」は本当に相性が悪い。

私は、動物の世話を「義務(ねばならない)」ではなく「権利(してもかまわない)」にしたほうがよい、と答えた。「ねばならない」だと逃げまくるけれど、早いもん順の「権利」になったとたん、ムラっ気のある子は奪い合うようにやったりする。

典型的な事例は「トムソーヤのペンキ塗り」。遊びに出かけようと思ったら、おばさんから壁のペンキ塗りを命じられたトム。普通なら嫌気を挿すところだが、トムは一計を案じ、ともかく楽しそうにペンキ塗りを始めた。そこに友人が通りかかった。「なんだトム、用事を言いつけられたのか」とからかった。

「ペンキ塗りってのは難しくてね、いろいろコツがあるんだ」といって相手にせず、熱心にペンキ塗りを続けると、友人があれ?と不思議な顔をした後、しばらくして「なあ、トム、俺にもそれ、やらせろよ」と言った。トムは「ダメダメ、これはとても奥深いんだ、そう簡単に任せられるかよ」と断った。

断れた友人はますますやってみたくなり、「なあ、ちょっとやらせてくれよ、このリンゴあげるからさ」と頼み込み、トムは不承不承、「ちょっとだけだぞ」と言ってやらせた。そうこうするうちに、通りかかった友人たちがトムに贈り物してペンキ塗りを順番でやらせてもらうという構造の出来上がり。

もし動物にエサをやるというのに、この「トムのペンキ塗り」を応用するなら、「エサやりというのは多すぎても少なすぎてもダメな、難しいこと。だから先生がやる、いや、むしろやりたい。でも、早い順で手を挙げた子がいたら、やらせてあげなくもない」という構造にしたとしたら。

大概の子が「はいはい!やってみたい!」と手を上げるだろう。「よし、じゃあ順番ね」といって、エサのやり方を指導。そのとき、基本的なことを伝えた後、「お、袋からエサを出すの、うまいこと適量出したね。」と、ほんのちょっとしたことに驚いて見せると、子どもはうれしくなる。

自分から当番を買って出たいと言わないとやらしてもらえない、となると、子どもは面白いもので、当番すませた途端にまた次の当番に申し込む可能性が高くなるように思う。もし当番をすっぽかしたら、数か月エサやりさせてもらえない、という構造だと、権利を失うものかと熱心になったりする。

ムラっ気のある子は、「トムのペンキ塗り」法がかなり有効。たとえばおもちゃの片づけをしろといってもしない子。まあ、うちの子だけど。YouMeさんが一計を案じた。「お母さんが全部片づけてやる!」と猛然と楽しそうに片づけだすと、子どもたちも遅れをとってなるものかと、猛然と片づけだす。

ムラっ気のある子は、一つのことに関して、まったくムラっ気を見せない。それは「楽しいことは逃してなるものか」という習性。この習性を生かせば、子どもは楽しんで集中して取り組む。「ねばならない」は大嫌いだけど、楽しいことは大好き。

離乳食を始めてしばらくすると、赤ちゃんはよそ見ばかりするようになる。しかも、こちらからは顔が見えない方向ばかり。仕方ないから、この辺が口か?と思って見当をつけてスプーンを運ぶと、口が閉じていて床にボロボロ~、と食べ物が落ちる、ということしばしば。そこで私は一計を案じた。

スプーンを赤ちゃんの正面にホバリング(空中停止)。赤ちゃんが首を伸ばせばなんとか届く位置。そこに停止したまま、ひたすら待つ。すると、よそ見していた赤ちゃん、食べ物乗せたスプーンが前に受かんていることに気がつき、「どうぞ」とばかり、口を開ける。でもそこで口に運んだらまたよそ見する。

だから、そのままホバリング。すると、赤ちゃんは一向にスプーンが来てくれないので、自分から首を伸ばし始める。しかし届くギリギリの距離。私は「届くか?届くか?」と実況中継しながら見守る。するとついにスプーンをパクッ。「やったー!届いた!さあ、次はこっちの角度だ!届くかな~?」。

こうすると、赤ちゃんにとって「スプーンに口が届くかどうかゲーム」になり、よそ見するよりこっちのほうが楽しいので、脇目も振らず、少し離れたスプーンに首を伸ばすというゲームに熱中する。この方法を編み出してから、私は離乳食で苦労しなくなった。こぼす確率もグンと減ったし。

「ご飯だよ!」と呼んでも、おもちゃで遊んだり絵本を読んだりして動こうとしない子どもたち。そりゃ、食卓にいつついてもご飯は逃げない。でも遊びは今やめてしまえば消えてしまう。というわけで、遊び続ける子どもたち。いつまでたっても食卓に着かない子供たち。そこで私は一計を案じた。

「もんだーい!指の数は何本でしょう?」指を一本立てて待つと、子どもたちは何事かと思って私を見て、「いっぽーん」と声をそろえる。「当たり!次は難しいぞ!これは?」「さんぼーん!」「大当たり!さあ、今度はもっと難しいぞ!これは?」「じゅっぽーん!」

「大正解!さあ次は、誰が食卓につくのが早いか、競争だ!よーい、どん!」子どもたちは一斉に食卓に向かって走り出す。
食卓に着くまでに、指当てクイズ、そして競争、という遊び、楽しみを挟んだから、子どもは我先に遊ぼう、楽しもうとする。

お風呂に入ろう、とYouMeさんが声をかけても入ろうとしない子どもたち。そこで私は一計を案じた。「これからいう三つの選択肢の中で、誰とお風呂に入りたい?1ばん、お父さん、2ばん、お父様、3ばん、おとん。さあ、誰と入りたい?」というと、「おかーさーん!」

「なんだと!お父さんと入れ!」というと、キャーキャー言って、お母さんと一緒に風呂場に逃げ込む。「一緒にお風呂入りたがっているお父さんから逃げる」というゲームにして、お父さんという怪獣の手から逃れてお母さんと一緒にふろに入る、というゴールを設けた格好。そして、一人残された寂寥感。

子育ての世界では、長らく「ねばならない」でがんじがらめにすることが主軸になっていた。お風呂に入らなければならない、片付けをしなければならない、宿題はしなければならない、当番はきちんと守らなければならない。
しかし、子どもは楽しみを求める生き物。特にムラっ気のあるこどもはなおさら。

ならば、ムラっ気のある子もまじめな子も、一緒になってワイワイキャアキャア言いながら楽しみ、すべてをこなしていけばよいように思う。実際、トムがやってみせたようにペンキ塗りは奥が深い。動物のエサやりも、体調を見極めながらやるので奥が深い。決して単純ではない。だから楽しい。

どんなことも楽しんで、ゲームにしてしまえばよいと思う。宿題だってなんだって。家のお手伝いだってなんだって。すると、子どもたちは楽しんで、進んでそれに取り組む。熱中する。ムラっ気のある子は集中力があるから、なおさら。すべてをゲームにして、楽しんでしまえばよいように思う。

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