「ありのまま」考

「アナと雪の女王」の歌、英語ではlet it go(手放そう)と歌っているところ、日本語の歌詞では「ありのまま(の自分)で」と翻訳。日本ではたぶんそう訳したほうがウケるし、実際ウケた。でも微妙に意味違う。日本では「自分らしく」とか「ありのまま」という歌詞が結構目につく。

古ーいけど、渡辺美里「悲しいね」にも「自分らしく」、槇原敬之「どんなときも」にも「僕が僕らしく」、TUBEには「あなたはあなたのままでいてね」と、そのまんまの題が。
他人からどう見えるかなんて気にせず、ありのままの自分でいたい、という願望が、日本は強い気がする。

それだけ他人の目を気にして生きているということなのかもしれない。昔は「世間体」をよく気にした。自分たちがどう見えるか、ということを気にしていたわけだけど、今や住んでいる町は知らない人だらけの日本社会。「世間」から、もっと身近な人からの見え方にシフトした気がする。

「陽キャ」という言葉があるらしい。陽気なキャラクターということらしいのだけれど、友人知人から受け入れられるには、この陽キャを演じなければ、という「呪い」にかかっている人は少なくないらしい。無理をするから疲れ、「本当の自分」との落差が大きくて、嫌になるらしい。

私は仲人Tさんのツイッターやブログのファンなんだけど、結婚という究極の共同生活をしようという男女の仲をとりもつのに、この「ありのまま」がキーになることがあるらしい。そりゃ、結婚した後、うっかりしたら(?)死ぬまで一緒に暮らすのに、ずっと陽キャを演じ続けるのは無理がある。さりとて。

「ありのままの自分を愛してほしい」というのも、無理があるらしい。死ぬまで一緒に暮らすかもしれないのに、相手への配慮を欠いた状態を暗示しかねない「ありのまま」は、単なる厚かましさに映る恐れがある。実際、「ありのまま」を相手に要求する人は、そう受けとめられることが多いようだ。

一方で、人間心理は面白いところがあるようで、「ありのままの自分」を愛してくれる人には尽くしたい、という気持ちが湧く、というのは実際あるように思う。「ありのままの自分」を許容してくれる人なんて、この世に滅多に出会わないから。そんな貴重な人には尽くしたくなるのかもしれない。

働かないことで有名(?)な人がいて。「これくらいの仕事するの、当然だろう!」と怒る人が多かった。私はそうした人だと承知していたので、一切期待していなかった。が、頼みもしないのに用を片付けてくれたのに気がつき、「あ!ありがとうございます!助かります~!」と言った。そしたら。

他の仕事をうっちゃっておいても、私の仕事は率先してやってくれるようになった(それはそれで問題な気がする)。私は、仕事にやる気がしないという「ありのままのその人」を認めて、その上でほんの少しでも私のために動いてくれたら感謝する、をしていたら、好循環が生まれた。

子どもの相談に乗るとき、大切にしていることは「であるべき」「ねばならない」を忘れること。子どもから嫌われる、いわゆるお説教は、「であるべき」「ねばならない」という評価軸を100点として、子どもをそこからマイナス何点、と、減点式になっている。これでは子どもは無気力になる。

私は、初めて出会う動物の観察を行う生態学者、あるいは初めてコンタクトする民族を観察する文化人類学者のつもりで、「であるべき」「ねばならない」という、自分の文化圏の評価軸を脇に置き、虚心坦懐に観察する。すると、「へえ!」と素直に驚く発見が続く。そうした前向きな反応があると。

固く心を閉ざしていた子どもも、心を開いてくれる。「であるべき」「ねばならない」からいかに君は逸脱しているか、というお説教ばかりする大人と違い、自分そのものを観察し、そのものを面白がってくれる、ありのままの自分を面白がってくれる、と気がつき、安心するらしい。

「素」の自分を出してもこの人は面白がるばかりだ、と思うと、意欲がわいてくるらしく、この人をもっと能動的な形で驚かせてみたい、となるらしい。すると、子どもは変わっていく。メキメキ変わっていく。ただ、大人になると。

自分で自分に「であるべき」「ねばならない」の呪いを強固にかけていることが多く、自分を受け入れてくれる人に出会っても「いやでもしかし」と、自分から呪いに舞い戻る。そこが厄介。呪いの年数が長いと、呪いもなかなか解けない。そんなの呪いでしかないのに、自ら呪われに行く。

