トシをとって丸くなる?

若い頃、とんがりまくり、周りと衝突しまくっていた人が、トシをとって丸くなるというのは、どういう現象なのだろう?「カドがとれて丸くなった」と言うが、本当だろうか?カドがとれてタダの人、普通の人になったのだろうか?なんか、違う気がする。

「すくすく子育て」という番組が好きでよく見るんだけど、出てくる先生方、みなさん優しくて、親御さんの悩みに寄り添う人ばかり。
ところがある時、子どもの頃は問題児で、若い頃は衝突ばかりしていた、と、お二人くらいが自ら暴露。笑顔が絶えず、慈顔と言える風貌からは想像できないけど。

あ、でも、確かに気性が激しい人じゃなきゃあんな的確なアドバイスできないかもな、とも思った。一般的に信じられてる通説無視して、自分がよく見られようなんて欲も捨てて、今、目の前の親御さんの悩みに寄り添えるのは、気性が激しくないとできないのかもしれない。遠慮なんかしないからできること。

良寛さんの木像を見たことがある。果たしてご本人にどれだけ似せたものかわからないけど、非常に気性の激しいお顔をしていて、ちょっと衝撃だった。けれどそれでいろいろ合点が行く気もした。何しろ良寛さんのエピソードは、常軌を逸しているものが多いからだ。

旅の途中、茶屋に寄ると、「こんなものしかございませんが」と出てきたのは、僧侶が口にしてはいけない生臭さ物の魚の煮付け。しかし良寛さんはうまい、うまいと言って食べた。それを横で見ていた若い僧侶は顔をしかめ、「私はいらない」といって断った。

旅籠に泊まると、良寛さんと若い僧侶が同室に。蚊がひどく、若い僧侶は全身ボリボリ、とても寝ていられやしない。ところが良寛さんは気持ち良さそうに寝ている。「よくこんな蚊の多いのに平気で寝ていられますね」と言ったら、良寛さんは「なに、何でも食う代わりに食われることにしてるだけさ」。

若い僧侶は衝撃を受けた。自分は蚊をやっつけようとバシバシ叩いていたのに、良寛さんは言葉通り、蚊に食われるまま、泰然自若。自分の未熟さを思い知ってしまった。良寛さんはそれに気づき、「すまないすまない、余計なことを言った」と謝った。

良寛さんの家の床からタケノコが伸びてきた。良寛さんは喜び、そのままに。しかし天井でつかえて伸びにくそう。そこで天井に穴を開けてやろうと天井のわらに火を。すると燃え広がり、小屋が燃えてしまった。周囲の人は家が燃えてしまった良寛さんが心配。ところが良寛さんは。

「タケノコが燃えてしまった、かわいそうなことをした」。
そんな優しい人かと思ったら、お城からお迎えが来て、ぜひ大きなお寺の住職になってほしいと連絡が来たら、「たくほどは風が持てくる落ち葉かな」と置き書きして逃げてしまった。

良寛さんは子ども等と毬をつき、タコを上げる優しいおじいちゃんとして描かれているけど、僧侶に対しては非常に厳しかったらしい。大寺院の大僧侶でも遠慮会釈なく批判する激しさがあったらしい。一般の人に見せる慈顔と、その気性の激しさが結びつかなかったけど、木像を見て納得できる気がした。

私が好きな良寛さんのエピソード。小舟に乗ると、船頭は「コイツが良寛か」と、何をどう聞いたのか、懲らしめようと考えた。舟を揺すり、水の中に良寛さんを落とした。袈裟を着ていて泳げない良寛さん。ああ、もう溺れ死ぬ、という頃合いに、船頭はニヤニヤしながら引き上げた。すると良寛さんは。

怒るどころか「あなたは命の恩人です」と言って、両手を合わせて感謝した。向こう岸に着いてからも、良寛さんは深々と頭を下げる。船頭はしばらく呆気にとられていた。自分がわざと落としたのに、もう少しで死ぬところだったのに、なぜ感謝を?