仲人Tさんの話を読んでいると、「ありのままの自分を愛してほしい」という人ほど、逆説的だけれど、「であるべき」「ねばならない」の呪いが強い気がする。その呪いが強すぎて呪いが呪わしく、呪いを呪って「ありのままの自分」でいたいのだけど、そういう気持ちになるのは呪われたままだから。

私はなんとなく、経験則なのだけれど、他者の工夫、努力、苦労に驚いていると、比較的こちらの「ありのまま」を許容し、むしろ好きでいてくれるような気がしている。
コップに水を汲んで持ってきてくれたのが、果たして誰かに言われて渋々持ってきたのであっても、「気が利く!」と驚き、喜ぶと。

次から、のどの乾いてそうなタイミングを見計らって持ってきてくれることが多い。その時、本当に驚かされる。「ありがと~!ほんと、気が利くね!」
相手へのちょっとした工夫、気遣いに気がつき、それに驚いてくれる人には、もっとやったげよう、という心理が働きやすいらしい。そしてそういう人は。

私が欠点だらけの人間だったとしても、そういったものもひっくるめて、好意を抱いてくれることが多いように思う。「ありのまま」の自分を好きになってくれる。ありがたい。こっちは、相手の好意に驚いているだけなのに。

相手への気遣い、工夫に驚くと、相手は欠点もひっくるめたありのままの自分を好いてくれる。そうした人が現れやすい。もちろん、相性があるので、そんなことしても嫌う人は嫌う。まあ、そうした人はいるものなので、この際ノーカウント。好きでいてくれる人だけ考えればよいように思う。

「ありのままの自分を愛してほしい」という人は、「やってもらうこと」への要求がちょっときつい気がする。愛情欠乏症になって、まずは自分に愛情注いでください、そうでないと与える側になれません、と、ちょっと余裕を失っている気がする。でも、ありのままの自分を愛してもらうには。

「感謝」という「驚き」がとても大切なように思う。今日は会ってくれてありがとう。話をしてくれてありがとう。笑顔を見せてくれてありがとう。私の問いかけに応えてくれてありがとう。
そうしない選択肢もあったのに、そうしてくれた、という驚き。それが嬉しい、と顔に出し、口に出すこと。

そうして感謝し、驚くと、全員ではないが、少なからずの人があなたに好意を持つ。少なくとも悪からず思う。どうしても我慢できない点だけは「ごめん、ここだけ直して」というかもしれないけれど、それは逆に言えば、そこさえ直せばつきあいたい、という気持ちになっているということでもある。

「ありのままの自分を愛してほしい」と口にしてしまう人は、どうも余裕を失っていることが多いように思う。たとえ相手が何かしてくれても「そんなのは当たり前だ、もっと、もっと優しさをくれ」と、要求が激しいケースを見ることがある。こうした場合、ブラックホールのように感じて、人が遠ざかる。

優しさを要求する前に、ふとした行為に驚き、感謝することができると、よいのだけど。そこから関係性が改善していく。相手の好意に驚き、感謝する、というのは、当たり前のようで意外と出会いにくいプレゼント。そのプレゼントを出せる人に、人間は優しくしたくなるものらしい。

あまりにも「であるべき」「ねばならない」に縛られ、がんじがらめのために、人の好意も「そうあるべき」と当然視し、感謝できなくなってしまうと、人間関係は好転させることが難しくなる。そんなことはない。好意はめったに得られない貴重なもの。まさに有難いもの。

ありのままを(比較的)愛してほしいなら、人の好意に敏感になり、驚き、感謝することが大切だと思う。感謝は人間関係を好転させる大切な要素。ありのままを愛してもらおうとする前に、まずはちょっとしたことにも感謝するマインドが、とても大切な気がする。

ありのままを愛してほしい、が前面に出ると、もらうことばかり考えている厚かましさ、ととられるので、損をする。もったいない。さりとて、陽キャを演じ続けるのも疲れる。
私は、相手のちょっとした好意、工夫に驚き、感謝する、というのが、一番省エネでお勧めだと考えている。

自分じゃないキャラを演じなくても、感謝はできる。驚くことはできる。ありのままのあなたでいながら、相手に好意を持ってもらいやすくなる。相手の好意に驚き、感謝する。ほんの些細なことであっても。人間関係は、それで大きく改善することが多い気がする。

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