多分良寛さんは、自分を水の中に突き落とした船頭の悪意は無視している。もう死にそう、殺されても仕方がないその瞬間、船頭に「援けてやろう」と仏心が垣間見えたことに感激したのだろう。良寛さんはその仏心に手を合わせ、感謝したのではないか。船頭はその後、激しく後悔したという。

良寛さんは恐らく若い頃、非常に厳しい修行をしたのではないか。その結果、宗派などにとらわれず、どんな人にも心に潜む優しい心根を育み、それを拡大することに生涯をかけていたのではないか。良寛さんにとっての仏道とは、そういうものだったのではないか。

良寛さんはある村で悪党と間違われ、首だけ出た形で生き埋めにされ、ノコギリ引きにでもされそうな絶対絶命の状況に陥った。そこにたまたま良寛さんの知人が通りかかり、誤解が解けて助かった。知人はカンカンになって怒った。「なんで人違いだと主張しなかったんですか!殺されるとこでしたよ!」

良寛さんは「そうだと思ってるんだもの、殺されるより仕方ないじゃないか」と答えた。
私はこのエピソードを知って、たまげてしまった。よほど激しい気性の人が、とんでもない修行をしないとこんな境地に立てやしない。良寛さんは単に丸くなったのではない。気性の激しさが死ぬまで伏在している。

一見、人当たりのよい「丸さ」は、戦略的丸さの面があるように思う。激しさを激しさのまま表に出しても何の解決の糸口にもならない。表面上は愚かに見えるほどの丸さで人を心の底から揺さぶる丸さ。これは気性が激しくないと実践できない。

昨日のWeb飲み会では、若い頃、気性が激しく、今は笑顔を絶やさないようにしてる複数の方の話が出た。笑顔でニコニコしてる方がうまくいくことに気がついたのだという。私もその一人。激しくぶつかるより、笑顔で包んだ方がうまく回ることを、トシをとって学んだところがある。

棟方志功は若い頃気性が激しく、自分の芸術論に絶対の自信を持ち、他の芸術家たちをバカにしていた。しかし柳宗悦と出会い、江戸時代の無名の農家が作った民芸品の美しさを知り、衝撃を受けた。以来、それまでとは打って変わって、素人の人の話も聞き、ヒントにしてありがたがったという。

たぶん、棟方氏は、ただ丸くなったのではない。自分の芸術に足りないものを自覚し、どんな人からでも貪欲に吸収してやろうと戦略を転換したという方が正しいだろう。「芸術論に無知でもあんなに美しい民芸品が作れる、ならばどんな人からでも学べるものはあるはずだ」、と。

自分の考えを押し通し押しつける激しさから、相手をよく観察し、自分の実力を見極め、手持ちのコマで最善の手を打つ形へ。それが一見、激しさを潜め、丸くなったように見えるのかも。けれど、現実を変えてやるという燃えるような炎はそのままな気がする。エネルギーの使い方が巧くなっただけなのかも。

気性の激しい、協調性のない尖った子どもを見ると、私は少し楽しみだったりする。それは欠点ではなく、その子の特徴、長所。たぶん、子どもの間はぶつかりまくるが、そういう子はぶつかることで他では得られない学習をしている。大人になってからが楽しみ。なのに子どもの頃から丸めなくてよいと思う。

西郷隆盛は若い頃非常に気性が激しかったという。下級武士が藩主に意見するなど、気性が激しくなければできることではない。暴れ馬みたいな西郷を育てようとした島津斉彬自身も、恐らくは若い頃、気性が激しかったのだろう。後に西郷は、ヌーボーとした風貌となり、一見愚かに見える姿になった。

気性の激しさは、将来が楽しみ。集団にうまくなじめず、ぶつかってばかりなのも楽しみ。まあ、ぶつかられた人は災難だけど、人を育てるのには、そうした衝突もまた学びの一つなのだと思う。学べば、丸くなる。それはたくさんの武器やテクニックで、カドの周囲を埋められるようになるから。

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